3.

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 月曜日と木曜日は燃えるゴミの日である。  しかし昴は月曜日のゴミ出しに勝利できたためしがない。そもそも月曜日は憎むべき曜日であり、ぎりぎりまで布団の中にいたい日でもある。そんな曜日にゴミ出しまでやるなんて、言語道断。  というわけで、昴は月曜日の家事分担ポイントをだいたい神里に奪われてしまうのだった。月曜日の神里は変態で(と昴はかなり本気で思っている)月曜日のくせにいつもと同じくらい早い時間に起き、ゴミ出しをやってのけるだけでなく、弁当まで作ったりするのである。  本人は「週末に作り置きができたからむしろ月曜は弁当日和」などとのたまうのだが、これを変態と呼ばずしてなんと呼べばいいのか。月金で働くサラリーマンはあまねく月曜日を呪っているはずではないか。  そんなことを半分寝ぼけた頭で考えつつ、パジャマのまま昴が二階から降りてくると、リビングにつながったキッチンからはいい匂いがする。昴は鼻をひくつかせ、今日は自分の分もありそうだ、と思う。味噌汁の香りがするときはほぼ確実に自分の朝食もあるのだ。一方、油の匂い――目玉焼きやウインナを焼く匂い――のときは確率が半分になる。コーヒーの香りしかしないなら、神里は朝飯抜きでもう靴を履いているだろう。起床時間はともかくとして、通常、出発は昴の方が早いのだが、出張だかなんだかで神里が先に家を出ることが時々ある。  明日の予定をお互いに確認したりしないし、起きた時に同居人が何をしていようが、本来どうということでもない。とはいえ洗面所やトイレはひとつ、風呂場もひとつだから、自然に同居人の生活リズムに詳しくなって、今の頃合いならあっちは洗面所でヒゲを剃っているから、こっちは先にコーヒーを飲んでおくか、といったことを考えるようになる。  もっとも月曜朝の昴は他の曜日の朝より格段に役立たずだ。何も考えず洗面所のドアをあけたとたん、半裸の神里と対面することになった。 「――悪い」 「おはよ」  神里は気にした様子もなかったが、昴はぴしゃりとドアを閉めた。  昴は朝起きるとまず洗面、それから着替えへ移行する。だが神里は起きてまず朝食を作り、それからシャワーをあびて着替えて飯、という習慣を持っている。何年同じ家に住んでもこの順番が変わるなどという事態は神里にも昴にも起きなかった。習慣というのは強固なのだ。  キッチンに行くと、案の定朝食はすでにできあがっていた。しかし昴は顔を洗うまでは食べない主義だ。洗面所から神里が出てくるのを待ちながらホワイトボードに貼った表をチェックする。ゴミもすでになくなっているから、今日の神里はフリーポイントもあわせて二点先取したことになる。いや、そこにある昴の弁当を入れれば三点だ。  学生のころ、神里がこんなにマメだと昴は知らなかった。それに彼が弁当を作りはじめたのは、この家の住民が減って昴とふたりになってからのような気がする。「同じものばかり食べているな」と神里に指摘されたのもふたりになってからのことだ。  たしかに昴は料理が得意ではない。だがコンビニ弁当は嫌いだ。スーパーの惣菜売り場で何を食べるか考えるのも面倒くさくて好きじゃない。外食は高くつくし、栄養も偏る。  いや、栄養だけをいうのなら、バランスやカロリーを考慮して必要な食材をきめ、自炊する方がよい。たとえば納豆、トマト、タマゴ、豆腐、それに蕎麦といったものを食べていれば、食物繊維もタンパク質も摂取できる。  ――等々と考えた結果、学生時代から昴の食事はだいたい同じ内容のルーティンになっていた。昴としてはこれでかまわなかったのだが、いつのころからか神里の作ったおかずがこれに混ざるようになっている。神里は料理に関しても変態で(と昴はやはり本気で思っている)毎日ちがうものを作る。気分転換になるらしい。  この家に住民がもっといたころは、共同で使う場所の掃除やその他の雑用について当番表を作ったりなどしなかった。最初のうちはトイレ掃除の当番を決めたりもしたのだが、あまり意味がなかったのだ。きれい好きな相原は汚すたびに洗う一方、坂田は当番のときも水をさっと流すくらいで、ほとんど何もしなかった。昴は自分のやるべきテリトリーを決めていて、それ以外のことは何もしなかった。そんな調子だから自然にやる人間は決まってしまい、たまに住民のあいだで口論が起きることもあった。  神里と昴だけになって、また当番制にしようと提案したのは神里の方だった。昴は深く考えもせずに同意し、最初のエクセル表を作った。ごく単純なものだ。それがいつの間にいまのようになったのか。  ともあれ昴にしてみれば、この仕組みが機能しているのは負けた方が焼き肉をおごるルールの影響が大きい。自分が負けず嫌いだと思ったことはあまりなかったが、神里に負けるのはなんだか嫌なのだった。そこへ焼き肉代が加算されるならなおさらだ。  やっと洗面所から神里が出てきた。神里は朝シャワーをあびるが、昴は夜風呂に入る派である。顔を洗ってキッチンに戻ると、神里はスマホを眺めながら朝食を食べている。味噌汁、ごはん、卵焼き。ポテトサラダは昨日の残りだ。これといった会話はしない。昴は急いでいた。遅刻は大嫌いだが、月曜の電車は遅れがちだ。  線路沿いの道には昴と同じような背広のサラリーマンが早足で歩いている。駅はそこそこ混んでいて、今日の昴はホームの端のあたりまで歩いて並ぶ。  東京の電車はどうしてこんなに混むのだろう。高校生のころから昴は電車が苦手だった。もっとも、就職して八年たった今では様々なノウハウを身につけている。たとえば昴は曜日によってちがう車両に乗る。身体移動だけを考えればいつも同じ場所に乗る方が効率がよい。だがそうするとたまに不都合が起きるのだ。  ぎゅう詰めの電車で揺れていると、貨物列車に詰めこまれたジャガイモになったような気がする。膝に当たる堅いものは誰かの荷物だろうか。昴は用心深く足をずらす。アナウンスによればどこかの路線で事故が発生し、振替輸送をしているらしい。道理でいつもより混んでいるわけだ。  乗り継ぎ駅に到着するとどっと人がつめかけ、昴は隅へ押し流されてしまった。またジャガイモが頭をよぎる。人間が長方形の立方体ならもっと効率よく輸送できるのに。車両の壁と人と鞄に挟まれながら耐えていると、急に尻に違和感を感じた。  他人の手だ。手が動いている。  昴は前に抱えこんだ鞄を持ちかえるふりをして体勢を変えようとしたものの、混みすぎている車内ではほとんど意味がなかった。手はまだ昴の尻をなぞっている。後ろにいるのは男かもしれないし女かもしれない。故意でなく混雑のなかで自分の荷物を探しているだけかもしれない。でなければスーツの男の尻を触ってなにが楽しいのか。  昴にはまったく理解できない。理解できないのにこんな手に何度も――高校生のころから何度も――遭遇するのは理不尽だ。誰かの脛が昴の脛にぴったり重なっている。革靴の踵で蹴ろうとしたとき、電車ががたんと揺れて止まった。駅についたのだ。扉が開く前に脛も手も消え去っている。  昴は占いを信じない。しかし今日は嫌な日だと思った。  現在の昴の仕事はどちらかというと暇な方である。  以前いた部署はそうではなかった。昨年異動したここも前任者からはそこそこ忙しいと聞いていたのだが、ふたをあけてみるとそれは「神エクセル」が異様に好きな上司のせいだった。一瞬で片付けられるはずの入力や計算をひとつひとつ手打ちしていれば時間もかかるというものだ。  そんな作業には耐えられないので、昴は異動直後から勝手にいろいろ改善をほどこした。その結果だんだん暇になり、繁忙期が終わった今はかなり暇だ。  昼休憩になり、デスクで弁当をひらくと見覚えのある唐揚げが入っていた。昨日の飲み会の唐揚げと同じようにみえるが、かじってみると味がちがう。神里がなにやらアレンジをほどこしたのだろう。  毎日ではないが、神里が弁当を作るようになって何年かたつ。神里にとって弁当作りは一種の趣味のようなものだと昴は理解しているが、自分にまでくれる理由はよくわからない。しかし習慣とは恐ろしいもので、昴はすっかり神里の弁当に期待するようになっていた。神里の腕はだんだんあがっているようで、見た目も美味しそうだし味もいい。 (は? それ完璧夫婦じゃね?)  唐揚げを食べながら坂田の言葉を思い出す。どういうわけか、昨夜の彼のこの発言があのあと何度もよみがえってくる。不快なわけではなかった。どちらかといえば不思議なのだった。夫婦ってこんなものなのだろうか。「両親」とか「夫婦」といわれてもいまひとつぴんとこないのは、父子家庭で育ったためか。  今日は胸のなかがずっとざわざわしていた。  昴は理由を分析しようと試みる。結婚祝いも兼ねていた昨夜の会や、朝の電車が原因だろうか。結婚といえば、坂田と赤根先輩のようになりたいと思ったことはないが、こんな調子でいいのだろうかとはたまに思う。何しろ「彼女」とか「恋愛」とかいったものと縁がないまま、もう三十歳だ。  しかし今のままではこの先も縁があるとは思えなかった。だいたい昴は女性をすこし怖いと思っていて、例外は赤根先輩くらいだ。これには飲み会で話題になった洗濯物事件のように、ピンポイントなこだわりに大げさに引かれた経験や、最初に出会った痴漢が女性だったことも影響していた。  もっとも、嫌な出来事そのものはわりとすぐに忘れる方である。なかなか忘れられない経験はいくらか脚色して面白い話にして、ダイニハウスの連中に聞かせていたものだった。そうすれば自分の嫌な記憶が薄れるし、話をくりかえすうちに脚色した方が事実だったような気がしてくる。  自分に都合のいいことだけ覚えているのはまっとうな生存戦略というものだ。  それにしても、どうして昨夜の坂田の言葉がこんなに気になるのだろう。神里はどう思っただろうか? 昴は同居人の顔を思い浮かべた。大学の頃の神里は女友達も多かったし、彼女もいたと思うのだが、いつの間にかそんな気配はなくなってしまった。近頃は休日でも昴と出歩いている。  ふと思い出して昴はスマホをタップし、クラウドに入れた先月の戦績表を呼び出した。僅差といっても負けは負け。それをごまかすつもりはない。 『焼き肉いつにする』  神里に送ったメッセージの返事は早かった。 『金曜とか?』 『混む』 『じゃあ土曜』 『いいよ』 『待て。土曜だと――がはじまるけど』  神里はよく昴を映画に誘ってくる。これもいつからだったか。学生時代に神里と映画を見に行ったことなどない。それがここしばらく神里の誘いに乗るうちになんとなく習慣化して、いまでは多少楽しみにもなっていた。シネコンの座席はゆったりして座り心地がいいし、暗い空間で大画面で見ればどの作品もそこそこ面白い。 『いいよ』  昴はスマホの画面をタップした。多少楽しみになったといっても、ひとりならわざわざ映画館に出かけることはない。
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