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ナッチの物語(完)
夏に生まれた男の子だから『夏男』。
単純明快な名前をつけた両親は、単純明快な思考を持つような親じゃなかった。
「勉強なんかしたっていいことねぇぞ」
父は酔うと二言目にはそう言う。自分より年下の男が上司になって『負け組』と陰で言われているのを聞いてしまってからだ。
(なら、辞めりゃいいのに)
「どうすんの! 先月より給料少ないじゃない! なんで残業しなかったの!」
「あんな若僧の言うこと聞いて残業なんかやってられっか!」
(なら、辞めりゃいいのに)
小学校の時はよく聞かされた。
『お母さんはね、お父さんにデート誘われて初めてお化粧したのよ』
(あれ言ってた時の母さん、きれいだったよな)
目の前にいる目の吊り上がった女性を見て、そんなことを思った。
親を見ていると未来が暗くなる。夏男は父に逆らって勉強に入れ込んだ。その方が楽だ。
「勉強してるから」
「宿題があるんだ」
「テストが近いから」
まるで魔法の言葉だ。それを言えば、父が絡んでくるのを母が防いでくれる。お蔭で進学校には入れたけれど、高校2年の3学期に全てが崩れた。
「ただいまー」
なんの返事もなく、どうせ二人がケンカしてムスッとしているのだろうと思った。玄関は開いたままだ。いるのは間違いない。父は『今日は会社に行きたくない』と、子どものようなことを言っていた。
構わず喋り出す。暗い家で一人っ子の夏男はいつも明るく振る舞う。
「今日はさ、部活サボって帰って来た。テスト一週間前なのに隠れてやるなんて、ウチの部長もよくやるよ……」
台所に入ろうとして夏男の靴下を濡らしたのは、真っ赤な血だった。
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