その翼はまだ飛べる ~一年 夏・理雪~

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その翼はまだ飛べる ~一年 夏・理雪~

「何をやっているんだ、そんなところで」  残業を終え、いつものようにコーヒーの入ったマグカップを手に防火扉を開ける。  暗がりの中で、見慣れた生徒が両膝を抱えてうずくまっていた。半開きの防火扉から校舎内の明かりが漏れているおかげで彼女の姿を確認するのに苦労はない。しかし、日が長いとはいえ、この時間には辺りはすでに闇に包まれている。  彼女は確か、演劇部だったはずだ。我が校では夏季の部活動は午後七時までと決められている。ちらりと時計を見ると、時刻はもう午後八時を回るところだ。  彼女は非常階段の一番下の段、その隅に、手すりに体を寄せるようにして座り込んでいる。呼びかけが聞こえなかったのか、体を丸めたままピクリとも動かない。  今度は彼女の隣まで歩み寄り、頭上から声を浴びせる。 「藤倉、部活動の時間はすでに終わっているぞ。早く帰りなさい」  相変わらず返事がないので、俺はマグカップを階段の端に置いて藤倉の正面にしゃがみ込んだ。 「どうした。体調不良か」 「大丈夫です。もう少ししたら帰りますから」  顔を伏せたまま、藤倉は小さな声でようやくそう答えた。ぐす、とわずかに鼻をすする音を、俺は聞き逃さなかった。 ◆◆◆  ハンカチを巻きつけたビーカーを手に戻って来ると、藤倉は案の定同じ場所、同じポーズで座ったままだった。  俺は、彼女とは反対側の手すりにもたれるように階段に腰掛ける。体の大きい俺にはかなり窮屈なスペース。こんなところで何を思い、いったいいつから泣いていたのだろうか。 「ほら、特別サービスだ」 「ありがとうございます」 「いや。……飲んで落ち着いたら帰りなさい」  そこで初めて彼女は顔を膝から離し、小さな両手を遠慮がちに差し出した。一口飲むと「熱いです」と少し顔をゆがめる。あえかな月光に浮かぶ横顔は、目蓋が赤く腫れていて痛々しい。 「すみません、ご迷惑をおかけして」 「ハンカチは貸しだ。顔を洗ってから帰るんだぞ」  その言葉に藤倉は弾かれたように顔を跳ね上げて俺を見つめたが、慌てて顔を逸らした。 「あの、あんまり見ないでください。たぶん目とか腫れてて、ひどいので」 「悩み相談も仕事のうちだ。詮索はしないが」 「いえ」  ごしごしと目をこすり、眉を寄せたままでバツが悪そうに苦笑いをする藤倉。  詮索してください、とでも言いたげな表情につられて、俺も口元を左右に引いた。  昨年の秋、新米教師だった俺におどおどと声をかけた中学生がいなければ、生徒に笑顔を向けることを忘れていたかもしれない。緊張しきっていた彼女を楽にしてやろうと顔を緩ませたとき、初めてそれに気付かせられた。それ以来、いつも意識してできるだけ笑うことに決めている。  藤倉は、カバンの中から何かの冊子を取り出した。表紙には『第八回公演用(仮)』とある。 「台本か?」 「文化祭の舞台用の本です。……私、準主役をもらってたんですけど、脚本を書いた先輩のイメージと違うって、今日の練習で役を降ろされてしまったんです。『イメージと違う』っていうのが背が足りないからだって言うんですよ。そんなの、いくら努力してもどうしようもないじゃないですか」 「それで、ここでヘこんでいたわけだ」 「がっかりして悲しいのはもちろんなんですが、実は、なんだかすごく悔しいんです。……どこかで気分を落ち着けてから帰ろうと思ったら、ここしか思いつかなくて」  そう言うと、藤倉はビーカーを握り締めて紅葉を見上げた。この木の下は、彼女にとって何か特別な場所なのかもしれない。  悔し泣きしていた藤倉。ここにやって来て、果たして癒されたのだろうか。  彼女は一年生にしては、確かにやや小柄だ。俺と立ち話をするときなどは上を向きっぱなしで、さぞ首が疲れるだろうといつも思う。身長は見た目ですぐに判断できるものなのだから、キャストが本決定した後でそれを取り消すのは酷だろうに。  しかし、正直言って若干驚いてもいた。レギュラー争いはどんな部活動にも付いて回る試練で、打たれ弱い生徒にとっては大きな挫折となることもある。俺は藤倉もそんな生徒かと思ったが、それはどうやら俺の思い違い、余計な心配だったらしい。 「そうは言っても、憤慨できる元気はまだ残っているな。納得がいかない、と悔しがるくらいなら、浮上できるだろう?」 「え?」 「中学の頃を少しは見ている私から言わせて貰うなら、十分成長の跡がうかがえる。去年の秋の自分と比べてみなさい。……何にせよ、それだけ一つのことに思い入れることが出来るのはすばらしいことだ」  オープンスクールのときには俺に話しかけるのもやっとだった内気な彼女が、あれから約一年経ち、今は悔し涙を流すまでに逞しく育っている。  十六歳というのは、こんなに急速に大人へと近づいていくものだったのだろうか。昨年受け持った中にはそう思わされた生徒はいなかった気がするが、だとすれば藤倉が特別なのか。 「本当に、そう思われますか?」 「ああ。……そんなに悔しかったら毎日小魚や牛乳を摂って、背を伸ばしてやるくらいの意気込みで頑張りなさい。努力することは大切だ」 「じゃあ、先生くらいになるように全力を尽くします」 「それは大きすぎる」 「でも大きければ大きいほどいいかなと思って」  ころころ変わる彼女の表情はまるで子供のようなのだが、その中身――心のほうは立派なものだ。俺の慣れない冗談を受けて、藤倉は屈託なく微笑んだ。多分、俺の顔もやや弛緩したことだろう。 「さあ、もう帰ったほうがいい」 「はい。ごちそうさまでした! ありがとうございました。聞いていただけて、すっきりしました。裏方でも頑張るので、文化祭は見に来てくださいね」 「ああ、見に行こう。……暗いから足元に気をつけなさい」  ぺこりと頭を下げて小走りで去っていく後姿は、いつもより一回り大きく見えた。  その小さな翼ははばたき始めたばかりで、見守る立場の俺には少しもどかしい。彼女はあと二年も経てば、ここから巣立っていく。それまでに翼はどれだけ大きくなっているのだろう。  そういう俺も、去年の秋と比べれば少しだけ大人になっている。その一端はきっと、藤倉のおかげだ。 「置いていかれないようにしなくてはな」  すっかり空になったマグカップとビーカーを手に、俺はもう夜闇に溶けて見えなくなった背中をいつまでも目で追っていた。
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