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魔の3月14日
哲平が会社に挨拶に行ったのは3月13日の金曜日だ。大滝常務と河野部長だけではない。ヘルスルームに行って常駐医師の面談を受ける。人事であれこれ手続きをする。結構忙しかった。
家に入ってカレンダーを見た哲平は余計なことを言った。
『和愛、今日は13日の金曜日だ!』
『だから?』
『スーツが黒くなったのそのせいだよ』
そして和愛にこっぴどく怒られた。
土曜は朝から堂本のお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの所に行く。報告も兼ねてお泊りだ。千枝の面影が強い和愛はべたべたに可愛がられている。哲平が家に入ってからずっと笑顔でいることに、堂本夫婦はホッとしていた。
さて、3月14日、土曜日だ。
広岡、池沢は不承不承宗田家を訪れた。何しろチョコレートを食べてしまった。当然女性陣は見返りを期待をしている。ありさは個人的に夫にもらえばいいものを、わざわざ宗田家まで来たのだ。人前ならいいものをくれるはずだ。
「なんのために今日があるのかてんで分かんない」
花の言葉に二人が尤もだと頷く。
「割りに合わないんだよな! 俺たちは1箱で食べたのに、女ってそれぞれ1つずつ貰うのが当たり前だと思ってる。それも下手に舌が肥えてるから、のど飴ってわけにも行かない」
池沢の言葉に広岡は頷きはしたが、さすがに花は突っ込んだ。
「池沢さん! のど飴で済ますつもりだったの? 三途さんに!?」
広岡が呟いた。
「勇気、あるよなぁ…… 莉々にだって恐ろしくてできない」
慌てて池沢が言う。
「おい! 本気にするなよ!」
ということで、それぞれが真理恵、ありさ、莉々、花音、和愛に用意した。
「なんにした?」
互いに大きさの違いを見て中身をけん制し合っている。男というものは本当に大変だ。
そしてそんなことはどうでもいい少女がいる。
「お母さん! 朝作ったケーキ、大丈夫だよね? きっと美味しいよね?」
「大丈夫。甘いのが好きだから、きっとペロッと食べちゃうわよ」
花音には今日は特別な日だ。どうあっても手作りのケーキをジェイくんに食べてもらわなくちゃいけない。ネームプレートには大きく『ジェイくんへ』と書いてある。大き過ぎたので、プレートは2枚使った。(真理恵がかなり手伝ったことはジェイくんには言わないつもりだ)
お父さんたちが女性陣を呼んだ。仕方ないからとか言ってはいたが、男には男の見栄がある。
(他の男より俺はいいものを用意しているぞ!)
どの顔にもそれが書いてあって、まるで子どもみたいな様子に女性陣は笑っている。
花音は大きな包みを3つと、剥き出しのミルク飴の袋をもらった。ミルク飴はもちろん穂高からだ。さすがに値段は剥がしてあるが、そこにありさがいるから笑っていいものかどうか広岡は悩んだ。
「穂高、なんだ、それ! 少しは見栄を張れよ」
花の言葉は若干穂高に上手く伝わらなかったようだ。
中身をなんとか女性陣にお許しいただいて3人はほっとした。これで延々あーだこーだ言われるんじゃ堪ったもんじゃない。
そして花は本命に挑んだ。
「花音、おいで」
膝に抱こうと思ってさっそく胡坐をかく。だが花音はそれどころじゃない。今か今かとジェイの声が聞こえるのを待っている。だから父のキラキラした目に気がつかない。花父は背中に隠したつもりで丸見えになっている大きな包みを花音に渡した。
「開けて見て」
花音は玄関を気にしながら、きれいなラッピングを破っていく。中には大きなうさぎのぬいぐるみ! 抱きついて寝るのも良し、というくらい大きい。
「花音のぬいぐるみ、もう擦り切れちゃったろ? だから大きいのを買ったんだ」
真理恵にはそれが『見て、見て!』と言っているように見えて仕方ない。
「あれよりきれいだし、大きくていいだろ?」
「でも、あれはジェイくんにもらったんだもん」
思わず真理恵が言う。
「花音! お父さんに言うことあるでしょ!」
「……ありがとう、大事にするね。後でお部屋に持って行く」
「どこ行くんだ!?」
「ジェイくんが来るかどうか、お外見てくる!」
大きなぬいぐるみが寂しく花のとなりに横たわっている。花父はそれを抱きしめた。
「マリエ…… これ、小さかったかなぁ……」
広岡はさすがに花を憐れんだ。椿紗はその3分の1くらいの猫のぬいぐるみで充分興奮してくれた。
けれど、その興奮がぬいぐるみをもらう前からのものだとは知らない。花月が小さな飴を可愛い透明の袋に入れてリボンを結んだのをくれたからだ。莉々はそれを真伸には言わないことに決めている。
そして花月は和愛に紫の飴を一杯入れた大きな袋をしまっていた。
穂高は椿紗に飴の袋を渡していた。コンビニやスーパーなどにぶら下がっているような袋だ。椿紗は『ホワイトデー』なるもので貰ったとは思わず、ただ単純に喜んだ。
義理チョコをくれた和愛にも同じフルーツ飴を買ってきたのだが、お泊りに行っていると聞いて真理恵に預けた。
「これ、和愛に渡してください」
穂高は妙に大人びている。『こいつは大物になる!』 と、親父っさんご自慢のお気に入りだ。
「ね、穂高くん。何か袋に入れない? おばちゃんとこ、可愛い袋やリボンがあるわよ」
「いいです。開けるのめんどくさいと思うし、見て分かった方がいいと思うから」
そう言えば穂高が慌てたり照れたりするところを真理恵は見ていないと思う。ちょっと気になって聞いてみた。
「穂高くん、椿紗ちゃんに好きって言ったんだって? 椿紗ちゃんはどうだった?」
「好きな人がいるって言ってた」
「あ……そう……」
聞いちゃまずかったと思う。さすがの穂高もショックだっただろうと。
「でも、関係ないし。僕は自分が椿紗を好きだってことを言っただけだから」
(うーーん…… あまり堪えてないみたい?)
真理恵も穂高のことはイマイチ掴み切れない。
しばらくして花音が戻って来た。明らかに落胆している。
「ジェイくん、今日来ないのかなぁ……」
「土曜だからくるんじゃないかな?」
機嫌を取りたくて花父は答えた。けれど花父はホワイトデーのために花音が待っているものだと思っている。 3月14日がなんの日だか知らない。
「お父さん、ジェイくんに電話で聞いてくれない? 何時ごろ来るのって」
「その内来るだろう。今日来なくてもきっと明日は来るよ」
「今日じゃなきゃだめなの! 今日じゃなきゃ困るの!」
勢いに圧されて花は電話を取った。
さて、ここからはジェイの側の実況中継だ。
「蓮、後で遊園地行こうね!」
「お前、今日で29だぞ。そこに7つ足せよ。それが俺の年。遊園地は勘弁してくれ」
「ええ、つまんないの!」
ここは那須のホテルだ。忙しい3月の日々をかいくぐって、今日のために蓮は必死に仕事をこなした。なんとしてでもジェイの誕生日にはどこかに泊まって過ごしたいと。
サプライズの一泊旅行に、案の定ジェイは興奮した。予約したのはスイートだ。部屋の豪華さにジェイの目が慌ただしく動き回る。
「ジェイ……」
落ち着きのないパートナーの体を後ろから抱きしめる。
「後で外に出よう。今は……」
ジェイが呼応するように蓮の肩に頭を預けて唇をわずかに開いた。ゆっくりとした深いキスを味わう。心がときめく。いつまで経ってもジェイの心はあの頃のままだ。蓮に独り占めされているのを実感する。これこそが喜びで、幸せだ。
唇が離れて蓮が囁く。
「先にシャワー浴びてる。すぐに来い」
「うん」
誰もいないし、誰も来ない。だから大胆になれる。シャワーの音が聞こえる、ジェイはその場で裸になった。
そこに、そばにある携帯が鳴った。ごく自然に携帯を取った。
『ジェイ? お前、今日何時ごろにこっちに来んの?』
咄嗟にジェイの頭に浮かんだのは、今の自分の姿だ。
「ごめん! 何か着るから待ってて!」
そこにタイミングよく、蓮の声が響いた。
「ジェイ! バスタブに湯を張るか?」
電話の向こうに沈黙が生まれた。何か言わなくちゃ、と取り繕うように言葉が勝手に出て行く。
「ごめん、俺、何も着てなくて……」
『い、言うな! 言わなくていい! 悪かった、その、忙しい時に……俺、なに言ってんだろ……』
「えと、何か用だった? 今日は無理だけど明日の夜なら」
そこにまた蓮の声。
「ジェイ! まだか!? 早く来いよ!」
ジェイもあたふたしてしまう。取り敢えずソファに置いたシャツで前を隠した。
『いいんだ、たいしたことじゃないんだ、いいから、あの、またな!』
(生々しいのを聞いちゃった……)
いやな汗をかいている。二人の関係を知ってずい分経つが、いつも紳士の部長と子どもっぽいジェイのこんなやり取りを聞いたのは初めてだ。
(月曜、どんな顔して二人に会えばいいんだよっ!)
そこまで考えて、慌てた。
(あいつ、俺の電話のこと、部長に言わないだろうな!)
言葉が木霊している。
『ジェイ、早く来い!』
『ごめん、俺、何も着てなくて……』
「わあ! やめてくれ!」
「どうしたの? 花くん」
真理恵だ。
「真っ赤! 花くん、風邪でも引いた!?」
「ちが、大丈夫、俺、ちょっと横になる!」
言っていることが支離滅裂だ。花が真理恵用の個室に逃げ込んだ頃に花音が来た。
「お母さん、お父さんは?」
「具合悪いみたい。お熱があるんだと思うの。真おじちゃんと一緒にいてね。熱が高いようだったら病院に送ってって言っておいて」
「ジェイくんは? ジェイくんが何時ごろ来るかお父さんに電話してもらったんだよ」
花音が半分泣きそうな顔をしている。
「聞いとくね。でも今日はお父さんに無理を言っちゃだめよ。お父さんが具合悪いなんてほとんど無いでしょ?」
「うん」
やっと花音も心配になったようだ。父が寝込んだのは一度きりだ。やはり熱が高過ぎて2日起き上がれない時があった。
「お父さん、大丈夫かな」
「見て来るね」
「うさぎさん、大事にするって言ってね」
「言っとく。真おじちゃんにちゃんと病院のこと頼んでおいて」
ノックをして中に入ると花は俯せでソファに横になっていた。
「大丈夫? 体温計持って来たよ。ちゃんと測って」
「熱、無いよ……落ち着いたら行くからあっち行ってて」
腕に額を預けている。体を触ると火照るように熱い。
「だめ! ちゃんと熱、測るからね!」
赤ちゃんに使う耳に入れる体温計だ。小さな音が鳴った。
「花くん! 37度6分ある!」
今の花は頭の中も体も沸騰している。描きたくも無い二人の笑顔がぽんぽん浮かんでくる。
「ジェイくんは来るかなって花音が気にしてたよ」
「……都合悪いって。お願い、マリエ。一人にして」
「どうだった? お父さん、平気? ジェイくんは?」
「お父さんはやっぱりお熱があったよ。ジェイくんはね、ご用があって来れないんだって。しょうがないよ、花音。もう一回一緒にケーキ作ろうね。ほら、泣かないで」
「ジェイくんが、ご用あるんなら、しょうがないよね、うん、がまん、する……」
泣きながらも花音は納得してくれた。
「花は? 病院調べたらこの時間だからいくつか開いてるよ」
「本当!? 滅多に熱出さないから心配で…… 明日は日曜だし、花くんの性格じゃ絶対仕事休まないし」
「俺が引き摺ってでも病院に連れて行くよ。真理恵ちゃんは心配しなくていい」
「良かった、池沢さんがいてくれて」
真理恵は池沢に手を合わせた。
こうして、池沢に病院に引き摺って行かれた花は、本当に熱が上がっているのにびっくりした。
「春先はこういう風邪を引くんだよ。今日は早く寝てゆっくり休むこと。栄養を取って休養するのがなによりだからね」
(このまま休職でもしたい……ジェイと部長の顔見るのが辛い……)
さらに思う。
(絶対に花音に諦めさせないと。誰があいつなんかに嫁にやるか!)
ジェイが女性と結婚など有り得ないのだから、本気で心配する必要など無いことは忘れた。
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