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 駅の正面を出て噴水の横を通り、スーパーとたこ焼き屋のあいだを抜けると線路ぞいの道に出る。線路は白い塀の向こうにあり、道沿いには丈の低い木が植えられている。いまはピンクの花がびっしり咲いている。ツツジ。いや、サツキ? いまは五月だからサツキかもしれない。  栖原(すはら)(すばる)は一年のこの時期だけ、この道を歩きながらこの木の名前のことを考える。それ以外の季節は単に緑色の木があるとしか思っていないし、どちらかというと線路を区切っている白い塀に眼がいく。塀は昴の身長より高いので、電車がいくら通っても音しか聞こえない。白い塀の表面は横長の長方形の筋が浮き出している。それをみるたび、表計算ソフトのセルを連想せずにはいられない。  両手にさげたスーパーのビニールが重かった。中身はビールのシックスパックと炭酸水だ。昴の横を自転車が通り抜ける。母親のうしろに座らせられた子供が塀をにらみつけ、電車がみえないと騒いでいた。たしかに子供には残念な道かもしれない。三本目の曲がり角を左に行き、やはりマス目を連想させるまっすぐな住宅街の道を歩いて、角に立つ家の門扉を膝で押し開ける。郵便受けには『ダイニハウス』と書いてある。何か届いているようだったが、両手が塞がっているので放置した。  玄関のドアは少しひらいていた。誰かの靴が挟まっているせいだ。三和土は来客の靴にほぼ占領され、昴の仕事用の革靴も他の住人のスニーカーも隅に押しやられている。靴をぬぐときいつも一瞬だけ、この家の匂いがふわっとする。なんの匂いだなんてはっきりいえないから、この家の匂いとしか昴にはわからない。いい匂いではないが、悪臭でもない。  廊下のつきあたりにあるリビングに入ると「おかえり~」という歓声に迎えられた。 「ほい、ビール追加」  とりあえず床にスーパーのビニールを置こうとしたら、神里(かみさと)がさっとやってきてひとつを奪っていった。ふたりでテーブルに中身をあける。周囲から手がわらわらと伸びた。 「ひとりだと重かったんじゃない。サンキュー」 「レシートそこにくれよ。今日の分、まとめてるから」 「酒の追加来たし、また乾杯しよう」 「俺はハイボール」 「待って、コーラとってくる」 「それ俺のコップ?」 「わからん。新しいの出すか?」 「なんでもいいや」 「よい? じゃあ二回目の乾杯……誰かなんかいって」 「相原でいいよ」 「じゃ、坂田君と赤根さん、ご結婚おめでとうございます!」 「いえーい!」 「おめでとう!」 「いまさら感もすごくあるけど」 「何年一緒に住んでた?」 「え――五年くらいかな」  昴の前で、以前この家の住人だった坂田はきまり悪そうな顔をしている。横に座っている赤根先輩は平然としたものだ。坂田は就職後しばらくしてここを出たのだが、すぐに先輩の部屋で半同棲生活を送るようになっていた。周囲が気がついたときにはふたりで新しく部屋を借りて住んでいて、何年かがあっという間に経過し、現在に至ったわけである。 「ついに――」山川がハイボールのコップを持ったままいった。酔っているおかげで声が大きくなっている。 「ダイニハウスからついに結婚した男が出た」 「三十にして」 「いや、三十なら遅くないだろう。いまどき」 「ダイニハウスって名前が悪い」 「チュウニハウスよりましだ」  赤根先輩が吹き出す。 「チュウニハウス?」 「この家の名前ですよ」相原が答えた。 「最初にここを四人で借りた時、名前つけようって話になったんだけど、どうせ全員中二病みたいなもんだから『厨二ハウス』でいいだろうって」 「そりゃあんまりだってのでダイニハウスにしたんです」 「みんな二年生だったし」  話し声を聞きながら昴はなんとなく眼をあげた。いま自分が座るのとちょうど対角線の位置、本棚の前のソファで神里がコーラを飲んでいる。あそこが神里の定位置なのだ。昴の定位置も今座っている壁の前。  同じ空間で生活していると、どこに誰がいるのかはだいたい決まってくるのかもしれない。とはいえこの家にもっと人が住んでいたとき、昴はリビングに定位置など決めていなかったし、神里もあそこに座っていなかった。いくら一戸建てといっても、男が何人もごろごろしているとむさくるしすぎていただけない。 「一番多いとき、何人だった?」  坂田が聞いている。二十歳のとき最初にこの家を借りたのは相原、山川、坂田、昴の四人なのに、もう忘れているようだ。大学にそこそこ近い一軒家の賃貸で、家賃と光熱費と雑費は割り勘。何か月かして神里が加わった。 「最大で六人半かな」山川が答え、坂田がぽかんとする。 「半って?」 「四年の夏に瀬名がいただろ。リビングに。その途中で鈴木がきて半年くらい納戸に住んでた。そいえばサ行の名前、多いな」 「鈴木か。いまどうしてる?」 「アメリカへ行ったって」 「え? 中国じゃなかった?」 「いや、それ韓国。留学が終わって今はアメリカ」 「遊んでんの? 働いてんの?」 「さあ」  買い増した飲み物がたちまち減っていく。壁のテレビはつけっぱなしだが、音を絞っているせいもあって、誰もろくにみていない。 「五人も六人もいると、もめなかった?」赤根先輩がたずねた。 「掃除とか交代でやってたの?」 「えっと――どうだっけ?」相原が眼をぱちぱちさせる。 「俺はよく覚えてない。空き缶から虫が出てきて参ったのは覚えてる」 「そういえば一時期、生ゴミ臭かったことがあった」とぼやいたのは山川だ。 「そうそう、ゴミって育つから困らない? リサイクルとか面倒だし」 「それ、この家にかぎらないだろ」 「そうなんだよ。今もそうなの」  ひとが同じ空間に何人もいると、不思議なほど自然に話す人間が決まってくる。この家の元住民だと、よくしゃべるのは相原と山川。べつにこのふたりが特別に仲がいいからというわけではない。役割分担のようなものかもしれない。 「生活するって面倒だよな……こっちは洗濯だけで精いっぱいなのに」  いつの間にか話は山川の愚痴になっている。最近仕事が忙しいらしい。 「それもさ、部屋に干しっぱなしで窓もあけられない」 「乾燥機ついた洗濯機買えば?」 「この家は二階のベランダに干せるもんな。広いし」 「広いだけでもないでしょう」  赤根先輩が口をはさんだ。 「今住んでるのは昴くんと神里くんだけなんだよね? よく片付いているじゃない」 「掃除は分担してる」  唐突に神里がいう。「昴のエクセルで」 「エクセル?」 「そこに貼ってある」  昴以外の四人が神里の指さす方向をみた。プリントアウトされた表をセロテープでホワイトボードに貼り付けてあるのだ。掃除、ゴミ捨て、キッチン、といった具合にカテゴリーをわけ、その中に細かい家事や雑用の一覧がある。マス目が点々と青と緑で塗られている。 「青が昴のやったところで、緑が俺」  赤根先輩が興味津々といった様子で立ち上がった。 「うわあ、細かい。『トイレットペーパーの在庫チェック』『郵便物の仕分け』まである。分担をあらかじめ決めてあるの?」  神里は座ったまま答えた。 「一か月で集計して、多い方が勝ちなんです。負けた方が焼き肉をおごることになってる」 「このフリーポイントって?」 「晩飯をふたり分作って分けたり、皿を洗ったりしたのもポイントになります」  神里の声は低くも大きくもない。なのに空間の中をきれいに通って聞きやすい。早口でぼそぼそ喋るせいでよく聞き返される昴とは正反対だ。赤根先輩は腕を組み、しげしげと表を眺めている。自作の表をそんなふうにみつめられると照れくさかった。 「なるほど。いい考えかも。うちでも使えないかな……昴くん、このデータもらえない?」 「クラウドに入れてるから坂田にメールしますよ。アレンジして使ってください」  昴は答えたが、坂田は先輩のように喜んでいないようだ。「家事分担表ねえ……俺の時代にはなかった……」とぶつぶついった。 「焼き肉がかかってるなら真剣になるだろう。これ、分担表っていうより戦績表じゃないか」  相原が呆れたような感心したような声をあげ、その隣で山川は座ったまま表を凝視している。塗られたセルの数を数えているらしい。 「今月は昴のリードか?」 「まあな」  昴はうなずいた。と、神里が間髪入れず「俺は後半に追い上げるんだ」といった。 「先月は俺の勝ち。まだ肉を払ってもらってない」 「おい、僅差だったぞ」  やたらと得意げなのが気に入らず、昴は思わずいいかえす。たしかに四月は仕事が忙しく、昴は一時大幅にリードされ、後半で巻き返そうとして失敗したのだ。わずか二点差の敗退だった。 「でも勝ちは勝ちだ。肉、楽しみだな」  神里はソファの上で足を組んで不敵に笑った。
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