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ニューバージョン 4.
「ひょっとしておまえ最近、調子悪い?」
リビングのソファに座り、漫然とコントローラーを握った昴が神里にそうたずねたのは、十月最初の金曜日のことである。
時刻は夜十一時半。とはいえ休日の前夜だから、昴にとって夜はまだまだこれからだった。心置きなくゲームをやれば三時間か五時間はあっという間に過ぎるし、神里がその気ならべつのこともやれる。
しかし神里が帰宅したのは十一時すぎで、いつもよりかなり遅かった。残業かと思ったが、昴の真後ろに立った神里からはかすかに煙草の匂いがした。飲み会でもあったのかと思いながら顔を見上げたとき、何かがひっかかった。
「調子?」
神里は意外なことを聞かれたといった様子で目を見開く。
「べつに……そんなことないけど」
「いや、考えてみるとこの数日、顔が変だ」
「変? 変ってなんだよ。それより昴、晩飯食った?」
「食った。蕎麦と唐揚げ」
「……一応聞くけど、残ってない?」
「ない」
「職場の同期飲みでさ、腹にたまるものを食べそこねた」
神里はそうぼやくとキッチンへ行った。冷蔵庫を開ける音を聞きながら昴はテレビに向き直ったが、さっきまで遊んでいたゲームの続きをやる気になれず、コントローラーを置いた。
キッチンからは水の音と、まな板を叩く包丁の音がする。こういうとき、神里は料理が好きなのだと昴は実感する。自分ならカップ麺か冷凍食品か、何も食べずに寝てしまうかだ。
「何作ってんの」
キッチンの方を向いて聞くと「チャーハン」と答えが返ってきた。空腹ではないのに、熱したゴマ油の香りが食欲をかきたてる。
「僕の分もある?」
「そういうと思った」
じゃじゃっと炒める音の次に、皿を取り出すカチャカチャという音が続いた。
「できたぜ」
「おう。サンキュ」
テーブルには皿がふたつ。神里は中華鍋からネギと卵のチャーハンを盛りつけている。
「昴は少なめな」
「なんで?」
「もう食ったんだろ」
「おまえも飲んできたじゃないか」
「炭水化物はほとんど食ってない」
「ビールも計算に入れろよ」
結局チャーハンはほぼ等分になった。向かいあって食べ始めると、しばらくはふたりとも無言になる。
神里のチャーハンはかなり美味い部類だと昴は思う。すくなくとも、会社の近所のラーメン屋がランチに出すチャーハンセットよりはずっといい。食べながら何気なく顔をあげると、神里の顔はやっぱり変だった。コーラをグラスに注ぎながら、いったい何がちがうのだろうかと昴は考える。
昴は自分が「空気をちゃんと読める」タイプだと思ったことはない。むしろ鈍感な方だと思っているし、神里の機嫌がいいとか悪いとか、気分がよさそうだとかを考えることもめったにない。というか、昴と神里の同居がここまで続いているのは、お互いにそんなことを気にしなくてもいい間柄だからだ。
もっとも大学の頃、最初に会ったときからこうだったかというと、まったくそんなことはなかった。初対面の印象などまるで覚えていないし、シェアしている仲間が他にいたのもあってか、しばらくのあいだはろくに話もしなかった。たまにシェアハウス仲間と出かけたり遊んだりするときも、二人だけということはなかった。
すこしずつ様子が変わっていったのは、他の連中が全員出ていって完全な「ふたり暮らし」になってからである。共同生活のために意見をすりあわせる事柄が増えていったあげく、昴は表計算ソフトで家事分担表を作った。最初は本当にただの分担表にすぎなかったのだが、いつしかそのマス目を埋めることは相手に焼肉を奢らせる手段になり、休日のたびに一緒に出かけたりするようにもなり、それが何年も続くうちに、いまのようになった。
「あのさぁ、昴」
神里はレンゲを握ったまま、気の進まない口調でいった。
「何」
「年末年始に昴も実家に来ないかって、母親にいわれてんだけど」
「年末年始?」
昴はオウム返しに繰り返す。まず思ったのは、まだ十月なのに気が早いな、ということだった。続いて思ったのは、神里はなぜそんなに憂鬱そうなのか、ということだった。
「北海道だよな」
「そう」
「真冬の北海道は一度行ってみたかったから、べつにいいけど、なんでわざわざ」
「その、父親がお笑い好きだろ? だから昴がいるといいって」
「へえ」
「それにほら、うちの母親、俺と昴のことをさ、ずっと前からその……つきあってると思ってるから」
昴は自分の眉がぴくっと動いたのを意識した。
つきあってる。それはこの一年か二年、昴があえて考えないようにしていた言葉だった。
実をいえば神里も同じではないかと昴はうすうす思っていたのだが、その神里の口からこれが出てくると、いったいどうしたらいいものか。
昴は自分が器用なタイプではないことを承知している。会社では自分なりの「対人マニュアル」で社交的なやりとりをこなしているものの、予想外の質問をスマートにはぐらかしたり、ごまかしたりするのは基本的にできない。正直者だからではなく、たんに不得意なのである。
昴は皿の上にレンゲを置いた。
「神里。……僕とおまえって、客観的にはやっぱ、そうなのかな」
神里の手がまた止まって、すぐ動き出した。チャーハンを頬張りながらあっさりいう。
「客観的にはそうじゃないか」
「どこが」
「俺たちセックスしてるし」
やっぱりそこか、と昴は思ったが、神里はレンゲを握ったままさらに指を折る。
「同居してるし、いろいろほら、生活のこと分担してるし、ふたりで映画見に行ったりするし」
たしかにその通りである。しかし昴にはどうも「つきあってる」関係──世間でいう〈カップル〉や〈恋人〉といった関係の必要十分条件が、こういった事柄だけで終わるとは思えなかった。レンゲをとってそういおうとしたとき、神里がいった。
「あと、俺は昴のことかなり好きだしな」
昴は思わず固まった。
もっとも神里がそう「思っていたこと」が予想外だったわけではない。神里がわざわざ口に出していったのが予想外だったのである。
「……そうか」
「そうだよ」
「……僕もおまえのことはかなり好きだと思う」
今度、驚いた表情になったのは神里の方だった。しかしこれも昴には予想外で、だからつい、びっくりまなこでこっちをみた神里に「なんで鳩みたいな目つきしてるんだ」といってしまった。
「じゃないとやらないだろ。僕もおまえも男だし」
「……ああ、うん、まあ、そうだよな」
「ひょっとしておまえが最近変だったの、このせい?」
「べつに変じゃないだろ」
「そんなことはない。変だった。深刻な悩みでもありそうだった」
「……深刻っていうか……だからさ、年末年始に実家に帰ったら、たぶんうちの母親は昴をそういう感じで扱うと思う」
「そういう感じって?」
「その……俺の恋人として」
またも昴は固まった。
「つきあってるって、そういうことか?」
「俺の母親的にはそうなるんじゃないか」
「おまえが僕の恋人?」
「なんだよ、だめなのかよ」
神里は口をとがらせて不満そうな表情になったが、昴にとっては「だめ」とかそういう話ではなく、ただ〈恋人〉という言葉になじめなかっただけである。自分が誰かの〈恋人〉であるという事態を想像したことがなかったからだ。
昴にとってこの言葉は自分には縁のないロマンチックな何かに結びついたものであり、向かいあってチャーハンを食べている人間に結びつくような言葉ではなかった。
──これまでは。
「いや。わかった」
「昴が何をわかったといってるのか、俺にはいまいちよくわからんのだが」
「客観的に考えると僕とおまえはつきあっていて、おたがいに好きだと確認したから、恋人という関係定義も正しいようだとわかった」
神里の目がぐるりと動いた。
「悪い、説明してもらって。それでどうなんだ? 年末年始、実家」
「いいよ。僕んとこは帰らなくてもいいし。だけどおまえのお母さん、ほんとに良いのか?」
「何が?」
「僕もおまえも男だけど」
「気にしてたら俺にこんな話してくるかよ。それにもう、男同士でも女同士でも結婚できるようになっただろう」
「え、そうだった?」
「ニュース見てないのかよ? 夏から同性でも結婚できるようになっただろう」
昴はまばたきし、そういえばそんな話があったと思い出した。
「ずっと先のことだと思ってた」
「だから俺たちも結婚しようと思えばできるわけだよ」
「……考えたこともなかった」
話しているうちにチャーハンの最後の数口がすっかり冷めてしまっている。昴はレンゲで残りをかきあつめ、もそもそと頬張った。神里がぼそりといった。
「俺だって考えたこともなかったけどさ」
昴は空の皿を眺めた。ふと疑問が頭をかすめた。自分には完全に無関係だと思っていたから、これまで考えたこともなかった疑問である。
「結婚したらどうなるんだろう?」
「何が?」
神里がきょとんとした目で聞き返した。
「だからそこだよ。結婚したら何がどう変わるのかって話。おまえわかる?」
「えっと……」
「どうして人間は結婚するんだ?」
昴は真顔でたたみかけた。冗談でもなんでもなく、本当に疑問に思ったのである。
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