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猫様:序
刻の鐘が鳴った。最初はごろごろと鈍い、鐘の内側を槌で撫で回す音。次いで一気に強く、ぼーん、ぼーん、ぼーん・・・と三回。酉の刻限だ。
まだ空は明るいが、あと半刻と待たずに日が暮れだすだろう。上野の広小路は、江戸を代表する大通りなだけにまだ人影も多いが、それも次第にまばらになる筈だ。
与吉は急いていた足をさらに早めた。
与吉は魚の棒手振りである。天秤棒の前後に、水の張った半台と呼ばれる木桶を引っ提げて、日本橋魚河岸で魚を仕入れて売り歩く。
――今日はその半台に木蓋がしっかりと閉められていた。
じゃぶん。と桶の中で重たい物が浮き沈みする音がする。その音を聞くと、与吉は天秤棒の重みが増した気になるのだ。
(――気のせいだ、気のせいだ。)と何度も心の中で自分に言い聞かせる。しかし、言い聞かせれば言い聞かせる程、棒の重みは肩に食い込むのだ。
それが、急がなければという焦りと、けれども焦りすぎて周りに怪しまれたらという恐怖とが合わさって、与吉の中をぐちゃぐちゃにかきまわした。
ああ、今すれ違った町娘。横を駆け抜けていった飛脚、店じまいの準備を始めている丁稚。もし、彼等の一人でも与吉の行動に不審を見出したらば・・・。
誰か一人が「おい、あの魚売り何か怪しくないかい?」などと口にでも出されたならば。
与吉は自覚せず唾を飲み込んだ。
とにかくこの通りを早く抜けてしまおうと、小走りに急ぐ。少しでも目立たないように、不審がられないように注意しつつ…。。
だが、こういう時に限って、知り合いなどに出くわしてしまったりするものだ。
「おぅ、与吉じゃねえかい」
声をかけてきたのは屑紙拾いの善次爺さんだ。しわくちゃの顔を綻ばせて、こっちに手を振り、よたよたした足取りで近づいてくる。屑紙拾いとは、道端に捨てられている紙切れを背負った籠の中に拾い入れて、それを屑紙屋に売って日銭を稼ぐ者達で、結構江戸の町には多い。
力が衰えてもできる仕事たぁありがてぇ。と、還暦を過ぎた善次もその仕事をはじめたのだそうだ。
「与吉がこの辺りまで来るのも珍しいなぁ。いっつも神田の辺りを縄張りにしているだろうに、どうしてぃ、今日はオケラにでもなったか?」
善次が、ひょいっと蓋の閉まった半台を覗き込んでくる。与吉はその視界から桶を避けるように身を捩った。
「いやなに、こいつは売り物にもならねえ雑魚よ。魚河岸の馴染みの漁師に押し付けられちまってなぁ。仕方がねえからこの先の新堀村まで行って、肥料代わりにでも買い取ってくれねえかと、思ってんだが」
「へあ。そんな所まで行くのかい。そういや、煙草屋の親父が昨日、押上村の方でお前さんを見たと言っていたっけ。昨日は東、今日は北と―――大変だねぇ」
与吉はぎくりと全身が固まるのを感じた。だが、善次は与吉のそんな様に気づかなかったらしく、顎を撫でながら関心しきりだ。
「俺なんか若い頃はどうやったら自分が楽できるかばかり考えて、結局今じゃこんなその日ばかりの暮らしよ。その点お前さんはえらいなぁ。
まして、今のご時世とあっちゃ、明日もどうなるか解ったもんじゃない。特にここ数年は生きた心地がしていないよ。
黒船が浦賀に来て以来、やれ将軍様の崩御だ、攘夷だ開国だ、異人が攻めてくる、山を切り崩せ、大砲を集めろ・・・と、皆おおわらわだ」
「ほれよ」と善次は背負った籠から一枚しわくちゃの紙を取り出して、与吉に差し出した。どうやら古い瓦版らしい。描かれているのは海の上を浮かぶ真っ黒な船だ。いや、船の怪物とでも言うべきだろうか。
船尾に大口を開け、ぎょろりと巨大な目玉でこちらを見据える鬼と、帆先に巨大な角を持つ鬼の顔。側面にずらりと並ぶ大砲の一つが火を噴いて、怪物の上に乗る異人達が小躍りしている様子が描かれている。
『長さ七十五間、船巾二十間、車六間半』と書かれていて、確か黒船騒動の時以来、こんな瓦版が面白半分にくばられていたなぁ・・・と与吉は思い出した。
「俺は老いぼれだからよぅ。本物の黒船を浦賀まで見に行けたわけじゃねえ。それでもこんなおっかねぇもんが目と鼻の先にいたんだと思うと、もう当時は震えあがっちまったもんだ。こんな化け物が来たとなりゃ、そりゃあ世間もひっくり返るってもんだぜ。」
「おっかねえ、 おっかねえ」と眉を寄せて繰り返す善次の姿に、流石の与吉も気が抜けてしまった。そうして苦笑する。
「落ち着きなぁ、爺さん。俺は本物を見に言った。
確かに黒船はでっかかったが、こんな化け物じゃなかったぜ?四隻来てたが、一番大きい奴でも、四十八間程じゃねえかなぁ。」
目を真ん丸にする善次に、与吉はくしゃくしゃの瓦版を返してやる。黒船が来たのは五年も前の六月の事だ。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰。たった四杯で夜も眠れず」という狂歌は子供でも知っている。上喜撰は蒸気船とかけたもの。四杯とは四隻の船の事である。
直後に、当時の将軍が崩御するやら、桜の名所であった御殿山を切り崩して砲台を作るやら、結局国は開国を決定するやら、ついでに大きな地震もあった。
世間の慌ただしさは数年たった今でも言葉にするにはとても足らず、むしろ悪化の一途。現在は舞台を京に移して攘夷派と佐幕派がにらみ合い、血しぶきの毎日らしい。とはいえ、それは刀を引っ提げる武士達の話で、町人の、それも与吉や善次のようにその日暮らしがせいぜいの者達には関係の無い話である。
「つか爺さんこんな昔の瓦版、なんでそんな大事に懐入れてんだよ」
「ほれ、江戸にも異人が増えただろう?
またおっかねえ事が増えるんじゃねえかと思ってよぉ。厄除けにあえて疱瘡神や貧乏神の絵を持ち歩く事があるだろぉ?」
成程、これも厄除けのつもりらしい。そうしたくなるぐらい、確かにここ数年は慌ただしかったのだ。
「さて、爺さん。世間話もいいが、あんまり遅くなると帰ってくる頃には木戸がしまっちまいかねねぇ。悪いが俺はそろそろ行かせてもらうぜ?」
「おぉ、そうだな。こりゃすまない」
「なぁに、また時間がある時にでもじっくり聞かせてもらわぁな」
「じゃあな」と与吉が踵を返すと、「楽しみにしているぞぉ」と背後から枯れた声が追いかけて来た。
ちょいと振り返れば、善次も籠を背負いなおしながら与吉と反対方向へと歩いていく。背負い籠の中に詰め込まれた屑紙が、がさごそと揺れていた。そこからぴょっこり顔を覗かせたのは三毛の猫だ。善次爺さんの飼い猫で、確か名前はミヤとかいったか。
みゃあみゃあ鳴くからミヤなんだ、といつか善次が教えてくれた。善次はこのミヤを溺愛しており、仕事中もああやって傍に置いている。
ミヤは善次の動きに合わせて揺れる屑紙を、前足でちょんちょん叩き、鼻にのっけてはぴすぴすと浮かせて遊んでいる。
そうして、ふと・・・たった今気付いたように与吉の方を見た。金の目がぎらりと光り、与吉をまっすぐと見据えて――その目がにんまりと笑ったように見えたのは―――きっと気のせいだ。
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