平和

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   チャイムの音に玄関に向かおうとした真理恵はそれどころじゃなくなった。とうとう花音が言ってはならないことを言ったからだ。 「お父さん、大っ嫌い! 私、ジェイくんのお嫁さんになるっ!」  静寂が訪れる。誰も動かない。玄関ではピンポンダッシュとは違うのほほんとした音が鳴る。 ――ぴんぽーん (かのん……かのん、ついこの前だよ、生まれたばかりのお前をこの手で抱いたのは……)  花父が倒れそうになっているのに気づいた広岡は慌てて花を支えた。 「しっかりしろよ!」 「広岡さん……さっきの、聞こえた? 違うよね、ジェイの嫁さんになるなんて花音は言ってないよね?」  恐ろしく可笑しいのに、今笑ってはいけない場面だということくらい広岡には分かっている。  ジェイはジェイで降って湧いたような『嫁さん騒動』に頭が回らない状態だ。 (俺、結婚してるんだよ、花音ちゃん) そう言いたいけれど、やはりどこかに理性が残っているのだろう、危ういところで言葉にはなっていない。 「花音、本当にジェイくんのお嫁さんになるの?」  真理恵の質問にしっかりと頷く花音。真理恵は真面目な顔でそれに答えた。 「よく考えたのね?」 「うん」 「じゃ、花嫁修業をしないと。それからじゃないとお嫁さんになれないから」 「『はなよめしゅぎょう』って、なに?」 「立派なお嫁さんになるためのお勉強をするの。それが終わらないとジェイくんは花音をお嫁さんに出来ないんだよ」 「お母さんもしたの!?」 「もちろんよ! だからお父さんに『結婚してあげる』って言ってもらえたんだから。今のままじゃ花音はジェイくんに『結婚していいよ』って言ってもらえないな」  花音が不安そうに聞く。ただし、手はまだジェイの首に回ったままだ。 「何をすればいいの?」 「お洗濯。お料理。お掃除。お掃除はトイレもお風呂もお部屋の中もお庭も全部よ」 「そうなの!?」 「そうだよ。お母さんはずっとそれを完璧にやって来たの。花音も頑張らないと、ジェイくんのお嫁さんに選んでもらえないよ」 「頑張ったら……ジェイくん、頑張ったら私をお嫁さんにする?」 「花音ちゃん、俺には……」  口走りそうになる。 ――愛している人がいるんだよ ――その人と結婚してるんだから花音ちゃんとは結婚できないんだよ 「ジェイくん! そうよね?」  真理恵が釘を刺す。ジェイは本音を言いかねない。 「……うん、花音ちゃん、ごめんね。花音ちゃんをとっても好きなんだけど……」  好きなのは間違いないから、嘘は言っていない。  花父は混乱している。この前(と言っても去年の初めの頃の話)花音は『お父さんのお嫁さんになる!』と言ってくれた。なのに、この心変わりはなんだろう……  花音のことになると頭が単細胞になる花父。 「じゃ、今はだめなんだね……」  悲しそうにジェイから離れた花音は次の瞬間、花父に抱きついた。 「お父さん、まだジェイくんのお嫁さんになれないんだって……ジェイくんを虐めない?」 「虐めないよ」  機械的に答える花父。 「じゃ、もう少しお父さんで我慢しとく!」 「おい、いつまで客を外に待たしとくんだよ!」  客と言いながらずかずかと勝手に登場したのは、『あの哲平』。 「なんだ? みんなで深刻な顔しちゃって」  広岡がそっと言う。 「花音ちゃんが『ジェイのお嫁さんになる』発言をして今揉めてるとこで……」  最後まで聞かない哲平は花音を花から取り上げて抱いた。 「そうか、ジェイのお嫁さんになるのか! 見る目あるな、花音は。なっちゃえ、なっちゃえ。ジェイなら花音のこと、大事にしてくれるぞ」 「哲平さん!」 「哲平さん!」 「哲平さん!」  ジェイと花と真理恵が一斉に叫んだ。 「でも、花嫁さんになるのにお勉強がいるんだって」 「そんなのいいよ! 好きならそれだけでいいんだ」 「哲平さん! やっと落ち着きかけたんだよ、やめて!」 「なんだ、ジェイは花音が好きじゃないのか?」  また静寂が訪れる。これは答え方次第では大惨事になり兼ねない。  花父の縋るような目。花音のきらきらした期待の目。どちらかというと他人事で笑いを抑えている広岡の目。困ったという真理恵の目。 「どうしたんだよ、返事に詰まるようなことか?」 (哲平さん、酷いよぅ) ジェイは泣きそうだ。哲平を恨みがましい目で見る。  その頃になって哲平はやっとみんなの目の意味が分かった。特に瀕死状態の花。 (そうか、やっちまったか) 「花音。ただな、日本には厳しい法律がある」 「ほうりつ?」 「そう! 国で決めたルールだ。それでは結婚は18歳になるまで出来ないことになってるんだ」 「花音、まだ6つだよ!」 「そうだな。花音が小学校と中学校と高校を卒業して、やっと結婚が出来るんだ。それまで我慢できるかどうかが問題だ」  花音が泣きそうな顔になる。 「お父さんを見てごらん?」  口がへの字になった花音は父を見た。 「見た?」 「見た」 「じゃ、今度はここにいるみんなの顔を見てごらん」  花音がみんなの顔を見回す。 「見たよ」 「みんなの中で一番一生懸命花音の顔を見ていたのは誰だった?」 「……お父さん」 「ってことはさ、残念だけどジェイは花音のお父さんより一生懸命になれていないってことだ。だからジェイも頑張ってお父さんより花音を一生懸命見る勉強をしないといけないんだ。花音はジェイが一番なんだよな?」  花音が真剣に頷いた。 「そのジェイよりお父さんは花音を見てるんだからすごいって思わないか?」  今度は花音は父の顔をじっと見た。花父の目は涙で揺れている。 「お父さんってすごいだろ? お父さんには花音しか見えてないんだよ」  哲平が花音を下ろすと花父に真っ直ぐ飛び込んで行った。 「お父さん! 抱っこして!」  抱き上げて花音に顔を埋める花。 「花音、花音……お父さんを好きだよね? 嫌いじゃないよね?」 「うん、好き! さっきはごめんね」 「いいんだよ……花音が好きって言ってくれて嬉しい……お父さんは花音が一番好きだよ」  いつの間にかそこにいた花月。 「僕はやっぱり拾われた子なんだ……」  哲平は今度は花月を抱き上げた。小さい声で言う。 「あのな、花月。女の子は『一番』って言葉に弱いんだよ。男はぐっと耐えている姿が一番カッコいいんだ。俺には花月の方がカッコよく見えるけどな」 「でも、僕は拾われたんだってこの前哲平おじちゃんが言ったよ?」 「あれは『かづき』の話じゃないよ。『かずき』っていう猫がにゃあにゃあ鳴いて、その声で『はな』……この顔の真ん中にある『鼻』だぞ? その鼻に拾われてくんくん匂いを嗅がれましたっていうお話。面白かったろ?」  今度混乱しているのは花月の頭だ。哲平の言う『お話』が呑み込めない。 「僕のことじゃない?」 「まさか! お前はお父さんとお母さんの可愛い長男坊だ。長男って偉いんだぞ。お前のお父さんも長男だし、哲平おじちゃんも長男だ。ジェイもそうだしぶちょーさんもそうだよ。真おじちゃんは次男……2番目だからあんまり偉くない。花月の『長男仲間』って、最高のメンバーだろ?」 「ぶちょーさんもそうなの!?」 「そうだよ」 「ぶちょーさん、カッコいいよね、僕大好き!」 「安心したか? だから花月は心の大きい最高の長男にならないと。女の子が大切にされるのは当たり前なんだ。広い心で認めてやれ」 「うん! 僕も最高のちょーなんになる!」  哲平が下ろすと花月は花音のそばに行って大きな声で言った。 「花音! お父さんは花音が一番好きだって! 良かったね!」 「お前ってさ、ホントに丸め込むのは天才的だな」  広岡が呆れた声で言う。 「巧みな話術と言ってくれ」 「はいはい、お兄ちゃん。俺があんまり偉くないって? 悪かったですね、課長」 「いじけるなって。俺さ、腹減ってんだけど」  真理恵がやっと現実に戻った。さっきまでまるでドラマの中にいるような気持ちで花の涙を見ていたのだ。 (花くん、きれい……)と。 「ごめんなさい! 哲平さん来てるのに気づかなかった!」 「そりゃ、無いよー。今一番活躍したのは俺だよ!」 「じゃ、哲平さんの好きなもの先に出すね。ビールのおつまみ、何がいい?」 「たくあん! それから当たりめと真理恵のひじき。作り置き、あるんだろ?」 「あるよ、ウチの常備菜だもん。今日はサトイモの煮物もあるけど」 「それ、もらう! 台所に行くよ」  ジェイには目が回るような20分だった。突然の降って湧いた『嫁騒動』。 (蓮に言ったら『浮気する気か!?』って怒られるかな……) そんな心配が生まれている。この手の話じゃジェイの頭も花音並みだ。  やっと子どもたちが本来の遊びに戻って行った。それを覗きに行った哲平は、上気した顔で花月の隣に座っている和愛を見て微笑んだ。 (いい顔だ…… 千枝、和愛の初恋の相手は花の息子だぞ。これはこれで大騒ぎになるかもな)  広岡の娘、椿紗も花月を好きなのを知っている。池沢家の穂高は椿紗が好きだ。双葉はまだ小さくてそんな心配は要らない。 (池沢さん、知らないんだよな、穂高の初恋) 先々を考えるとあちこちに恋の蕾が膨らんでいる。 (千枝、お前も見てて楽しいだろ?)  そんな語りかけにもう涙は落ちない。哲平はいつも千枝とお喋りしているのだ。  男同士の(うたげ)が始まる。 「花、落ち着いたか?」 「なんか釈然としないけど。哲平さんにいいとこ取りされた気分」 「お前さ、もう耐性つけろよ。多感な女の子は『あれが好き、これが好き』って言い続けるぞ。俺の姉妹も忙しかったからよく分かる」  一知花は高飛車な恋多き女。二知花は陰から見るタイプ。莉々は遠慮なく突っ走るタイプで茉莉は男性にちやほやされている。 「そんなの本気で取ってたら父の威厳なんて保てないぞ」 「哲平さんには分からないよっ! 和愛はまだそんなこと言わないんだろ!?」 「明日のバレンタイン。和愛はもうチョコ用意してるよ」  花の箸が止まった。ついでにジェイも(バレンタインってなんだっけ?)  広岡はあまり感じていない。椿紗が恋? そんなまさか。 「哲平さん、よく平気だね! 相手の男に腹が立たないの!?」 「わっ!」  哲平が吹き出したビールはほとんどジェイが被ってしまった。 「ひどいよっ! 飲み込んでから笑ってよ!」 「相手の男って……花、子どもたちの年、分かって言ってんのか?」 「そ。花はいちいち大袈裟なんだよ。まあ、可愛い一人娘が誰かを好きだって分かったらそうなるのかもしれないけど」 (広岡、お前もその内のたうち回るぞ、きっと。楽しみだな) 哲平は腹の中で笑っている。 「話がある」  哲平の正座に、一同も正座になった。もう哲平の正座の意味をみんな知っている。何かの決意表明だ。両手は膝の上。ジェイは真剣な顔で哲平の顔を見ている。 「今夜、俺はここに泊まる」 「………………で?」  花の声から温度が消える。 「一つ目はそれ」 「……2つ目は?」 「俺は職場復帰する」 「それが一番目でしょ! なに、すっとぼけたこと言ってんだよ!」  喜ぶより先に思わず怒鳴った花。 「本当か? 一昨日来た時には何も言わなかったじゃないか」 「言おうと思ってたんだけどな、今日みんなが来るって聞いたからさ。どうせならと思ったんだ」 「哲平さん!!」 「おい! 重いって!」  哲平に抱きついたジェイは早くも泣き出している。 「帰ってきてくれるの? 本当に? 待ってたんだ、そう言ってくれるの……」  震えるジェイの背中を叩く。 「ああ、帰ることにしたよ、第二の我が家に。席、あるんだろうな?」 「もちろんだよ!」 「埃、被ってないか?」 「俺、毎日磨いてた」 「そうか」  ジェイがそう言うのだから本当に毎日磨いているのだろう。 「待たせたな」 「うん……うん、待ってたよ」  花も涙が出そうになるのをぐっと堪えている。 「いつ? いつから?」 「急かすなよ、花。まだ実家にも言ってないんだ。和愛は承知してくれた。千枝のご両親にも挨拶をして来たい。だからそういうのが落ち着いてからだ。それくらい待てるだろ?」 「戻ったらすぐに忙しくなるよ」 「望むところだ」 「哲平、この話、まだ会社で言わない方がいいんだよな?」 「先に常務と部長に挨拶に行くよ。それからだ」 「分かった。俺からは……花もジェイもだぞ、言わないでおく。お前に任せるよ」 「ありがとうな。最初は下働きするよ。様子が掴めないから」 「……何年になる?」  花の言葉に考える。 「最後は確か……部長が泣きながら俺にしばらく休めって言ってくれたのを覚えてるよ。俺、『ふざけるな!』って言ったんだ。でも部長は怒らなかった。有難かったと思う」 「哲平さんのいなかったの、2年と4ヶ月だよ……長かった。本当に長かった。入院してる時にお見舞いに行って……その時『ああ、もう哲平さんは戻らないんだろうな』って思ったの、覚えてるよ」 「悪かったな、ジェイ。自分でもあんな俺は初めてだったよ」 「あの後哲平、しばらくいなくなったよな、和愛を実家に置いたまま。聞いてもいいか? どこにいたのか」  広岡はいつもその話を避けてきた。哲平が口にしないから。そのことも知っている。 「寺に行ってた」 「寺?」 「昔行ったことがあってさ、自分を探すってヤツ。寺の修行って辛いんだぜ。特に俺の行ったとこ。でもな、自分が見えてくるんだ、だんだんと。戻ってやっと分かったんだよ、和愛が大きくなってるって」  花はずっと辛かった。何度も和愛を自分の家に連れて来たし、あの頃は普通に哲平と話が出来る状態じゃなかった。 「今夜、俺も泊まろうかな」  広岡が言い出す。ちょうど莉々がひじきを持って来たから哲平の話をした。 「ホント!? そうか、復帰かぁ。父ちゃんも母ちゃんも喜ぶよ!」 「言わないでおいてくれないか? 俺がちゃんと話したいからさ」 「分かった。何も言わない。和愛はどうするの?」 「おばあちゃんたちのところで帰るのを待つって。でも何か考えなくちゃいけないだろうな。残業もあるから遠いのは困るし」 「哲平さん! この近くに家、探さない?」 「ここ?」 「考えてたんだよ、近くに引っ越してこないかなって。真理恵もいるしさ、花月たちと同じ学校っていうのも安心でしょ?」 「和愛が喜びそうだ(花月と近くなるしな)。考えてみるよ」 「俺、物件探しておくからさ! そうしなよ」  ジェイも嬉しくて堪らない。花兄(はなあに)哲兄(てつあに)を助けている姿が。 (蓮に内緒にしておくってこと? うわぁ、言いたい! 今日言いたい! 今夜言いたい!)  けれど……哲平が会社で落ち着くということは、蓮が会社を辞めるということだ。 (そろそろ俺も決めないと。自分がどうしたいのか) 蓮はそこは『自分で決めろ』と言った。 「それでさ、今日泊まろうと思って。莉々は大丈夫?」 「いいわよ。椿紗も喜ぶだろうし」 (そりゃ喜ぶさ! 花月のそばにいられるんだからな) 今のところ、全員の恋の方向を網羅しているのは哲平だけだ。 (楽しみだな、千枝。親父どもの慌てふためく顔が見れそうだ)  
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