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改札を抜けると、人々はそれぞれ苛立ちの密度を自ら高めて立ち止まったり、走る準備をしたり、どこかに電話を掛けたりしている。合成皮革のバッグで頭を覆う者や、コートをムササビのようにする者はそれらが無駄なことに気付く由もなく、抗えない力を仕方なく見過ごしている。
全く、せわしない光景だ。
幾度も同じ経験をしている癖に、と思う。しかし改札を出て、長い階段を下りた後の雨晒しの世界の手前にいる一人の男は、今日の夕立の急襲を完全に把握し切っていた。海外のアクション映画で希に見るような弓矢使いの必需品、矢を入れておくような大きな円筒を背負い、その中に十数本あるだろう透明なビニール傘を名手のようにスムーズに取り出して配る様子はあたかも当たり前のようで、簡単なティッシュ配りとなんら変わらない。階段とエスカレーターを下りてすぐの所で行われているその儀式はそれでも、至って異様な光景である。
「傘は要りませんか~」
男は和やかな笑顔で言う。無言で奪い去っていくサラリーマンのおじさんもいれば、もはやびしょ濡れの女子高生は「ありがとうございます」と二人組で傘を持っていく。利用者は十人十色。皆して透明の傘をその男から受け取っている。
「お兄ちゃん、ありがとな。これで嫁に怒られずに済むよ」
「あら、前も助けてもらったんだけど、また甘えちゃっていいかしら?」
男は快晴の笑顔で対応する。色の白い華奢な男だ。身長は百八十センチ以上あるだろうか。細くて長い。パリッとしたスーツを着ていて、どこかのマフィアのようにも新入社員のようにも見える。その二つのイメージが同居するのはきっと、男が誰しもに気味の悪さと礼儀の正しさを両方植え付けるからだろう。決して悪い人間ではなさそうだが、そもそもどういった経緯で真っ当な人間が駅前で傘を無料で配るのか、動機の不透明さが気味の悪さを呼んでいるのかもしれない。
傘を配り終えると、男は満足げに空の円筒を見つめる。望ましくはないが、奥に五百円玉を見つけてしまい、「返さなきゃ!」と焦る羽目になった。男の仕事は大道芸ではない。それ故、のうのうとそれを使うこともできないのだか、仕方なくポケットに入れた。
真っ白な傘を差し、帰路に着く。
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