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「ん? あんなところにジムがある」と神里がいった。
「ジム?」
昴は自転車にまたがったまま同居人の視線を追う。線路沿いの細い道の右手に墨で書いたような〈トレーニングジム〉の文字が見えた。昭和のボクシングマンガを連想させる字体だ。
線路は最寄り駅に続いているが、昴と神里の住居は反対側である。引越してかなり経つのにこの道を通ったことはなかった。しかも二人ともスーツ姿だ。
これもめったにないことだったが、神里がこの先にあるというラーメン屋へ行きたいというので、会社帰りに駅で待ち合わせ、食べて戻ってきたところだった。
ラーメン屋は半年ほど前にオープンした小さな店だが、長崎県発祥のラーメンチェーンがプロデュースしているとかで、出汁に鯖が使われているらしい。スープがなくなると閉店するので、気になって寄ってみたのにいつも終わっている──そう神里がこぼすのを何度か聞くうち昴もだんだん食べたくなって、二人とも早めに帰る日に待ち合わせた、という次第である。
ラーメンはうまかった。昴は味に関しては保守的なタイプだが、一口すすったとたん口の中に広がった焼き鯖の香りはどこか懐かしかった。あっさりしているのにこくがあり、細い麺もつるつると食べやすい。もう少し食べたくなる味で、神里も同じことを思ったらしいが、「腹八分目で止めるんだ」とぶつぶついっていた。
以前から腹の出具合を気にしていた神里だが、最近はもっと気にしているようだ。しかし昴にしてみれば、神里の体型は以前より引き締まっている気がする。リビングで筋トレしているのをよくみるから、そのせいか。
目的のラーメン屋は住宅街の中にあった。帰りは駅を通らず、線路の向こう側のアパートまでもっとも短いルートで行くことにした。結果、小さな踏切を渡ることになったが、たどりついたとたん警報が鳴りはじめた。並んで電車が通るのを待っているあいだに神里は線路の向こうにある、その古めかしいジムに気づいたのである。
「すごい店構えだな。こんなジムまだあるのか」
神里の感心した口ぶりももっともだ。それは古い木造二階建ての建物の一階で、換気のために開けた窓から中がみえた。みるからに時代物のバーベルや懸垂が並んでいる。サンドバッグもぶら下がっているし、昔はボクシングジムだったのかもしれない。入口には「予約専用」という札が貼ってあった。
電車が通過して踏切がひらく。ふたりしてジムの横を通り過ぎたあと、昴は「おまえジムに行きたいのか?」とたずねた。
「うーん……最近気になるんだよなぁ……」
「フィットネスジムならあちこちにあるだろ。試しに申し込めば」
「でもさ、行くの最初だけかもしれないし」
「線路沿いなら電車の音が聞こえて飽きないんじゃないか」
「うーん……」
「太ってるわけでもないのに」
「そうか? でも最近、体力が落ちてないか気になってさ」
「そんなこともないだろ」と、思わず昴はいってしまう。
「一昨日、僕が寝たあともなんかやってただろ」
「え? あれはちょっとサンプリング試したかったの思い出して」
神里はそういってから、ハッとした顔で昴をみた。
「あ……ひょっとして一昨日って、やりすぎだった?」
昴は神里の視線をはずして前を向く。
「べつに?」
一昨日は連休最終日だった。といっても、ふたりともどこに出かける用事もなかった。おかげで一日目の夜はつい、ふたりともしつこくなってしまった。
つまりセックスが、である。
まあ、今回に限らない。ただどうも、ふたりだけでいるとこういうことが多くなるのだ。どちらかが用事があって出かけていたり、ふたりでどこかへ行ったりするとそうでもないのだが、何も用事のない連休はこれが続いてしまうのである。
しかし一昨日、昴がすこし呆れた(あるいは感心した)のは、終わってシャワーを浴びたあと──日付はとっくに変わっていた──神里が趣味の機材を置いた部屋に入って行ったことだった。
「いまから何やんの?」と昴が声をかけると、神里は「んーちょっと思いついて」と生返事をした。
何を思いついたのだと昴は思ったが、自分はさすがに疲れたし、明日は会社があるしでつきあって目をあけているつもりもなく、ダブルベッドをひとりで占領してぐっすり寝てしまった。
「ま、とにかくおまえの体力が落ちてる気はしないぞ。前みたいに腹も出てないし」
すると神里はやけに嬉しそうな顔で昴をみた。
「やっぱ昴もそう思う?」
「……知らん」
「え、どっちだよ」
「知るかよ、おまえの腹なんか」
しかしこれは嘘である。
昴はすこし前まで、神里の腹が今よりぷよっとしていたことを覚えているし、いまは臍の下にほくろがいくつあるかまで知っている。十年以上同居していようが、ただの友人がお互いの裸にそこまで詳しくなることなど普通はありえないとも思う。
しかしこういう「友情」もアリなのだろうか?
男同士だしな。
昴はそう思ったあと、自分で自分に首をかしげる。
男同士だし……?
「ま、ジムに登録したいならやってみれば。駅前にもなんかできてたし、筋トレマシンがあるんだろ。おまえ機械好きそうだし、ハマるかもよ」
面倒になって、昴はあくまでも適当な意見をいった。神里は首をひねった。
「そうかなあ……でもハマるかも、とか思うとそれも怖いんだよなぁ……」
自転車で住宅街を走っていると、あちこちから料理の匂いが漂ってくる。小さな交差点の手前で信号が赤になった。横断歩道の先のマンションの一階では銭湯のマークが輝いている。
「こんなところに銭湯があるぞ。知ってたか?」
神里は昴の問いにあっさり首を横に振った。
「行ってみる?」
「今度な」
神里は目を細めて銭湯の看板をみている。
「今日はチョコレート湯らしいぞ」
「チョコレート湯?」
「十四日だしな」
「バレンタインだから? チョコ入れるのか?」
昴は見慣れないものに出くわすとすぐ疑わしい声をあげてしまうのがつねである。神里は神里で、そんな昴を気にした様子もない。
「匂いのもとを入れるんじゃないか? あ、週末もやるって。十円チョコ配るってよ」
そのとたん信号が変わったから、昴はペダルを踏んで神里の前に出た。交差点を渡るときは、なぜかいつも神里に先んじたくなるのだ。もっともまたすぐ横に並ぶのだが。
「そうだ昴、帰ったらさ……」
「何?」
「バレンタインってほら、いろんなチョコレシピがSNSに流れて来るだろ? 電子レンジで作れる簡単チョコケーキっていうのがうまそうで」
「おまえ、腹が出るのを気にしてるんじゃないのか?」
「いいんだよ、今日はバレンタインだから。ラーメンは腹八分だし」
このための腹八分かとつっこみたくなったものの、昴は賢明にも口を閉ざした。神里のことだ、成功しても失敗しても、チョコケーキをふるまってくれるにちがいない。
道の先にハナミズキの木がみえる。昴と神里の家はその向こうだ。
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