ニューバージョン 5.

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ニューバージョン 5.

 ひさしぶりに足を踏み入れた居酒屋は、大学時代の記憶とほとんど変わっていなかった。神里は通勤用のリュックを肩から下ろし、首をのばして店の奥をのぞく。大胆に壁に書かれた筆文字や当時から黄ばんでいた貼り紙、吹き抜けの階段から威勢よくかかる店員の声も、記憶にある通りだ。 「いらっしゃい! ご予約ですか?」 「はい、相原で……」 「どうぞどうぞ! お二階です」  サークルや研究室の飲み会で使ったことのある座敷は、階段を上った先の中二階である。すだれをあげて上がりこむと、旧ダイニハウスの連中はすでに勢ぞろいして、大きな円卓を囲んでいた。昴も相原と山川に挟まれて座っている。遅れたのが自分ひとりだとわかると、すこし負けた気分になる。 「お、神里くんが来た。お疲れ~」 「お疲れさま」 「ちょうどよかった。何飲む? ビールでいい?」  幹事役を買ってでた相原がタブレットを指さした。これは以前はなかったものだ。 「へえ、いまはこれで注文するんだ」  思わずそうつぶやくと、赤根先輩が顔をあげる。 「ついにここにもデジタル化の波が到来したよ」 「助かるよ。前は店員と同じくらい威勢よく叫ばないと注文できなかったから。オケや運動部の奴らはいいけどさぁ」  山川が横にずれて隙間をあけたので、神里は昴の横に腰をおろした。 「コースで予約?」 「いや、いま注文してるとこ。神里もビール?」 「ああ」 「食えないものないよな? とりあえず枝豆と冷やしトマト、唐揚げと串の盛り合わせ、ポテトサラダと……」 「ビール以外の人は?」 「俺はレモンハイ」  ザ・居酒屋といったよくあるラインナップの注文がおわると、飲み物と突き出しの小鉢が運ばれてきた。円卓にいるのは相原、山川、坂田、それに昴という「旧ダイニハウス」初代住民に、坂田と結婚した赤根先輩、遊牧民のように数カ月物置で寝泊まりしてはどこかへ消え、また戻るといった調子でダイニハウスに出入りしていた鈴木、そして神里の六人である。 「では乾杯……まずは今日の主役に」 「山川君おめでとう」 「よかったね~」  祝いの言葉が続くなか、相原だけは「うう、俺に黙って婚活していたとは!」で締めた。  そう、今日の飲み会は、山川が結婚するという一報を受けて開催されたものである。山川は頭をかきながら相原に「そんないちいち話すことじゃないだろ」と答えている。 「そうなんだ。相談所みたいなところに登録したの?」  赤根先輩がたずねた。 「あ、マッチングアプリです」 「いつから?」 「実をいうと登録したのは三十になったばかりの時なんで、けっこう前なんですよ。最初はそこまで真剣じゃなかったんですけど、ある時これはまずいと思って、で二人真面目につきあって……って感じです」 「それはよかったね。出会いって案外ないからね~」  赤根先輩はニコニコとビールを飲み、坂田も横でうなずいているが、相原は「え?」と目を丸くしている。 「それって、三年前から婚活してたってこと?」 「そうなるな」 「そんなに長い間、おまえは俺に黙って……」 「はいはいはい、好きなだけじゃれてろよ」  鈴木が相原の方へ手を伸ばし、タブレットをつかんだ。 「追加頼む人は?」 「え、鈴木もう半分?」  鈴木がタブレットにビールの追加を入力している最中に、唐揚げその他の食べ物が到着した。 「ぶっちゃけ、登録のきっかけは赤根先輩と坂田なんですよ」  ポテトサラダを取り分けながら、山川がいった。 「え? そうなの?」 「あのときも〈ダイニハウス〉で飲み会やったでしょう。そのあと思ったんですよ。大学で先輩に会えた坂田はラッキーだったけど、俺はちがうなって。昴と神里みたいにできあがってたらともかく、このままじゃ一生一人で暮らすことになるかもって」 「三十でそんなこと考えるか?」  鈴木が口をはさんだ。昔から昴とはちがう意味で場の空気を読まない男である。 「俺は考えたの」 「考えるのは大事だよ」  すかさず赤根先輩がフォローした。  神里が気になったのはむしろ「昴と神里みたいにできあがって」という言葉の方だったが、自分以外は全員聞き流しているようである。横を見ると昴は串から肉を外すことに集中している。  気にしているのは自分だけか。そう神里が思ったとき、昴がふいにいった。 「僕は最近、結婚について調べてるよ」  神里以外の全員が、一様に驚きの表情を浮かべた。 「え? 昴が? なんで?」  相原が愕然とした声をあげたが、昴は表情も変えなかった。串から外した肉を皿のふちにそってきれいに並べる作業を開始しつつ、淡々と答えた。 「なんでって、これまで考えたことがなかったからな」 「結婚のことを?」 「人はなぜ結婚するのかってことを。他に、結婚したら何が変わるのか、どんなメリットがあるのか、とか。これがけっこう面白くて、ネットでデータを漁ったり、結婚相談所のブログとか掲示板とか、あと税金や年金の話とか」 「なんていうか……昴だなぁ……」  坂田が呆れたような、感心したような声を出す。だが相原は食ってかかるような口調で「おいおい、勘弁しろよ」といいだした。 「まさか昴も結婚の予定があるのか? 誰とつきあってんだよ、神里以外に?」  神里は苦笑いをした。昴と相原は大学のころからボケとツッコミといった感じの組み合わせで、いまの発言も他意はない──のだろう、おそらく。すくなくとも昴はまったく動じていない。 「とりあえず、正式に結婚してなくても事実婚が証明できれば、税金や社会保険は関係ないのがわかった。子供がいても同じ」 「でもそれは──」  赤根先輩が何かいいかけたが、昴の顔を見て口をつぐんだ。 「婚活をはじめる理由はさっき山川がいったような話、けっこうみたよ。ただ実際に結婚した人のメリットとデメリットという話になると、個人差が多すぎるとしかいえないと思った。それでも結婚相談所やマッチングアプリはけっこう繁盛してる」 「ふむ」 「それで僕の暫定的な結論は──」  昴はビールのジョッキをつかんで一口飲んだ。 「なぜ結婚するのか。それはみんなが結婚するからだ」  は? という空気が漂った。昴は意に介さず続けた。 「なぜ結婚しないのか。それはみんながしてないから」 「なんだよ、ひっぱっといてそれか?」  相原があきれ顔になるが、昴は淡々とその先を喋った。 「要は同年代の知り合いの環境に左右されるってことだ。山川は坂田と赤根先輩をみて、結婚したいと思ったわけだろ? それで相談所とかマッチングアプリをみたら他にも結婚したい人がいて、結婚した人の体験談とか読む。ますます結婚しようと思う。逆に、周りが結婚しなくてもかまわないって環境なら、べつにいいかって思う」 「まあ、いまは親とかじいさんのころみたいに、結婚してない人間は一人前じゃないって感じでもないから」  納得した顔でそういったのは鈴木で、彼の関心はこの話よりタブレットにあるらしい。 「あ、俺もビール追加いい?」  神里もタブレットをのぞきこんでいった。 「うん。他は?」 「何があるんだっけ。それ貸して」  円卓を追加注文のタブレットが回っていく。その合間に赤根先輩が「そういえば内縁関係の話だけどさ」といった。 「うちのおばさんの話だけど、籍を入れていてよかったというか、楽だと思ったときは三回あって、それは相手が死んだとき、死にかけたとき、死んだあとだって」 「へ、」と相原が妙な声をあげる。 「どういう意味ですか?」  昴は真顔で聞き返した。 「病院とか役所とか、あと相続とか、事実婚の証明をいちいちするの、けっこう面倒なんだって。籍を入れていれば妻ですって戸籍出せば済むけど、内縁関係だと、住民票に但し書きを入れておくとか、扶養の証明書を用意するとか、大変なときに限ってそんな手間がかかるからって」 「へえ……いろいろあるんですね」 「あと結婚のデメリット、名前だよな」と山川がいった。 「俺がむこうの苗字に変わることにしたんだけど、クレカの手続きとか調べてるところ」 「あら、そうなの?」 「はい。もしかしたら将来、相手の実家の仕事に関わることになるかもしれなくて、その方がいいねって話になって。会社では旧姓のままいくつもりですが」 「すごい、着々と進めてるな」  鈴木にいわれて山川は「すごいだろう」と胸を張る。追加注文の飲み物と料理が到着し、円卓はすこし静かになる。 「なんかさぁ……」  相原が左右を見回して、しみじみした口調でいった。 「みんな遠い将来のことを考えているんだなって思ってしまったよ……結婚ってなんなんだろう」 「子供がいない場合は、生計をともにするにあたっての契約って意味あいは大きいかな」  そう答えたのは赤根先輩だ。 「暮らすときのいろんな不便とか便利を共有することになるから」 「でも、赤根先輩と坂田は何年も付き合ってたじゃないですか」  相原は山川の方へ身を乗り出す。 「山川は結婚するって決めたときってどうだった? 何か月くらいで決めた?」 「……最初にマッチしてからだと……四カ月くらいかな」 「勇気あるな」  昴がおもむろに口を挟んだ。 「そんな短期間で決められるものなのか」 「そりゃ、決めようと思って婚活するわけだから、そうなるよ」  山川はふと目をあげた。 「っていうか、昴はなんでそんなこと調べてんの? 婚活するわけじゃないんだろ? だいたい、昴と神里みたいなのはちょっと反則だからな」 「え?」  突然自分の名前が出て、神里は思わず声をあげたが、はからずも昴とシンクロしていた。 「何が反則なんだ」 「そういうとこだよ」  相原がじろりと神里をみた。 「もうずっと、俺たち結婚十年ですみたいな顔しやがって」 「ていうかさぁ、その気になれば昴と神里は結婚できるだろ」  まのびした声で割りこんだのは鈴木だ。急ピッチで飲んでいたから、もう酔いが回ったのか、ほんのり赤い顔で続ける。 「ほら、この前から同性でも結婚できるようになったぜ」  ──ほんの一瞬、円卓の上を沈黙が支配したような気がした。すぐに相原の笑い声がかすかな緊張をかき消した。 「おい、鈴木。昴と神里が結婚したら、俺はどうなる。おまえと結婚するか?」 「何いってんだ。やだよ」 「昴のさっきの話を鑑みればそうなってもおかしくない」 「おかしいだろ。仮に俺が結婚するとしても、それはおまえじゃない」 「ええーそんなあ」 「はいはい二人とも、そこまで」  坂田が面倒くさそうな顔で一喝した。 「ここで同志の山川君に餞別です。人生の新しい局面に役立ててください」 「お、何かな」 「ジャジャジャジャーン!」  ダイヤのリングでも入っているようなベルベットの小箱が取り出された。山川は蓋を開け、困惑した表情になった。 「なにこれ」  鎮座しているのはUSBメモリである。 「偉大なるエクセルの男、昴が作った家事分担表の改良版だ」 「はぁ? 何それ…」 「いまどきの男は瑣末な家事を把握しておかないと嫁の評価が下がるからな。参考にしてくれ」 「ありがたいっちゃありがたいけど……」  山川は困惑と迷惑の混ざった表情で蓋を閉じ、周りを見回した。他の全員がニヤニヤしているのに気づいて顔をしかめる。 「何? まだなんかあんの?」  やっと出番である。神里は通勤リュックの陰に隠していた紙袋を取り出した。 「はい。餞別第二弾」 「おお、こっちが本物か……サンキュ。ありがとう」  都心のデパートの包み紙をみて山川は笑顔になる。相原が「あのな、これは副賞だよ。正賞はそっち」といっても、聞く耳持たずだ。 「なるほどな。こんな感じだから昴理論が成立するわけだ」  鈴木が首を振りながらひとり言をいっている。彼は旧〈ダイニハウス〉住民の中では一番将来の想像ができない部類の男であり、そういう意味では結婚の二文字にも一番遠い印象があったが、神里は一言いいたくなった。 「なんだ? おまえも結婚したくなった?」 「いいや。ただ──」  鈴木はやはり酔っているのだろう。真っ赤な顔でいった。 「おまえと昴がマジで結婚しても、俺はぜったい驚かないからな。おまえらデキてるだろ」
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