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なにがなんだか分からない内に怖そうな男に「上がりなさい」と言われ靴を脱いだ。
(怖い)
「ついて来なさい」
逆らうなんて気持ちが頭にも過ぎらない。本能的にバッグを胸に抱き、大人しくついていく。バッグが守ってくれるような気がして。
奥に行くと閉まっている襖の前で男が膝をついた。
「親父っさん、連れて来ました」
「入れ」
座ったまま男が襖を開ける。8畳くらいの部屋、掛け軸の前に座布団に貫禄のある男性が座っていた。もう一つ、座布団がその前にある。
連れてきた男が無言でその座布団を手で指す。そのまま操られるように座ると男はすっと出て行き襖の閉まる音が聞こえた。
威圧感のある目が自分をじっと見ている。目を逸らせない、胸に抱いたままのバッグにしがみつくように拳に力が入って行く。ふっと相手の目が柔らかくなったような気がした。
「名前を言ってみな」
すぐに返事が出来ない、まるで喉が硬く絞まっているような気がした。男はそのまま待っている。
やっと口が開くと、自分でも思っても見なかった言葉が飛び出た。
「先にあなたの名前を教えてください」
なんてことを…… 言っておきながら自分が蒼褪めて行くのを感じていた。だが男は笑い出した。
「そいつぁ済まなかった。礼儀がなってなかったな。俺は三途川勝蔵と言う。この家の主だ」
声を聞いてなんだかほっとした。怖い声じゃなかった、温かい声だ。
「八木順一、です」
「そうか。ちょっとは力が抜けたか?」
言われてみて確かにそんな気がした。
「良かったら荷物を置かねぇか? 誰も取らねぇから」
胸のバッグを見て、慌てて脇に置いた。
「おい! 千津! お茶だ!」
少しすると襖が開いて、立派な女性が出てきた。畳の上に茶托に載ったお茶を置いた。
「初めての子だね。しっかりおやり」
にっこり笑って出て行く背中を目が追った。
「惚れるなよ、俺の女房だ」
「そ、そんなつもり……」
思わずお茶を取りガバっと飲んでしまった。
「あつっ!」
「落ち着け、冷たいもんが良かったか? ジュースとか」
首を横に振った。舌が火傷したようでちょっと声が出ない。
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