テルの物語(完)

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   時間が過ぎていく。俯いて涙が落ちていた。膝が濡れていく。肩が震える。 「……ぅ」 そ の小さな声に顔を上げた。勝蔵の頬に涙が伝っているのを見て目を見開いた。 「辛かったな…… いいか、お前はどこも悪くなんかねぇよ。国ってのはな、法律ってヤツに基づいて動いてる。中にはくっだらねぇ決まりもある。お前がこんな目に遭っていいとは俺は思わねぇ。だが世の中に決まりが無くなったら真面目なヤツも真面目には暮らしていけなくなっちまうんだ。だからそこに境界線が出来る。こっからは踏み外すなっていう境界線だ。それを越えることを許さねぇのが法律だ。そこに情も何もねぇと俺は思っている。だがそいつがあるから守られてる人がいるのも事実だ。法律は必要悪だ。これは俺だけの考えだ。正しいとは言えねぇ。逆だ、そういう考えを持つのは世の中に逆らうことになる」  どこか勝蔵の目が寂しそうに見えた。 「お前は境界線に守られる側の人間だ。だが踏み外しちまった。それだけのことだ。一歩、片っぽの足が境界線を出た。ならその足を引っ込めりゃいい。それでお前は元の世界の人間に戻れる。たかだか一歩。だが大切な一歩だ。その足を引っ込めろ。後ろ足を前に出すな。今のお前に出来ることはそれだ」  身も知らぬ男が自分のことで泣いてくれていた。対等に話をしてくれている。 「親父さんはな、後悔なんぞしてねぇよ。仕事を変えたってことをな。お前を守りたい、その一心で変えたんだ。自分の誇りもお前の前じゃ二の次だった。裏切られたなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇ。ただただお前が愛しかった。お前に代わるもんなんか無かった。そこを考えろ。そのためにお前はここに来たんだ。今は無理だろう、でも自分を真っ直ぐに見て、親父さんのことを真っ直ぐに考えることが出来たらお前の中でけじめがつく。お前の気持ちはよく分かった。しっかりお前をこの三途川勝蔵が預かる。俺は甘くなんかねぇぞ。ここはそんなところじゃねぇ。後は自分で考えるんだ」  勝蔵は懐から手ぬぐいを出した。それを順一に渡す。顔を拭いて鼻をちーんと噛んだ。 「冷えちまったが茶を飲め。喉が渇いたろう」  冷えても美味しかった。胸のつかえは取れはしなかったけれど、どこか楽になっていた。初めて全部を話した。不思議だ。ここまで話したことは無かった。 「おい!」  すぐに襖が開いて、最初の男が出てきた。 「こいつは板倉と言う。目つきは悪いがまあまあいいヤツだ。お前の面倒を見るのは別のヤツだが、こいつが何か言ったら優先して従うんだ。板倉、後は頼む。こいつは大事にしてやってくれ。だが手加減は要らねぇ」 「はい。じゃ、荷物を持ってついて来い」  順一は勝蔵に頭を下げた。渡された手ぬぐいを持ったまま板倉についていく。廊下を渡り、二階への階段を上がった。右側へ曲がり、一番奥の部屋の襖が開けられた。 「今日からこれがお前の部屋だ。好きに使っていい。後で庄田(しょうだ)という若い男が来る。お前にいろいろ教えてくれるヤツだ。全て従えとは言わない。そこは自分で判断しろ。必要なものがあれば庄田に相談しろ」  それだけ言うと部屋を出て行った。   
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