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忍耐
お父さんの様子が元気になったから花音は普通にお父さんに甘えた。ずっと花父に溺愛されている花音はちょっと甘ったれだ。それは女の子だからというのもあるし、周りの環境のこともあって花父のせいだけとは言えない。
クラスでは女子からの受けが悪い。仲の良くない町田友香を筆頭に、『花音ちゃんは男の子たちにちやほやされて調子に乗ってる』という内容の陰口は叩かれているし、たまに仲間外れにされる時もある。しかし当の本人が全く気にしていない。
少しは仲のいい友だちもいる。その子たちが言ってくれる。『花音ちゃん、あんまりいろんなこと言うの、止めた方がいいよ。ホントにずっと仲間外れになっちゃうよ』
それも確かにめんどくさい。だから気をつけてはいるが、つい地が出てしまう。
『でも裕くんは勝手に私を好きになったんだよ。私はなにも悪くないって思うの。文句、裕くんに言えばいいのに』
花音に悪気はないのだが。
7月2日金曜日、花は猛スピードで仕事をこなした。なんとしてでも明日の休日出勤は避けなければならない。ジェイももちろん強力に花をサポートする。来年の7月には自分はここにいない。来年の8月には自分はここにいない。スケジューラにかき込む一つ一つが愛おしくて堪らない。だから最後まで花のそばを離れずに補佐の役目を果たしたい。
7月3日がどういう意味を持っているのかジェイが知ったのは、花が別れ際に言った言葉からだ。
「ありがとう、ジェイ! 助かったよ、これで安心して明日は休める」
「明日、なにかあるの?」
「小学校の父兄参観日なんだ。学校に10時には着かないと。哲平さんが1組に行くから俺は花音がいる3組に行くんだよ。途中花月のとこにも顔を出すけどさ」
『参観日』
ジェイの中に過去が蘇る。みんな両親や家の誰かが来て子どもたちに声をかけていた。その思い出は自分には無い。
(おかあさん、ぼく、へいきだからね)
そう1年生の頃から自分に言い聞かせてきた……
「じゃな! 来週になっちゃうけど何か奢るよ!」
花の急ぎ足の後姿は、自分が知らない『親の世界』だった。
―ジェイサイド―
「休みだって言うのにどこに行くんだ?」
「うん、ちょっと」
「スーツでか?」
「うん」
蓮はベッドの中でテキパキと出かける用意をするジェイを見上げた。一番お気に入りのスーツを着て、念入りにチェックする姿にムスッとした声を出す。
「なんだよ、まるでデートみたいだな」
ちょっと不貞腐れ気味の蓮に、ジェイは軽いキスを贈る。
「そんなわけないよ。蓮は疲れてるからのんびりしてて。お土産買ってくるからね」
「いいけどさ、別に」
この夫婦は徐々に独特の世界を作りつつある。
―ジェイサイド終了―
(10時って言ってた)
ジェイはどうしても『授業参観』に行ってみたかった。
「花月、花音。一度に両方は無理だからな!」
「分かってるよ、お父さん、ほとんど花音の方にいるんでしょ?」
花月は事実を淡々と言っただけだが、花父の心にはその言葉が突き刺さった。過去を思い出す。
『もう授業参観は来なくていいから』
自分が言った言葉。あの状況では仕方なかったと思ってはいる。けれど、もしそんなことを花月や花音に自分が言われたらきっと耐えられなくて死んでしまう。だから二人が誇れるような父としてみんなに見られるようにしたいと、心から思った。
「花月、ちゃんと時計を見て平等に見に行くから。どっちだけ大事とか、そんなこと思ってないからな」
その時に花月に浮かんだ顔が、(どうだか)と言っているように思えた。
「俺、父親として失格かもしれない」
台所に行って真理恵に言う。
「どうしたの、花くん!」
「そうだよ、マリエ。俺はきっと授業参観で失敗する」
「そんなこと無いって。哲平さんも一緒に行くんだし、大丈夫だから」
「そうだ、マリエが行った方がいいかもしんない! そっちがきっといいよ、二人には」
「今日は父兄参観日なんだよ? 分かる? 花くんがウチにいること知ってるのに私が行ったらかえって傷つくよ!」
「……そうか。そうだよな……」
「どうしちゃったの? あんなに楽しみにしてたじゃない」
そうなのだ、まるで遠足に行くみたいに楽しみだった。なのに……
「行ってきまーす」
「お父さん、待ってるね!」
双子の元気な声。そこにチャイムが鳴って聞くはずの無い声を聞いた。
「おはようございます!」
「ジェイくん!」
お洒落な格好をしたジェイに花音が飛びつく。花はなにが起きているのか分からない。もう花音は自分を見ていない。
「な、なんで、おまえ、」
「俺も行きたかったんだ、父兄参観! 俺、花さんの弟だし一緒に見たいって思って」
自分とは違う美しさを持つジェイ。異国の雰囲気が漂って、明るい天然の巻き毛。やはり明るい茶色の目。日本人とは違う、ハーフ独特の顔立ち。
「帰れよ」
「なんで? 一緒に見ようよ!」
「帰れってば」
子どものように同じ言葉を繰り返す。花音は花父を睨んだ。その視線が花に致命的な一撃を与えた。死にかけている花。
真理恵が出てきて花を救い出した。
「ジェイくん、ごめんね。せっかく来てくれたけど本当のお父さんとお兄さんじゃなきゃ行っちゃいけないの」
「そうなの?」
「ね、家でみんなの帰りを待たない? 風花のこと見てくれてたら助かるな」
ジェイが悲しそうな顔をする。そこに新たな救い主の声がした。
「おはよう! 暑いと思って早く出てきたよ、なんか冷たいもんくんない? ……なんでお前がいんだよ」
和愛と一緒に来た哲平だ。
「ね、ホントにだめなの? ジェイくんに来て欲しい!」
「花音、だめだって言ったでしょ? ジェイくんはお兄さんじゃなくて……花音の大好きな人なんでしょ?」
新たなる妻からの一撃。
状況を把握するのは早い。哲平はジェイの腕を掴んで外に引っ張り出した。こっちも泣きそうな顔をしている。
「哲平さん……」
「『哲平さん』じゃないよ、なんでいるんだって話!」
「俺も行きたかったんだ、父兄参観……」
「はぁ? お前はだめだ」
「どうして?」
「あそこで花を泣かせたいのか?」
さすがに哲平も怒っている。
「……授業参観ってどんな感じか知りたかったんだ。俺、ずっと下見て終わるの待ってたから」
哲平の胸にその言葉が沁み込む。
「ジェイ……でもな、花の気持ちを一番に考えて欲しいんだ。今日花はうんと楽しみにしてたんだよ。でもお前が行ったら花音が花を見なくなるの、分かるだろ?」
やっと何が問題なのかはっきりとジェイは理解した。すっかりしょげて小さく頷くジェイの肩を哲平は抱いた。さっきの怒りは治まっていた。
花音は母の説明に悲壮な顔をして納得し、花月と和愛に慰められながら学校に行った。
「マリエ、このスーツおかしく見えないか?」
「似合うよ、花くんのスーツ姿、私はとても好き」
「マリエは客観的に見てないから。派手かなぁ」
「そんなこと無いよ、だってうんと大人しいグレイだし、ネクタイもほんの少し明るいグレーにスーツに合った濃いグレーのストライプが入ってるだけだし、バランスよく見えるよ」
「……喪服っぽく見えない?」
「お葬式にそんなカッコしないでしょ!」
花は2回服を取り換えて結局最初のスーツに戻った。
「花、似合ってるって。安心しろよ、周りの父親なんて霞んで見えるぞ」
真理恵はホッとした。哲平が早くから来てくれて本当に良かった。花がまた鏡を見に行っている間に急いで哲平に耳打ちする。
「あのね、花くん、朝から怖気づいちゃってるの」
「授業参観?」
「うん。二人が恥ずかしい思いをしないか、自分が行ったことで困ったことにならないかって」
「そんなわけ無いだろう! だいたい今日のためにあいつ、一生懸命に仕事してたのに」
「子どもの頃、まさなりさんと夢さんの授業参観で辛い思いしてるのよ、夢さんドレス着てったし、まさなりさん、スケッチ始めちゃうし。トラウマなの。だから花くんのこと、お願い!」
あの親を思い浮かべて哲平は納得する。特にスケッチしているまさなりさん。さぞかし当人そっちのけで落ち着いていたことだろう。
「任せろ。俺がついてるから」
「ありがとう!」
花が戻ってきた。
「マリエ、ネクタイ曲がってるような気がする。鏡見ててもうまくいかないんだ」
「ちゃんと真っ直ぐになってるよ」
もう9時半だ。
「行こうぜ、遅刻するとその方が目立つぞ」
それを聞いて慌てて靴を履く。
「あ!」
「どうした?」
「もう一回磨いた方がいいかな」
「落ち着け、花。学校ではスリッパになるんだぞ」
真面目な顔で頷く花をなんとか哲平は連れ出した。
「遅刻になるかな」
「子どもの足で10分のところを9時半に出てるんだ。亀にでもならないと遅刻は出来ないよ」
「哲平さん、父兄参観に出たことあるの?」
「そんなわけ、あるか! 和愛は一人っ子だぞ!」
「あ、そっか」
(だめだ、こりゃ)
いっそのこと、同じ教室で隣にいた方がいいかと思う。
(でも俺だって和愛の授業最後まで見たいんだ)
そこはやっぱり父としての思いが勝つ。
学校が見えてきて、一気に花の足が重くなってきた。
「花、俺を見ろ」
「うん」
「お前は立派な父親だ。お前ほど子どものことを真剣に考えてるやつはいない」
(俺を除いて)
「だから胸を張れ。事前プレゼンを思い出せ、鬼部長の前でやるヤツ」
部長の顔が浮かんで、少しプロ意識が浮かんでくる。
『もっと堂々としろ。自分を信じ切ってやれ。お前に買わないと言うヤツには己が愚かだと思わせて来い!』
後で考えて(無茶苦茶なこと言う)と思ったが、その思いは幸いなことに今頭から飛んでいる。
「うん! 俺、頑張るよ、哲平さん!」
(出来の悪い弟を持つって、こういうことだよな)
天然の弟も困ったものだが、こっちの弟も困ったものだ。
哲平と別れて深呼吸をして花音の教室に入った。
「ねぇ!」
一人の女の子がこっちを向いて、隣の女の子の手を叩いた。その子が次の子の手を叩いて後ろを振り返る。教室内がざわつく。
(え、俺、変?)
一人の声が聞こえた。
「あのお父さん、誰? かっこいい!」
花音が振り返って手を振って来た。
「お父さん!」
「花音ちゃんのお父さん? カッコいいね!」
みんなのそんな声が聞こえてきて、花音の自慢気な顔を見て花はやっとホッとした。
(良かった! 花音が嬉しそうだ)
自分の父親より花父を気にして振り返る女の子たちが多い。男子は別の意味で振り返る。
(いつかあんな大人になれるかな)
そりゃカッコいいに決まっている。Tシャツにジーンズのお父さん、くたびれたスーツのお父さん、ポロシャツのお父さん。その中で美しい髪がふわりと動きピシッとしたスーツのお父さん! 背が真っ直ぐに伸びていて顔が恐ろしくきれいだ。
「ね! 花音ちゃんにそっくりなんだね!」
「そうだね、花月くんにもそっくり!」
「お父さんだもん。花音の大好きなお父さんなんだよ」
すっかり普段の汚名挽回をした花音はもう一度振り返ると花父に小さく手を振ってくれた。
『天にも昇る心地』というのはこういうことだと、花は来て良かった! と心から思った。
(花音、お前が一番可愛い!)
落ち着きを取り戻した花は、ただ発表する花音の可愛い声に集中していた。
哲平がそっと入って来た。
「おい、花月を見に来い」
花音には前もって伝えてある。途中で花月のところにも行くのだと。哲平の姿を目ざとく見つけた花音は唇で『バイバイ』と笑顔で伝えてくれた。涙が落ちそうだった。
(花音がこんなに大人になった……)
哲平と共に入った1組では、ちょうど花月が手を上げて担任に質問をしようとしているところだった。杉原先生は花を見てドキリとする。もちろん、悪い意味でだ。最初の保護者会で虐めに対して『潰しゃいいじゃん』発言が親の間に浸透していると聞いた。
「はい、宗田くん」
「『こうたが困った顔をしている』って、どんな顔か分かりません」
「え、……とですね。かずおくんが迷子になってしまったから、こうたはどうしようって思ったの。だから困った顔になったんです」
「その困った顔ってどういう顔ですか?」
「それは……」
「どうしたの?」
「教科書に『こうた』っていう犬が、飼い主が迷子になったから困った顔をしたって書いてあるんだよ。そのことだと思う」
「犬?」
花月の顔を見る。
(あれは納得するまで引かない時の顔だ)
ことの成り行きに杉原先生よりドキドキする。
(父兄参観って、おっかねぇ)
先生は誤魔化すわけにはいかないだろう。なんとかこの窮地を脱しなければならない。
(花月、お母さんじゃないんだから多分先生には無理だぞ)
真理恵はこういう質問に実に見事な答え方をする。発想が豊かだからだろう。
「それは今度の国語の授業の時にお話ししましょう」
「どうして?」
「じゃ、みんなお家で考えて来ましょう。今度の金曜日に図工の授業があるから、その時にどんな顔か想像して描いてみようね」
完璧に逃げた答えに、今度は花が納得いかなくなってしまった。先生に努力が足りない。花は口を開けたところを哲平に引っ張られた。今の花の顔は、納得のいく回答を得るまで引き下がらない時の顔をしている。
「余計なこと言うな」
「だって」
「いいから俺の言うことを聞け。授業参観ってのは忍耐が大切なんだ」
小学校の時、授業参観で間違った答えをした友だちに野次を飛ばした哲平は、母勝子にみんなの前でゲンコツをもらった経験がある。尚も不服そうな顔をする花の背中を撫でながら、「我慢、我慢」と囁きながら、(誰が誰の保護者なんだか)と哲平は腹の中で呟いた。
授業参観から無事に家に辿り着いた哲平は、大きな使命を果たしたような気がした。和愛は実にしっかりした受け答えをしていたから安心したし、花の手綱もちゃんとコントロールした。
「お帰りなさい!」
「お帰り……」
(しまった! ジェイがいたんだった!)
ここから哲平はジェイを慰めるために長期戦を強いられることになる。
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