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 残された帝太郎は口を「へ」の字にして、手にした先刻の玉と、今まで玉郎が居た辺りとを交互に見比べた。  見詰める床の上にはご丁寧に、先ほど玉郎に取り上げてもらったはずの弁当が鎮座している。  消える寸前、玉郎がわざと弁当から手を放したであろう事を、帝太郎は知っている。分かるからこそ腹が立つ。  不満げに立ち尽くす帝太郎に、 『ほら急げ。可愛い子ちゃん達が待ってんだろ?』  玉の中からくぐもった声が急かす。  その声に、帝太郎はちらりと腕時計を見遣ると、 「げっ!」  足元の弁当を引っつかんでアパートを飛び出す。  さっきまであんなに痛がっていたはずのお尻さえ庇おうとしない。察するに、先程までの態度、半分は玉郎への甘えがあったのだろう。  靴を履くのももどかしく感じられてしまうくらい押っ取り刀で飛び出したものだから、コートを玄関先に置き去りにしてしまった。しかもそれに気付いたのはアパートの階段を駆け下りた後。あまつさえ、部屋の入り口には鍵までかけてしまっていた。  階段を見上げて一瞬立ち止まったけれど戻っている時間はないのでそのまま道に出る。  その途端、身を切るような冷たい風に吹きつけられて、またもや動きが止まってしまう。  風を遮ってくれる壁がなくなった事が何だかとっても恨めしい帝太郎である。 (どうしよ〜)  一度は諦めたコートの事が頭を掠めてしまうのも無理はない。迷いながら見上げた空にはどんよりと重苦しい鈍色(にびいろ)の雲。今にも雪になりそうな、こんな空模様の日に、コートを忘れてしまったのを後悔する時間的ゆとりは、やっぱりない。  もう一度確認のため腕時計に視線を落とすと、それに弾かれたように一気に駆け出す。  針は七時四〇分を指していた。  託児所まではバスで大体十五分。  最寄りのバス停までは徒歩一分。  そこを四十二分に発車するバスに乗れなかったら、完全に遅刻してしまう――。
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