シアワセの一粒

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 幸せとは、病だ。  何を幸せと思うかは、人それぞれかもしれない。質素に慎ましく暮らすこと、他者と共存すること、金を稼ぐこと、地位や名誉を欲しいがままにすること。自分の中にある欠落が満たされたと感じるとき、人は幸せを得る。  だが、幸せになることとは、幸せなことなのだろうか。幸せになりたいとは誰もが思うことだが、幸せになったとき、人は何を思えばよいのだろうか。  その意味でいえば、人は幸せになると死んでしまうのかもしれない。幸せとは、人を必ず殺す、不治の病なのだ。  群青の海に、シアワセに殺された人たちを想う。布屋の親子が、薬売りの一家が、灯台の鍵番が、漁師仲間の男たちが、姉さんと慕った女性が、この群青の底でシアワセに眠っている。その死に顔に、笑みを貼りつけたまま。  特筆すべき景観も名産もなく、海に出て漁をするか街に出て得た品を売るかしか生きる道のなかったこの村に、彼はある日突然現れた。人口が三百に満たない程度の、知人の知人まで辿れば全員の生い立ちが分かるような淀み凪いだこの村に、彼は波紋を与えた。幸せでないことが幸せだったこの村に、彼はシアワセを持ち込んだ。  彼――あの若い商人がこの寂れた漁村にやってきたのは、うららかな陽射しが降り注ぐある春の日のことだった。それが全ての始まりであり、終わりだった。 *** 「シアワセ、お売りします」  そんな売り文句を謳いながら、彼はこの村へやってきた。村のいつも潮臭くて小汚い男たちや、定期的に村へやってくる辛気臭い小太りの中年商人とは違う、清潔で爽やかな雰囲気をまとった若い商人の姿を一目見ようと、村の女はこぞって彼のもとへ駆け寄っていく。  彼は女たちに連れられて、村の集会所のようになっている酒場に入ってきた。僕からは遠目で顔はよく見えなかったが、漁村の人間とも街から来る商人とも違う、道化師のような奇妙な格好をしているのが分かった。  やがて半ば強制的に座らされた彼の姿は、周りを取り囲む女たちに遮られて見えなくなった。 「けっ、ちょっと見てくれがイイから何だってんだ、女どもめ」  物珍しいだけですよ、と僕がたしなめると、親父はケッとそっぽを向いて酒をあおった。親父と言っても、本当の父親ではなく、漁師の親分である。小さい頃に僕の両親が流行り病で死に、以後は父の仕事仲間であった彼が、僕の面倒を見てくれていた。  若い商人は、集まった女たちに何か話しているようだ。黄色い声を上げながら彼の周りにハエのように群がる女たちの姿には、僕も嫌悪を覚えざるを得なかった。  だが、親父がこんなに気を立てているのは、自分の実の娘――僕にとっては姉のような存在で、実際に姉さんと呼んでいる――がその中に混ざっているからだろう。  そういえば、姉さんに結婚の話が出たときも、親父は今と同じ顔をしていた。あれから何年も、親父と姉さんは口を利いていない。つくづく不器用な人だ。 「チッ、酒が不味くならぁ。おい、行くぞ。仕事だ」  親父が立ち上がる。自分も立ち上がって、それから少しだけ商人のほうを見やる。 『シアワセ、お売りします』  さっき聞いた商人の謳い文句が頭の中で反復される。自分の頰を一発叩いてから、僕は親父に続いて酒場を出た。  夕方、仕事を終えて酒場に戻ってくると、すでに商人の姿は見当たらなかった。代わりに、一人の女が――あれは四つ隣の布屋の娘だ――商人に群がっていた女たちに取り囲まれている。 「選ばれたんだとよ」  店主が酒を注ぎながら、尋ねてもいないことを教えてくる。 「何にですか?」 「さぁな」  得るでもなく得た曖昧な情報を、薄濁った酒とともに飲み下す。仕事の後の一杯は美味いものだが、今日はどうにも味がしなかった。  女たちがにわかに騒がしくなり、そのざわめきはすぐに歓声へと変わった。布屋の娘が何かしたようだったが、それが何だったのかはこちらからは分からなかった。  翌朝、若い商人は再び酒場に現れた。昨日より近くに座った彼を、親父は不愉快そうな表情を隠そうともせず睨みつけていた。  待ち構えていたように女たちが集まってきた。昨日彼に選ばれたという、布屋の娘の姿も見える。彼女は誰よりも商人に近付き、しきりにその袖を引っ張っていた。 「ねぇねぇ、今日は誰を選んでくださるの?」 「ぜひ私を!」 「いいえ、わたしを!」  女たちが口々に叫び、商人はそれをなだめる。 「昨日申し上げた通りです。お安くしておきますので、ぜひ奮ってお買い求め下さい」  女たちはますます甲高い声を上げて、商人に手を伸ばす。姉さんもその中にいる。  唐突に、親父が隣の椅子を蹴り飛ばした。酒場全体に響き渡る大音量に、女たちは一斉に静まり、こちらを振り向く。  商人は特に驚いた様子もなく、ゆっくりとこちらに目を向ける。初めて正視した彼の表情は、自然な笑顔でありながらもとってつけた仮面のような違和感を含んでいた。 「お前、後で話がある。日が沈んだら、ここへ来い。いいな?」  それだけ言うと、親父は答えも聞かずに酒場を出ていった。自分も慌てて後に続く。最後に振り向いた時も、仮面の笑顔はこちらを見つめていた。  夕方にはやはり商人がいなくなっていて、女たちが集まって酒を飲んでいた。  店主によると、自分たち漁師の男がいなくなった頃合いを見計らって、彼は女たちに「シアワセの一粒」と称して小さな薬のようなものを売っていたという。彼に選ばれた布屋の娘はどうやら最初にそれを無償で受け取ったようで、その効能を他の女たちに広めているらしい。 「空飛ぶ魚がどうとか、月が落ちてくるとか、猫がさえずるとか、そんなようなことを言ってたな」 「どういうことですか、それは」 「知らん。だが、とにかく楽しそうだった」  女たちが飲んでいる酒には、商人が売った薬が混ぜられているらしい。店主は自分の商品に異物を混ぜられることをあまり快くは思っていないようだったが、少ししかめっ面をする以外は何も追及することはなかった。  三日目も四日目も、商人は酒場へやってきた。村の女たちはもう全員が薬を飲み、陸で働く男たちも飲んだらしい。彼ら彼女らの愉快な雰囲気は狭い村にたちまち広がり、まるで祭りでも始まったかのようだった。  親父はというと、恐らく商人と話をつけたのだろう。あるいは、姉さんが今までにないほど楽しそうにしているのを見て、毒気が抜かれたのかもしれない。それまでのような攻撃的な目を向けることはなくなり、ただ監視するように彼や女たちを眺めていた。  商人がやってきてから五日目は安息日で、漁を休んで朝から酒場にたむろしている漁師の男たちも商人のそばに寄っていくようになった。  彼らに薬を飲んだ感想を聞くと、「よく分からないが、普通に酒を飲むよりシアワセ」「セカイが明るく見える」「星の音が聞こえる」とのことだった。  お前も飲もうぜと誘われたが、商人のあの仮面のような気味の悪い笑顔が頭に浮かび、考えておくよとだけ言っておいた。  六日目は久々に大漁だったこともあって、酒場は湧きに湧いた。もはや僕と親父以外の全員が薬を飲んでいた。 「俺も飲んでねぇけどな。俺まであっちに参加したらここは誰が回すってんだ」  そう言う店主の手元には、ひとつかみのシアワセが置かれていた。抜け目のない人だ。  それは七日目の朝に起こった。喧噪に起こされて外に出てみると、灯台に村人が集まっていた。灯台の下で、腕と脚があらぬ方へ向いた布屋の娘が、奇妙な笑みをその顔に張り付けて息絶えていた。  彼女の傍らに跪いている布屋の主人は、呼びかけにも答えず、ぴくりとも動かず、声を上げるでもなく、涙を流すでもなく、ただぼうっと、その仮面のような笑みを見つめていた。その顔にもまた、彼女と同じような仮面の笑顔が浮かんでいるのだった。  やがて集まっていた村人の一人が、ポケットから何かを取り出して口に入れた。周りの何人かがそれに共鳴するように同じ動作をし、別の何人かは急いでその場から立ち去った。  遅れて駆けつけてきた親父が、布屋の親子の姿を見るやいなや、酒場に向かって走っていった。その後ろ姿にただならぬものを感じ、親父を追って酒場に飛び込むと、ちょうど起きてきたのであろう店主に親父が食ってかかるところであった。 「あいつを見たか?! あいつはどこだ!!」  凄まじい剣幕で怒鳴る親父に圧倒されて、店主は必死に首を横に振るばかりであった。親父は店主を突き飛ばすと、薬がひとつかみ入った皿をカウンターに見つけ、それを壁に投げつけてから、疾風のごとく酒場を飛び出した。僕もそれに続いた。  親父とともに村中を何周も駆け回り、丸一日あの商人を探したが、彼はついに見つからなかった。 「七日で出ていくとあいつは言っていた。いるはずがない」  夕暮れを背負いながら、親父はぼそりと呟いた。自分がかけられる言葉は何一つなかった。ただ、今日は漁に出れなかったとだけ思った。  姉さんが亡くなったのは、その翌朝のことだった。  村の人々は、次々と謎の死を遂げていった。ある者は高所から飛び降り、ある者は刃物で自らをひたすら斬りつけ、ある者は首を紐で縛り、ある者は海面に浮かんでいた。彼らは一様に、あのいかにもシアワセそうな仮面の笑顔をその顔に貼りつけていた。  最後には、あの若い商人が渡していた小さな粒を飲んでいなかった、自分と親父と店主だけが残った。  一人娘を亡くした親父は絶望に明け暮れ、漁に出ようともせずに何日も酒を飲み続け、見兼ねた自分と店主がそれを止めると今度は何も口にしなくなり、ついには酒場の机に突っ伏したきり、二度と動くことはなかった。  店主が親父を弔うのを手伝ってくれた。亡骸を布で巻いて重りをつけ、船に乗せて沖まで出て、海中に沈める。村に昔から伝わる葬い方だ。  布屋の親子も、薬売りの一家も、灯台の鍵番も、漁師仲間の男たちも、もちろん姉さんも、同じように葬ってきた。毎日、毎日、毎日。他の誰も、やろうとしなかったから。  親父の顔には、後悔と悲哀だけが浮かんでいた。だが僕にはその表情が、これまで弔ってきた他の誰よりも、まだいくぶんか幸せに見えた。  海に祈りを捧げ、一言も交わすことなく港に戻る。もう自分が海に出ることはないだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、酒場への道を歩いた。  店主が最後の魚を捌いて振る舞ってくれたが、口に入れても味が感じられず、二口くらいで食べるのをやめた。  無言で床を見つめる。何日も前に親父がぶちまけたシアワセの粒が、散らばったままになっていた。店主がそれを一つ拾い上げ、しばらく眺めてから、口に含んで、酒で流し込む。 「……なるほどな」  彼はもう一粒拾って、僕に差し出す。僕はゆっくり首を横に振った。 「そうか。じゃあ、達者でな」  それだけ言うと、店主は奥に引っ込んだ。彼に会うことも二度とないだろう。 ***  灯台の上で、ひとり海を眺める。春の柔らかな陽光が、海面に反射して輝いている。見慣れ過ぎて見飽きたくらいの光景だが、これまではそれも美しく感じられていたのだと今になって分かる。今は、そんなことは思えない。  平凡で、ありきたりで、変化のない毎日に、辟易したときもあったかもしれない。こんな村はさっさと飛び出して、幸せになりたいと思った日もあったかもしれない。  だが、幸せを願って本当にシアワセを手にした村の人々は、死んだ。仮面の笑顔を浮かべて。  病だ、と思った。生みの親を死に至らしめた流行り病を思い出す。あのときも、たくさんの村人が死んだ。今度は、シアワセという名の流行り病が、この村を襲ったのだ。満たされない毎日を送る限り、決して罹ることのない病。しかし一度罹れば、絶対に治ることのない病。  ふと思う。死んでいったみんなが感じたシアワセとは何だったのか。彼らにあんな顔をさせるシアワセとは……。 「星の歌声が波間を飛び交い、カモメは橋の甘味を撫で上げる。蜘蛛の風が七つの道を捉え、武器商人は祈りの寒さに弾け飛ぶ。魚は空を舞い散り、まなざしが炎を刻み込む……」  背後から声がした。 「人は誰でも幸せを求めています。実はそれは、生きとし生ける者全てが必ず手にすることのできるものなのです。ただ不幸なことに、それはいつ手にできるか分からない。でも、この一粒を飲めば、すぐにシアワセになれますよ」  ――ですから、アナタもおひとついかがです?  振り向いて、その若い商人の顔を見つめる。あのときに見た仮面のような笑顔が眼前にあり、彼が差し出しているその手には、シアワセが一粒乗っていた。
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