分かれ道

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分かれ道

    お父さんが寝込んだ。花月も花音もお父さんの「おはよう!」が聞けないから気が気じゃない。お仕事で早出をする時はあるけれど、それでも家族のラインに『おはよう!』が必ず入る。 「お父さん、見に行っていい?」 「今日は静かにしてあげてほしいの。お母さんがそばにいるから学校に行ってらっしゃい」  家にいるのにお父さんの顔を見られない…… 「花月、どうしよう」 「お母さんがいいって言わないと部屋に行けないよ」  風花が夜中ぐずってもいいようにと、お母さんは自分の部屋で夜を過ごす。お父さんにはちゃんと睡眠を取って欲しいからってお母さんは言う。けれど、今日はお父さんがその部屋で寝ている。お母さんはお父さんの寝る広い部屋で寝た。 「どうしちゃったんだろう、熱無いって言ってたよね」 「お母さん、嘘ついてるのかな……ホントは重い病気なのかな」  花音はべそをかき始めた。花月がその頭を胸に抱いた。 「静かにしよう。お父さんに心配かけちゃうよ、花音。だから家で泣いちゃだめ」 「……うん」  朝ご飯はちゃんと食べる。お母さんが睨むからだ。ランドセルを背負って小さい声で「行って来ます」を言っていつもより早く外に出た。和愛はいつも大きな声で「おはようございます!」を言うから外で待つことにしたのだ。 「おはよう! どうしたの? ここで待ってたの?」  表の道路に立っている二人を見て、和愛はなにかあったんだと思った。 「怒られたの? 『できん(出禁)』になっちゃった?」 「お父さんが……具合悪いの」  花音は和愛を見てほっとしたのだろう、涙が止まらない。 「お医者さんには行ったの? なんの病気?」  花音が泣くなんてよっぽどだと思う。 「分からないんだ。お母さんは『静かにしようね』ってしか言わないし。朝も会ってないんだ」  それは大ごとだと和愛も真剣な顔になった。そういう花おじちゃんじゃない。 「ごめんね、父ちゃんはもう仕事に行っちゃったから聞けないよ……待って、ラインしてみる!」 『花おじちゃんがぐあいわるいの。朝、花月も花音も会ってないんだって』  しばらくして父ちゃんから返事が返って来た。 『心配するな。大丈夫だから。二人のこと、頼むな』 「どう?」  和愛は父ちゃんの返事を見せた。 「これじゃ分かんないよ……学校に行くの、やめる! 家にいる!」  花音が引き返そうとするのを花月は止めた。 「だめだよ、お父さん、心配しちゃうよ。『今日は静かに』って言われたろ? お母さんの言う通りにしよう」 「でも……学校で私一人になっちゃう……」  心細いのだ、今日は一人じゃいられない。 「休み時間に花音ちゃんの所に行くから。全部行くから。ね、今日はずっと三人でいようね」  和愛は父ちゃんがいなかった時を思い出す。だから花音の言うことがよく分かる。花音を真ん中に三人で手を繋いで、少し遠回りだけど車の来ない道を学校まで行った。  休み時間になるたびに花音はすぐにお母さんにラインを送った。 『お父さん、起きた? ご飯、食べた?』 『心配しなくて大丈夫だよ。ちゃんとお勉強しておいで』  花月と和愛が来た時にはすでに泣いていて、周りの子たちが「どうしたの? お腹痛い?」と聞いている。 「花音、来たよ」  妹を気遣う花月に、花音はラインを見せた。 「分かんないよ……これじゃ分かんない! 帰る!」 「後1時間だけだよ、ちゃんと学校終ってから帰ろう」 「花月、心配じゃないの!? お父さんが寝てるんだよ? 今日一回も会ってないんだよ!」 「花音ちゃん、終わったら早く帰ろうね。真理おばちゃんが『すぐに帰りなさい』って言わないんだからきっと大丈夫だよ」  二人はなんとか花音をなだめた。 『二人を頼むな』  そう父ちゃんが言った。だから本当は何かあるんだと思う。 (重い病気かも……) そう思ったけど、入院したわけじゃない。花月は男の子だから泣かないけど、今日は発表しないし先生に当てられても簡単な問題なのに答えられなかった。 (私がしっかりしないと) 和愛は花音と花月の手を握った。 「花音ちゃんは今日掃除当番?」 「ううん」 「良かったね! じゃ一緒に早く帰ろうね。でも玄関に入る時は静かに入るんだよ。最初は真理おばちゃんに聞いてみようね。すぐに花おじちゃんのとこに行っちゃだめだよ」  二人とも頷いてくれた。花音は泣きながら。花月は唇をぎゅっと結んだまま。  花月はそっと玄関を開けて「ただいま」と小さな声で言った。お母さんはすぐに玄関に来てくれた。 「お帰りなさい。花音、大丈夫? 学校頑張ったね。偉いぞ」  お母さんは、飛びついてきた花音が声を出さないように泣くのを頭を撫でてくれている。 「おと、さんは?」 「大丈夫。でも寝てるから静かにお願い」 「まだ寝てるの!? お母さん、お父さんはなんの病気なの!?」  つい、花月の声が大きくなる。 「しぃっ。お父さん、さっきやっと寝たの」  花月も花音も必死な顔で様子を聞いてくる。その背中を和愛は撫でた。真理恵は和愛に微笑んだ。 「花音、聞いてね。お父さんはそういう病気じゃないの。疲れちゃったの。それで元気が無いんだよ。今日は我慢して、お願い」  三人で宿題をしている時にお父さんが部屋から出てきた。 「お父さん!」  花音が抱きつく。 「お帰り。学校終ってたのか……」 「帰ってきて1時間経ってるよ。お父さん、大丈夫?」 「大丈夫だよ、花月。ごめんな、今日は『おはよう』を言えなかったな」  花音の手をそっと離すとお父さんがしゃがんだ。いつもそうやって話をしてくれる。でも…… お父さんの顔は真っ青に見えた。 「お父さん、なんの病気なの?」 「花おじちゃん、お願い、教えてあげて」  花月もそばに来てお父さんの腕を掴む。 「おとう、さん、ホントに、元気?」 「花月、お前はおにいちゃんだろ? 花音の前で泣いちゃだめだ。お父さんは元気だよ。心配しなくていい。ちょっとシャワー浴びて来るから」  お風呂からシャワーの音が聞こえて和愛はほっとした。父ちゃんはシャワーを浴びてお風呂を出てくるといつも元気に笑ってくれる。 「大丈夫だよ! シャワー浴びたら元気になるよ」  お母さんがパタパタと忙しそうに家の中を動いている間、三人は大人しくしていた。お母さんの声が聞こえてくる。 「ご飯は?」 「いらない」 「スープだけでも飲まない?」 「いい」 「お父さん……なにも食べてないのかな」  花月はもう泣かなかった。花音がいる。和愛がいる。自分は男だから泣いちゃいけない。 「お母さんが喋ってるからきっと大丈夫だよ」  でもお風呂を出てきたお父さんに驚いた。 「どこ行くの!?」  スーツを着始めたからだ。 「ちょっと会社に行ってくる。休むわけにはいかないんだよ。今から行ってくる」 「だめだよ! お父さん、仕事行かないで! もっと寝てて、少ししか寝てないでしょ!?」  花音がお父さんの腰にしがみついて泣く。その頭をお父さんは撫でた。青い顔で笑顔を見せる。 「心配いらないから」 「嘘つき! お母さんもだよ、心配無いってだけ言う……」  花月がそっと花音をお父さんから離した。 「お父さん、ホントにだいじょぶなんだよね?」 「もちろんだよ。マリエ!」 「はい」  台所からカップを持ってお母さんが来た。 「お願い、これだけでいいから飲んで。お願い」  諦めたような顔でお父さんはカップを受け取って飲み始めた。スープの匂いがする。きっとチキンスープだ。こんなに早く作れないから、きっとお湯を入れただけのヤツ。 「行くの?」 「うん」 「頑張らないでね」 「先に寝てていいから」 「分かった」  それを聞いて花音がまた青くなる。 「遅くなるの? 帰ってこないの?」 「行くのが遅くなっちゃったからね、その分は仕事してこないと」 「でも何も食べてないよ。食べないで会社行ったらだめなんだよ」 「花月、花音を頼むな。お腹が空いたらちゃんと食べるから。お母さんを困らせるんじゃないぞ」 「行ってくる。花月、花音、行って来ます」 「行ってらっしゃい……」  玄関が閉まって、真理恵が『おいで』をするから一緒に行こうとした。けれど花音は我慢できなかった。玄関に走って靴に乱暴に足を突っ込む。開けっ放しでお父さんを追いかけた。 「お父さん!」  お父さんが振り向いた。 「帰って来るよね!?」  お父さんの顔に笑顔が浮かんで親指が立った。後は真っ直ぐ歩いていくお父さん。後姿が見えなくなって、肩にお母さんの手が載ったからとぼとぼと家に入った。  勢いよく玄関が開いた。 「ただいま! 和愛、花月、花音、哲平ちゃんだぞ!」  子どもたちは飛び出した。 「お父さんは? 会社に着いた? お仕事してるの?」  哲平おじさんもしゃがんで話をしてくれる。 「お父さんは今仕事してるよ。一緒に帰ろうって言ったんだけどお前たちのお父さんは真面目だからなぁ。今日の分が終わったら帰ってくるって。今日は哲平ちゃん、泊りたいんだけどいいかな?」 「うん! 嬉しい!」  哲平の首にかじりついてから花音は後ろを振り返った。すぐに手を放す。 「ごめんね、和愛ちゃん」  和愛はにこっと笑った。 「いいんだよ。今日は父ちゃん、貸してあげる。和愛は『ふとっぱら』なんだから」  哲平が大きな声で笑った。花月はその笑い声にほっとした。 (大丈夫なんだ、お父さんは。だって哲平おじちゃんが大きな声で笑ってる。だから大丈夫) 花月はその哲平の笑い声にしがみついた。 「子どもたち、寝た?」 「うん、やっとね。花くん、どうだった?」 「ちゃんと仕事してたよ。やっぱりショックだったんだな、ジェイのこと。もう少し言わないでおこうかと思ったんだけど、夕べジェイが自分で言ったんだ。河野さんと一緒に会社を辞めるって」 「そうか……自分で言ったんだね。ジェイくんも辛かったかな」 「ああ。花が出勤してジェイは飛びついて泣いてたよ。まるで花音を見てるみたいだった。みんなにも言ったらしくてさ、今日はオフィスが静かだった。けど新人研修のこととか、今の内から引き継がなきゃならないことがたくさんあるんだ。何せ新人の対応は一人でやってたからな、誰も分かってなくてさ」 「誰が引き継ぐの?」 「石尾と翔と完の三人で引き継ぐ。9月に入社希望のリストが来るからぐずぐずしてられないんだ。2月からの面談準備もあるしな。ジェイの穴は大きくてさ。オフィスのメンタル面もいつの間にかジェイが引き受けちゃってたしね。河野さんの業務日誌と併せて、そういうのもいったん全部俺が引き継ぐんだ」 「哲平さんも大変だね……」 「しばらくは野瀬さんも部長補佐を兼任してくれる。俺は大丈夫だよ。それより花だよな……」  全面的な信頼を寄せていたジェイがいなくなる。あんなに天然でも仕事ではジェイは抜きんでいたし、何よりキャパが広くてどんなチームにでも入り込んでいた。 「あいつの後を埋められるヤツはいないからな。今年の新人なんかもう浮足立ってる。立場から見ると、これはオフィスの連中にはいい試練になると思ってるんだ。一人に頼り過ぎるとこうなるんだよ。河野さんにもみんな頼り過ぎてた。だから俺は違うやり方をしていくつもりなんだ」  哲平の顔が管理職の顔になっていた。 「それでも……ウチには来てくれる?」  哲平が驚いた顔をした。 「真理恵、俺はそういう風に変わるつもり無いよ。みんなと垣根を作る気なんか無い」 「良かった! なにもかも無くなったら花くん、やっていけないと思う」  迷ったような顔で哲平は話し始めた。これからの部長とジェイのこと。 「ホントなの!?」 「今日聞かされたんだ、部長に。俺も驚いちゃってさ! まだ花に言うなよ。だからそんなに心配しなくていいんだ。ほら、俺、落ち着いてるだろ?」 「うん、落ち着いてる。良かった、ホントに良かった!」  花が帰って来たのは2時を越えていた。 「ただいま」 「お帰りなさい。疲れたでしょ? お夕飯は?」 「食べてない」 「オートミール、あるよ」 「食べる。後は軽いものにしてくれる?」 「うん」  着替えた花が食べながらぽつんと言った。 「ジェイ、帰らなかったよ。ずっと今日はいてくれた。いつもとおんなじでさ、『花さん』『花さん』って……」  スプーンが止まる。 「俺、だらしないよな。こんな風になるなんて自分でも思わなかった。ショックだったんだ、ジェイはずっと俺のそばにいるだろうって思い込んでたから」 「花くん。ジェイくんにも自分の人生があるよ」 「そうだな。でも……この分かれ道を俺、ちゃんと歩けるのかな」 「花くんは強いから! 歩けるよ、自分の足で。いつも言うでしょ? 『それでも俺は止まらない』って。哲平さんの時もそうやって乗り越えてきたじゃない?」 「ジェイが……いてくれたからな」 「そのジェイくんが、花くんはやって行けるって思ったから辞めるって言えたんだと思うよ。夫婦って離れちゃいけないって思うの。ジェイくんがそれを選んだんだから見送ってあげないと」 「そうだな…… 明日は普通に仕事に行くつもりなんだ。俺さ、部長補佐になるんだって。哲平さんの補佐だよ。めげてる暇、ないんだよな」  風花が大人しいから一緒に寝ることにした。真理恵の温かさを腕の中で感じる。真理恵が花を包み込む。  花はジェイとの別れを受け入れた。   
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