926人が本棚に入れています
本棚に追加
ニューバージョン 2.
射精直後のあの感じを賢者タイムと呼ぶのは、いったいいつ、誰がはじめたのだろう。
日曜の夜、ベッドに寝転がって天井を眺めながら、栖原昴はそんなことを思っている。ミノムシのように巻きつけたタオルケットの下は裸。もちろんいまは「その時」ではない。そんな小理屈は頭に浮かばないのが賢者タイムというものだ。
カリカリッとかすかな音がして、エアコンの羽根が動いた。ダブルベッドのすぐ横でスタンドライトが光っている。九月も下旬になって、やっと昼間の最高気温が──毎日ではないが──三十度まで下がるようになった。
人体というのは不思議なものだ。日中の気温三十五度がデフォルトになると、三十度が涼しいと思える。それでも夜は寝苦しく、結局一晩中つけていることになる。ひとりで寝ていてもそうなのだから、隣に人間がいればなおのこと。
と思ったとたん、隣の人間がむっくりと起き上がる。こちらも裸である。
「昴、シャワー行ったっけ?」
呑気な声である。なんなのだ唐突に、と昴は思った。
「行ってないよ。僕ずっとここにいるだろ。いつその暇があるんだよ」
神里はきょとんとした顔つきになり、ついで照れくさそうに笑った。
「……不思議なこともあるかもしれないじゃん」
またも「なんなんだこいつ」である。神里は天性のボケではないかと思うのはこんなときだ。つい三十分前まであれやこれや、やっていたくせに。
しかし神里のこんな顔を昴は嫌いではなかったから──というより、かなり好きな方だったから「そんなのあるか。ゲームじゃあるまいし」というだけにとどめた。
実際のところ、終わったあとは二人ともそれぞれ、寝転がってスマホを見たりウトウトしたりで、その間はお互いに無関心である。いや、無関心はいいすぎか。ひと仕事すんだから、隣でごろごろしている人間が何をしていようが何を考えていようが気にしていない、という感覚である。
八月の中旬からなんとなく遠ざかっていた行為が復活したのは先週からだ。猛暑のさかりは、神里が実家に帰省していたり、昴がめったに行かないゲームイベントへはるばる出かけて疲弊したりで、いくらエアコンで部屋が涼しくてもベッドで取っ組みあう気分になれなかった。ところが先週、日中の最高気温が三十度を下回った日から、またルーティンが復活した感じがある。
昴は自分がルーティンを好む──というか、必要としていることを自覚している。すべてが判で押したように決まりきっているべきだとは思わないが、連日知らない場所へ出かけたり、外食のたびにちがう店に行くとか、そういうのはあまり好きではない。習慣化した行為が特にはっきりした理由もなく終わってしまうのも、好きではなかった。
「シャワー浴びるならさっさと行けよ」
タオルケットにくるまったままそういうと、神里は床に落ちたトランクスを片手でつかんで「昴もいかね?」といった。
「なんで」
「ひとりだと風呂場にお化けが出るかもしれない」
とはいえ昴もシャワーを浴びるつもりだったし、睡眠をとる前に、その辺に散らばっているバスタオルだのコンドームだのを始末しておきたい。行為の後始末をしないまま寝るのは昴のスタイルではないのである。
「やっぱ僕が先に行く」
「なんで?」
「お化けが出るんだろ」
昴は素っ裸で立ち上がり、その辺の下着やタオル類をひっつかんだ。階段を下りると洗面所の引き戸がすぐそこにあり、ユニット式の風呂場は洗面所の先にある。
以前住んでいた〈ダイニハウス〉は昭和の二階建て一軒家だったので、風呂場は昔ながらのふるめかしいタイル張りで、洗い場にくらべて浴槽がやけに小さかった。この「ダグウッドハウス」はそれよりはずっと新しいファミリー向け賃貸だ。洗い場は若干狭くなったものの、浴槽はゆったり足がのばせる長さがある。
浴槽の蛇口をひねり、湯を貯めながらシャワーで髪と体を洗った。三分の一ほどたまったところで浴槽に入り、足をのばすが、蛇口からはまだ湯が勢いよくほとばしっている。半透明のドアの向こうにぼんやりと影が立った。
「入れよ」
昴は蛇口を回しながらいった。ドアが開いて入ってくるのはお化け──ではもちろんなく、神里である。昴よりひとまわり大きな体が入ってくると、ユニット空間は急に狭くなる。
神里は風呂椅子に腰を下ろしてまず髪を洗い、それから体にとりかかった。うつむいて睾丸の裏側を洗っている様子をみて、昴はふと、あのしょんぼりしている陰茎がついさっきまで自分の中に入っていたのだと思いつき、変な気分になった。
神里は股間を片づけると、ボディタオルで腰、尻、胸、背中とやっていく。体をこするタオルは、神里はオレンジ色の〈ふつう〉。ちなみに昴は水色の〈かため〉である。
まもなく神里は最後の工程、つまりボディシャンプーの泡を流す段階に差し掛かる。昴は浴槽の中で立ち上がった。
「あがる?」
「ん。暑い」
神里のうしろをすり抜けて半透明のドアをあけ、。湯気が洗面所へ流れ出す前にバタンと音を立てて閉めた。すぐそこに置いてあるバスタオルで体を拭いていると、風呂場の方でバチャバチャと水音が立った。神里が湯につかったのだろう。
毎回というわけではないが、こんな調子で、終わったあとに風呂場を共有するようになったのはいつ頃だろう。たしか春ごろ、二人で近所の銭湯に行くようになってから?
ちなみに昴には、神里と「一緒に」風呂に入っているという意識はない。どちらかといえば効率の問題なのである。
効率の問題といえば、現在の洗面所には引き出しつきのカラーボックスが置いてあり、それぞれの下着が入れてある。〈ダイニハウス〉時代はタオルしか置いていなかった。引越のついでにシステムを変えたのだが、もちろんいまの方が圧倒的に効率がいい。
〈ダイニハウス〉は古い家で、洗面所は狭かった。それでもカラーボックスを置くくらいはできたはずなのに、どうして思いつかなかったのか。大勢で住んでいた時の習慣を引きずっていただけかもしれないが、これもまた、ルーティンとなった神里との行為のせいかもしれなかった。
昴は髪を拭きながら二階へあがった。自分の部屋のドアを一度開けて、むっとした空気に顔をしかめ、結局さっきまでいた神里の部屋に戻った。これは夏も冬もよくあることで、神里がダブルベッドを買ってからは、終わってからも同じベッドで寝ることが多いのである。夏はあらためてエアコンをつける必要がなく、冬は神里の体温が暖房の役割を果たす。
床に落ちていたスマホをみつけて拾う。時刻は午前一時半。曜日は月曜でも祝日だから、ダラダラ起きていてもかまわないが、いまの昴は眠かった。スマホをいじるのもなんとなく面倒で、頭の下で手を組んで天井を眺めていると、神里が戻ってきた。昴の横に寝そべって、枕を首の下に入れる。
「そういえばさ、明日花火だよな」
「え、もう? 十一月じゃなかったか?」
「去年は台風で延期になったからじゃないか? 明日は天気よさそうだから、予定通りなんじゃないか。前にチラシが入ってて……」
花火大会といえば夏、という印象が強いが、この自治体主催の花火大会は毎年秋に開催される。打ち上げ会場は川原で、近くには観覧席も設けられる。歴史はそれなりに長いようだが、駅に寄附を募る看板が立つところをみると、財政的には苦しいのかもしれない。
「一度は観覧席買ってみてもいっかと思ったんだけどさ」
神里はそういったが、昴は口をはさんだ。
「その辺の歩道橋から見えただろ? たしか去年……」
「方角を考えたら、駅横のスーパーの駐車場の方がもっとよくみえるかも」
「買い物ついでに行く?」
「だな」
花火大会の財政難は、スポンサー不足だけでなく、自分たちのような住民が多いせいもあるのではないか。しかし神里が観覧席を買うなどといったら、たぶん自分は反対しただろう、と昴は思った。花火をみるため金を払うというのは昴の金銭感覚にそぐわないのである。
きっと神里のことだ。昴の反対をみこして、駅前のスーパーを持ち出したにちがいない。
「消すか?」と神里が聞いた。スタンドライトのことだ。昴はもう目を閉じている。
最初のコメントを投稿しよう!