0人が本棚に入れています
本棚に追加
学校から家への道中、大きな用水路に沿った道がある。厳密に言えば、帰路のほとんどがこの道だ。防止柵はどこにも見当たらない。危険なスクールゾーンだ。
この辺りの住人はもれなく知っているが、この地域の水質は日本でも屈指の綺麗さを誇り、晴れた日には水草や鮮やかでない鯉などが立体的に泳いでいる。とにかく澄んでいて、どういう経緯でそこに行き着いたかも分からぬ入れ歯が川底に装着されているのさえも見える。
今日はそこに波動がポツリポツリと響いて、幻想的な音楽を奏でているが、趣を乱すように入れ歯ピンクが垣間見える。
「ねぇ、あれって入れ歯かな?」
佳哉は繋いでいた手をいったん離して指を差して鈴花に示した。
「そうだろうねきっと」
「小学生の頃はよくあれを持って帰って家族に怒られたよね」
「そうだね。私は部屋に飾りたかったんだけど」
「今思えば狂気的だと思えてくるよ。どこの婆の入れ歯かも知れぬ物を・・・・・・」
「私は今でも集めたいよ。前より多くね。でも近所の人にはしたない子だと思われるから、浅い時でもここに飛び込んで取ろうとは思わない」
「それじゃないかな。鈴花の忘れてるポイントの一つは」
「そうかもしれない。でもどうしようもないじゃない」
しばらくの沈黙が訪れた。緩やかに歩きながらなされていた会話が完全にストップするのに伴い、二人は用水路のを覗き込む形で並んで立っていた。思い悩んでいたような鈴花は雨の頼りを急に感じたように、唐突にニコッと笑顔を作り佳哉の方を向いた。
「ねぇ、クラゲって漢字でどう書くか知ってる?」
「海月って書くんでしょ」
「よく忘れずにいたね。今から海月を見せてあげる」
鈴花は自身を守ってくれていた真っ白な傘を逆さまにして、ストンとそのまま用水路に落とした。唖然呆然している佳哉を置いてけぼりにして、ますます満面の笑みを浮かべる。
「ほら、海月だよ。流れがないと泳げない海月。何故か淡水に住む海月。宙を舞って、また泳いでるよ」
佳哉はその言葉により現実に戻され、可憐さにすぐさま涙した。雨で隠せる程度の涙。やはり鈴花は何も忘れていない。純粋なままであった。傘で守られてきた、真っ白なキャンバス。
佳哉は悔しく、悲しく、とても嬉しくなった。もはや少し捻くれてしまったかもしれない。しかしまだ、本音を伝える心はあった。
「鈴花、僕には花に見えるんだ。儚く下を向いて咲く鈴の花に。内気だからじゃない。繊細な中身全てを、世界から守る傘になっているんだ。自由に泳いで良い。僕ら自分で自身を守って、許してしまってもいいんだ。鈴花に悪意がこぼれ落ちようものなら、僕がこの口で啜り取って見せるよ」
「佳哉、あなたはやっぱり何も忘れてなくて、私もちゃんと覚えている。私たちは決して、大人になったりしないの。大人になってはいけないの」
鈴花は恍惚とした表情をして水面に飛び込んだ。佳哉は黒い傘を持ったまま鈴花の後を追い飛び込んだ。かなり水嵩はあった。水面をかなりの面積で押し開けたせいで、野太い音が走った。
小学生の頃だったら流されていただろう、思っていたより深く足は沈み込み、水流は速かった。それでも流れに逆らって、ゆっくり逆走することでなんとかその場付近に留まれた。泳ぎの得意な鈴花は恐いもの知らずの様子で、ヒョイと身体ごと浮かんだりしている。泳ぎの極端に苦手な佳哉は未だ、必死に流れに逆らい留まっているだけだ。容易に飛び込んだは良いものの、思いの外危機的状況で、大量のアドレナリンが二人の身体に溢れた。
「佳哉、大丈夫なのー?」
少し離れた地点から大きな声で叫び上げる。
「なんとか大丈夫だよ。傘が流されちゃったけど。鈴花は大丈夫かー?」
「ほんっと最高なんだから」
そう言って笑いながら、立ち止まっている佳哉の方へ流れに逆らって迎えに行く。たどり着くと、佳哉の手を引いて無理矢理流れに沿って流れ始めた。ほとんど足が着いていて、たまに足が浮いた時に焦る佳哉を見て、鈴花はケタケタ笑ったり、ちゃんと手を引いたり。深いところは佳哉の腰の少し上くらいまで水嵩があった。
傘を失った二人は結果的に、より速く世界を駆け抜け、お互いを世界から守りあった。上の道路を車が通る度に怯え、過ぎ去る度に抱きしめ合った。冷えた身体で、互いの温もりを感じ合った。
改めて二人立ち止まって、しっかりと見つめ合う。純粋な黒髪を艶めかしく頬に伝わらせている鈴花は、ねっとりとしたダンスを踊る海月のように妖艶で、濡れて浮き彫りになった黒い大人らしいブラを見せつけている。佳哉は顔を赤らめてしまった。意のままか反してか、力強く勃起してしまった。水流よ、どうか本能を沈めておくれ。
鈴花は、いつの間にか男らしくなった佳哉の体躯を視線で舐め回した。色白で長身の彼は、森羅万象に溶け込む崇拝の対象の一つのように神々しく、それでも小学生の頃と変わらぬ優しい笑顔に、今より溺れそうになった。
二人はまた抱きしめ合った。まさぐり合うように激しく。そして頷き合うと、間違いのないキスをした。互いの温もりを初めて、身体の内部でも感じることができた。息継ぎを忘れていたので、一度離して、もう一度勢いよくキスを試みたが、勢い余りすぎて歯が当たってしまい、「痛いっ!」と二人して後ずさった。笑い合って、諦めず分厚いキスをした。
「大丈夫かな?私たち、大人にならない?」
「きっと大丈夫さ。このまま、一緒にこの時空に留まろう」
「私、佳哉のことが好き」
「僕も、ずっと鈴花のことが好きなんだ」
最初のコメントを投稿しよう!