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 目が覚めても、吉住琉汰(よしずみりゅうた)は、しばらく瞳を閉じたまま、しなびたせんべい布団の中でじっとしていた。ため息をつきながら額に手をやる。  夢の中の濡れ鼠の男は、間違いなく(たもつ)だった。  あの男のあんなにも憔悴しきった姿は、後にも先にも一度見たきりである。  なぜ今頃こんな夢を見るのかわからない。  正直、あの日のことはあまりよく覚えていないのに。  自分自身のことなのに薄い膜の向こう側から見ているようだったから、涙さえでなかった。だから無防備に泣いている保がうらやましくて、そして少しだけ憎たらしかったのかもしれない。 (ああ、もうやめだやめだ。朝から、つまんねーこと考えちまった)  いつまでもうだうだしていては高校に遅れてしまう。布団を蹴飛ばして立ち上がると、たてつけの悪い格子窓をえいやっと気合をいれて開け放った。白い息がドライアイスみたいに溢れ出す。 「うえ、雪かよ……。めんどくさっ」   築40年ほどの昔ながらの日本家屋の2階の端が琉汰の居室だ。隣家とはかなり離れていて、庭もやたらと広い。その庭も昨夜の雪のせいで、何もかも白く染められていた。庭の左端には曲がりくねった松の大木があるが、雪の重みで今にも折れてしまいそうだった。だが庭木をいつまでも哀れむ余裕はなかった。  近くの山から吹き下ろした風が我先にと部屋に飛び込んでくる。ちいさな氷の破片さえ混ざった風から逃れるために、気合を入れて窓を閉めねばならなかった。腹立ち紛れに、わざと音をたてて障子も閉める。 「……琉汰?」  かすかに笑みを含んだ声が背後からした。部屋は経年劣化で薄オレンジに変色した襖に仕切られている。その襖の向こうには、盛り上がった筋肉の堂々たる体躯の男、醒ヶ井保(さめがいたもつ)が立っていた。 「何やってるんだ。ご飯冷めちゃうぞ」  戦闘的な外見なのに、瞳は飼い慣らされた熊みたいに穏やかだった。分厚い胸板の保は、両腕を組んだまま、分厚い笑みを浮かべている。  この真冬でも、黒の半袖Tシャツに黒のジーンズというのは一見すると異様だがもう慣れた。  なんせこのボディビルダーかラ◯ザップのトレーナーのような男と、この家で暮らしはじめて半年以上経ってしまった。 「……いちいち呼びにこないくていいよ、別に」  すいっと目をそらして、日焼けした畳を睨んだまま言った。恐らく外の気温と同じくらいヒヤッとした声だったと思う。 「ああ、悪かった。早く降りてこいよ」  それでも保の声は笑っていた。軋む階段を降りていくやたらと逞しい背中を、わずかな罪悪感とともにこっそり見つめる。  全く朝から憂鬱な気分にさせてくれる。      
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