2話

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2話

++  首吊りのことを医学用語では縊死と呼ぶが、縊死は定型縊死と非定型縊死の二種類に分かれる。  定型縊死とは一般的に知られる首吊りの形であり、身体全体が地面から離れ完全に宙に浮いている状態で行われた縊死のことを指す。一方で非定型縊死とは膝をついたり、寝転がったり体重の一部が地面にもかかった状態で行われる縊死を指す。  花代の死因はこの非定型縊死だった。蔵の扉に背を預けるようにしながら、扉の持ち手に縄をかけたのだ。  司法解剖の結果、彼女の死因は深夜零時プラスマイナス一時間というところだという。ちょうど私が雪乃と昔話にふけっていたころだ。 「では22時から朝の7時にかけて、蒼樹さんは並木さんとずっと一緒にいたわけですね」  私は今事件のことで、2人の刑事に事情を尋ねられていた。場所は並木家の空き部屋だ。相手は田上警部と野木という巡査で、どちらもかつて事件現場で面識のある刑事だった。  口裏を合わせられないようにこうした事情聴取は1人ずつ別室で尋ねられるのが通例だ。それは探偵として多くの事件で捜査に協力してきた私でも例外ではない。 「はい、お互い一、二分程度の中座は何度かしましたが。あの蔵まで私たちが話していた今からは走っても二分はかかる。おまけに雪乃が外に出た気配もなかった。殺人は無理だと思いますよ」  田上警部はなるほど、と言って納得したように頷いた。思わずほっとする。どうやら私の証言は雪乃の疑いを晴らすことができたらしい。 「並木花代さんの着ていた制服からはこんなものが出てきました」  そう言って田上警部は私の前に袋に入れられた一枚の便箋を差し出した。便箋には三つ折りされていたと思しき折り目が付いている。  あの人が寂しがっているだろうから。私もあちらに行きます。これまでお世話になった方々には、このように恩を仇で返す形となってしまったことを深くお詫び申し上げます。そんな文章が花代の自筆の文字で書かれていた。 「花代さんの担任の先生に確認したところ、花代さんの同級生で病死した男子生徒がいたことと花代さんがその生徒と仲が良く、彼の死を嘆いていたことをお教えいただきました。……恋人というわけではなかったようですが」  私はどこか胸に穴が開いたような感覚になった。私は頻繁に並木家に出入りし、時として彼女の勉強を見てやることもあった。にもかかわらずそんな変化にはまるで気が付かなかった。  あまりにも見る目がない。  何が名探偵だ。この世のすべてのことがわかったつもりにでもなっていたのか。図に乗りやがって。 「ただ一点気になるのは花代さんの遺体から睡眠薬が検出されたことです」 「睡眠薬……?」 「ええ、寝ている間に死ねると思ったのかもしれませんな。実際にどうだったかは定かではありませんが」  彼女は安らかに死ぬことができたのだろうか。 ++  刑事たちが帰っていったあと、私は放心したような様子の雪乃の体面に腰掛ける。そしてテーブルの上に投げ出された彼女の手のひらに昨夜と同じように手を重ね合わせるようにした。今度は払いのけられることはなかった。  幼いころ私が落ち込んでいると兄が決まってこんな風に元気づけてくれたのを思い出す。彼女の手は昨夜のように冷たくはなかった。 「花代があんなことを考えていたなんてな。まるで気付けなかった」 「――無理もないわよ。姉の私でも寝耳に水、という感じだったから。ほんと姉失格ね」  雪乃は伏し目がちにそう呟いた。 「本当に知らなかったのか」 「え?」  雪乃は怪訝そうな目でこちらを見る。 「本当に知らなかったのかと聞いているんだ。そもそも花代は本当に自殺なのか。おかしいと思ったのは蔵の鍵がちゃんと籠のなかに戻されていることだ。自殺する人間がそんなことを気にしたりすると思うか」 「鍵がなくなっていたら私や月子が花代は蔵のなかにいるって考える。花代は死ぬのを邪魔されたくなかったんじゃない」 「だったら自殺の場所に家を選ぶ必要はない。仮に適当な場所が見付からなくてどうしても家で自殺をしたいなら普段通りに帰宅して普段通りに自室で死ぬほうが合理的だ。  花代が偽装自殺によって殺されたんだとしたら、犯人は花代の苦悩を知っている人物だ。家族か学友かそのほかの近しい人物か」 「だからって私を疑うのはおかしいわ。私たち2人のアリバイはお互いが保証してるはずでしょ」 「ついさっきまでは私もそう思っていたよ。でもあんなものは何の保証にもならない。例えば花代を氷の土台の上に座らせておけばどうだ。溶けるにしたがって彼女の首と扉の持ち手の距離は遠ざかれば次第に彼女の頸部にかかる力は増す。  古典的なトリックだよ。溶けた氷の痕跡は私が寝ている間にふき取ってしまえばいいはずだ」  このトリックが使われた証拠はない。それでも重要なのは可能だったことだ。しかしだとすればなぜ雪乃はアリバイの証人に私を選んだ。探偵の私を。  思いあがるな。私はいかなる事件においても、雪乃がその場に居合わせたとき、彼女を端から容疑者の埒外に置いていた。彼女の言葉に嘘があるとは考えたこともなかった。それを雪乃に見抜かれたいだけのことだ。  探偵蒼樹月子は並木雪乃にとっておそるるに足らない存在だった。それだけのことだ。 「月子は見せられなかったの、刑事さんたちから。花代の自筆の遺書を」 「見たよ」 「あれが花代が自殺したことの何よりの証左じゃないの」 「君は作家だろ。たとえば小説の原稿の遺書の部分をこのような文章に差し替えたいと言って花代に口述筆記してもらうことができたはずだ」 ――この事件が起こった1960年時分――メキシコシティオリンピックの年――まだワープロはほとんど普及しておらず作家は手書きだった。暖房器具と言えばエアコンではなくストーブ、電話と言えば固定電話の時代である。 「私は自分の原稿は自分で書くわ。それに遺書は原稿用紙じゃなくて便箋に書かれていたはず」 「すぐに修正部分を送らなきゃいけないんだけど、利き腕を怪我してて、とでも言えば花代は引き受けてくれたんじゃないのか。原稿用紙は切らしたとでも言って便箋に書かせればいい」 「どれも、私にそれが可能だったという証拠に過ぎないわ。それじゃ証明したことにはならない」  ああ、雪乃。そんな風に言うのはやめてくれ。私が今まで対峙してきた犯人は皆最後はそんな風に言った。  図星を突かれて狼狽しているのか。彼女の手のひらの温度は急速に下がっていった。まるで氷のように冷たい。  あのときも雪乃の手のひらはこんな風に冷たかった。直前に氷を触ったからか、緊張していたからか定かではないが、彼女は氷によって温度が下がったと思ったのだろう。だから私に悟られまいと私の手を振り払った。  私が警察にこのことを話せば神経の細い雪乃が警察の詰問に耐えられるはずがない。入念な捜査が行われれば花代が昨日いつも通りに夕方には並木家に帰宅していたという目撃情報も得られるかもしれない。  思えば雪乃はずっと花代のことを恨んでいたのだ。海でおぼれそうになった花代を助けるために雪乃の恋人であり婚約もしていた陽一郎が溺死した三年前のあの日から、ずっと。だけど雪乃、花代だってそのことをずっと気に病んでいたんだよ。  私は二人でいるとき、花代から打ち明けられたことを思い出していた。あの娘は自分がお前の幸せを奪ったと、人生をめちゃくちゃにしたと嘆いて。  雪乃の狼狽ぶりから見て、彼女が花代を殺したのはきっと間違いないのだろう。  それでも私は、彼女の冷えた手が妹を手にかけたのだとは信じたくはなかった。それは私が雪乃のかつての恋人である蒼樹陽一郎の、私の兄の代わりにすらなれていなかったということにほかならないのだから。
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