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黒のロングダウンの前をかき合わせるようにして、琉汰は田舎道を歩いていた。目の前には圧縮パックに詰め込まれたような濃厚な闇が広がっている。
雪のお陰で道は白く光っているから足元の見通しはまだマシだが、凍っている所もあるので滑りそうになるのをぐっとこらえた。
(滝のヤツ、好き勝手言いやがって。何が襲われる、だ)
保は、最愛の女と結婚しておいて、次は弟に手を出すようないい加減な男ではないと思う。断じて違う。
(だって、あの時も、あの人は真剣だった)
葬式の日、集まった親戚たちは困り果てていた。祖父母は高齢すぎて琉汰を引き取ることはできなかったし、誰もが琉汰をもてあましていた。そんな中、あの男だけが口を開いた。琉汰を背中でかばうようにして前に出たのだ。
『琉汰くんのことは、俺が責任をもって面倒をみます。……瑠璃のかわりに』
心臓がドクッとなる。あの真剣な横顔を思い出すと胸が痛くなる。
(……もう少しだけ、優しくしてもいいかもな)
「ぶわっくしょん!」
大きなくしゃみが出た。寒さで歯の根が合わなくなってくる。極厚ダウンも今日の寒さでは心もとない。それになんだか熱っぽくなってきた気がする。ラーメンで汗をかいたのが悪かったのか。背筋までぞくぞくしてきた。
ようやく家が見えてきたとき、正直ホッとした。雪に覆われた屋根に、広い庭、玄関の灯も琉汰を迎え入れるように暖かくともっている。
自分を待っていてくれる人がいる、一人ではないということが今日はやけに心に染みた。
だが庭に止まっている軽自動車の影で、抱き合っている男女を見た時、琉汰の喉が剃刀で切られたみたいに鋭く痛んだ。
玄関の灯りで、それが誰だがはっきり見えた。保と飛鳥だ。抱き合ったまま、飛鳥の手が保の頬に触れ、眼鏡を外そうとしている。
「……琉汰?」
あまりの光景によろめいて、雪の中に尻もちをついてしまった。さすがに気づいた保が飛鳥の手を振りほどき、こっちに近づいてくる。その背後で飛鳥が悔しそうな顔をしているのがわかった。
「琉汰、大丈夫か?」
手首をつかまれる。そのまま引き起こそうとしてくれたのに、怒りのままにその手をふりはらっていた。
「触んな!」
「琉汰?」
「いいからほっとけよ! 悪かったな、お楽しみのところ、邪魔して!」
「何言ってるんだ、ほらいつまでもそこにいると風邪ひくぞ」
「うるさいな! 関係ないだろ?」
「ちょっと琉汰くん、その言い方ないんじゃないの?」
「うるせぇ、ブス! てめぇも人の姉貴の男に色目使ってんじゃねーよ! とっとと帰れ!」
「琉汰!」
頬に痛みがはしった。叩かれたと気づくのに三秒ほどかかった。保が肩で息をしている。いつもは穏やかな瞳が怖いくらいにつりあがっていた。
「……瑠璃の友だちにそんな口をきくものじゃない。謝りなさい!」
「は? どうして俺が? 悪いのはその女だろ?」
「琉汰! いい加減にしないか!」
今まで琉汰がどれだけそっけない態度をとってもにこにこ笑っていた保がここまで怒ったのは初めてだった。琉汰の唇が小刻みに震える。
口の中に血の味がしみてきた。腸が煮えくりかえそうなくらい悔しいのに、喉がつまって涙があふれそうになった。
「うるせぇ熊野郎! 俺にかまうなっ!」
大きく息を吸い込みやっとそれだけ言うと、玄関の引き戸を開けて家の中へ逃げた。階段を一段飛ばしで上がり、自分の部屋の布団を頭からかぶった。
(なんで俺が、泣くんだよ。姉貴の葬式でさえ泣かなかったのに、何で今、なんだよ……)
指先やつま先は凍るほど冷たいのに、肋骨の奥と額の内側がやけに熱い。
無責任に笑う瑠璃の写真を思い出し、無性に腹が立ってきた。
「なんで、死んだんだよ。ねーちゃん……」
瑠璃さえ生きていてくれれば、こんな気持ちになることはなかったかもしれないのに。どうして俺だけこんな……。
「ねーちゃんの馬鹿……っ」
一度あふれ出した涙は止まらなかった。布団を掴んだまま、声を殺して泣いていた。
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