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1話
あれはオリンピックの興奮が完全には冷めやらぬ夏と冬のはざまの出来事だった。マスメディアは4年後の同じ時期に行われる手筈となっている東京オリンピックへの期待を煽っていた。
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探偵蒼樹月子の手記より
我が家のテレビの前では、母親が4年後の東京オリンピックについてさぞめでたいことであることのように呑気な発言をし、生来――私は彼の幼いころの人格など知る由もないが写真を見ればいかにもそういう顔をしている――ペシミストの気のある父親が何がめでたいものかとくさすように言った。
並木雪乃から彼女の妹である並木花代がまだ帰宅していないという話を電話で聞いたのは22時を回ろうかというころだった。
私は受話器を置くと、就寝の準備をしていたのにも構わず家を飛び出した。
私と雪乃は――公立の――小学校時代からの同級生だった。つまりは同じ学区で、双方の家の距離は自転車で二十分とかからないところにあった。
出迎えてくれた雪乃は仕事中いつも気が散らないように後でまとめているはずの髪を下ろしていた。原稿の締め切りが近いはずだがとても仕事をする気にはなれないのだろう。
花代は雪乃の妹でもう中学三年生になる。
「心配しすぎじゃないか。花代ももう来年は高校生になるんだし」
彼女はこんな時間まで遊び歩くようなタイプではないが、何しろ多感な時期だ。家に帰りたくない日の一日や二日あったって不思議ではないだろう。
「あの娘は遅くなるときでも必ず連絡をくれたわ。それになんだか、陽一郎さんのときと同じような感じがして」
この家には死の香りがまとわりついている。雪乃の恋人であった陽一郎が水難事故に遭って命を落としたのは三年前の夏だった。
さらに遡ること八年、つまり十一年前には雪乃と花代の両親はともに交通事故で命を落とした。
三年前の夏、救助された陽一郎は近隣の病院に運ばれ、賢明な救命措置を施されたが、その甲斐なく命を落とした。きっと雪乃はそのとき手術室の前で待っていたときの不安に押しつぶされるような気持ちのことを思い出しているのだろう。
「わかったよ。私のほうからも警察の知り合いに口添えしてみる」
私は哲学の研究のために大学院に通っているが、いわゆる素人探偵というやつで十件と少しの事件を解決に導いた経験がある。そのため警察には多少顔が利いたのであった。とはいえ、彼女が最後にこの家を出てから一日も経っていない。その程度のことでは人員を動員するのは不可能に近く、気休め程度にしかならないだろう。
雪乃が淹れてくれた熱すぎるぐらいのコーヒーを音を立てて啜ると、彼女の表情を一瞥する。不安の色はちっともぬぐえていなかった。私は思わずテーブルの上にある彼女の手のひらに自分の手のひらを重ね合わせた。自分でもびっくりするぐらい無意識化での行動だった。
彼女の手のひらは驚くほど冷たかった。雪乃は振り払うようにして私の腕から逃れた。
「ごめん。今はそういう気分になれないから」
「そういうつもりじゃなかったんだが――」
私はあわてて取り繕うように言った。
そういう気分ね。私と雪乃は一年半ほど前から肉体関係にある。私は同性でありながら、雪乃のことを中学生ぐらいのころにはすでに恋愛対象として意識していた。雪乃の数人の歴代の恋人は陽一郎を含めいずれも男性であるから、彼女のほうにはそういう感情はなかったのではないかと思われる。
一年半前、雪乃はまだ恋人である陽一郎を失った悲しみから癒えていなかった。そんなところに卑劣な私が付け入ったのだ。
せめて私の存在が失った恋人の代わりぐらいにはなれているといいのだが、というのはあまりに偽善的だろうか。
私は眠れないという雪乃に付き合ってテレビを横目に昔話をして夜通し過ごした。朝七時になってニュース番組が始まると、流石に眠気に限界が来たのか、少し眠った。
次に目覚めたのは三時間経った十時のことだった。並木家の居間には藤島さんという雪乃を担当する女性編集者がいた。私も以前に三度ほど面識があった。
雪乃は原稿がまるで出来ていないことを平謝りしている。彼女は推理小説を書いて生計を立てている。彼女の小説のうちいくつかは私の関わった事件をモデルに、元の事件を辿れない程度に改編したものだ。
私が素人探偵として活躍するより、雪乃が小説家としてデビューしたほうが早く、彼女が私をダシにして小説家の道を歩み始めたのではないことは断っておく。
「そういう事情なら仕方ありませんよ」
藤島さんは雪乃に頭を下げるのを止めるよう言った。どうやら大体の事情は藤島さんにも打ち明けたらしい。多分早くに両親を亡くした雪乃はこの十歳以上も年上の女性編集者に母親か姉のような情を抱いていることを考えると不思議ではない
私は寝ぼけ眼をこすると、ぶるりと肩を震わせるとともにくしゃみをした。季節はもう秋だということか、少し肌寒かった。
ストーブを取ってこようと雪乃が言った。ストーブは蔵にしまってあるらしく、私も手伝うよう要請された。この家は歴史ある家で、雪乃や花代が暮らす建物は現代風の建築だが、門構えや裏手にある蔵などところどころに歴史の残り香が漂っていた。
おかしいなと思ったのは蔵の扉にかけられた巨大な南京錠の鍵が開いていたことだ。鍵はいつも通り玄関を入ってすぐのところにある籠のなかに入っていたのだが。
雪乃は怪訝そうな顔をしつつも扉を開ける。観音開き形式の扉の両方を、持ち手を持って引っ張ったが、何かが引っ掛かっているのか動いたのは右の扉だけだった。
開いた右の扉から私は左の扉を覗き込む。そこにはローブが引っ掛かっている。そしてロープの輪の先には変わり果てた花代の相貌があった。
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