一章:幽霊なるは

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 『サダ、駄目よっ!』  シロ婆さんが即座にサダの首根っこを咥えて引きはがす。きゅ、と善次の瞳が細まったのが千草にも分かった。  「ご、ごめんなさいっ」  お利津がサダと善次の間に割り込んで、頭を下げた。  善次はちょっと間、サダを見据えていたが――すぐにまたからから笑いだす。  「いやいや悪かった、調子に乗りすぎたな。猫助、お前にもすまんかった」  詫びだ、とサダの皿に豚肉を追加してくれる。にんまりと笑いすぎて、善次の目が細く伸びている。――何か、こんな顔に似た何かを見た事があるなぁ、と千草は思った。思ったけれど、今一思い出せない。  「おいおい、んな顔すんなって。何だぁ、詫びがこれじゃあ足りねえか?」  「い、いえ・・・ケガをさせてしまったのはこっちですし」  「んなもん明日には治る」   ええと。とお利津は迷ったようだった。  「あの、では・・・相談があるのですが」  ぶなぁ、とサダが嫌そうに鳴いた。人間でいえば「正気か?」といったところか。やはり人語に理解があるように思う。  「この豚肉は、滋養強壮に良いというのは本当ですか?」  「おう」  「あの、これ食べて欲しい人がいるのですが」  善次はきょとりと瞬いて首を傾げた。先程一瞬張り詰めた空気は、もうどこにもない。  「ただ、本当にお代が・・・」  「ああ、いい、いい。  あのな、若い娘さんがそんな顔するもんじゃねえんだよ。ミヤにばれてみろ、引っ掛かれる」  『ひっかくの!?あの子っ』  「ひっかくなぁ。あとうるせえから少し黙ってろ」  シロ婆さんが口ごもる。千草はいつも不思議でならない。シロ婆さんは猫仲間には一目置かれる存在だ。人間にだって容赦はしない。  だのに、この善次に対してはだけは、いつも一歩引いてしまっている。  「さて、嬢ちゃん。――言ってみな。  千草達と一緒にいるってこたぁ、嬢ちゃんもそういう訳ありだろう。  偶にゃあミヤの手伝いをしてやるのもいいだろうさ。そのほうがあいつも早く帰ってくるだろうしよ」  「あの、ミヤさんというのは」  「俺の猫。一応年頃の雌だしな、あんまうろちょろして欲しくはねえんだが。  まあ、自由意志を認めるってのも相棒としちゃあ、必要なもんさ」  シロ婆さんが半眼で善次を睨んで、しかし言葉は飲み込んだようだっった。  ――じゃあ。とお利津は少し迷うように視線を彷徨わせてから口を開いた。  「これ、肉鍋・・・食べて欲しい人がいるんです」  「応、そうなのか?」  「でも、お代が」  「人の話聞いてたか?―――人の気まぐれには素直に甘えとけ」  「普通、そこは善意じゃないのかな?」  千草の突っ込みをさらりと流して、善次はお利津の頭を撫で撫で。――普通、幽霊には触れられない筈なのだが・・・。  やはり正体の知れない男である。  「それで、どこのどいつのこの俺自慢の肉鍋を食わせてやりたいってんだ?」  お利津がここからそう遠くない住所を口にすると、「ほいきた」と熱く重たい鍋をひょいっと持ち上げて、あっという間に通りを行く人々の群れの中に飛び込んで行ってしまった。  「良い人ですね」  「いやぁ・・・・どうなんだろ」  「違うんですか?」  「少なくともシロ婆さんは善次さんの事苦手みたいだよね」  『―――別に苦手じゃ無いわよ。  ただ、できるなら関わりたくない部類なだけで。――ミヤの気が知れないわ』  ――あれは猫の天敵なのよ。・・・とシロ婆さんはそっぽを向いた。  「猫の天敵ですか?――犬、とか」  『あら、馬鹿を言わないで頂戴。大きくて力が強いだけの犬に、私達猫がそう易々と負けるわけが無いでしょう』  「シロ婆さんは犬も苦手なんだよ」   『・・・・千早』  今度は千早の足が、がぶりと猫の牙の餌食になった。  さて、無人になったももんじ屋の店番――とはいえ人には猫以外見えないが――の時間は思ったより長くはなかった。  善次は出て行った時同様、早々と戻ってくると・・・頭から足下までぐっしょりと濡れた姿で眉尻を下げた。  「驚いた、驚いた。あの爺さん歳の割に元気だなぁ。」  驚き、何があったのかと問う千草に、善次は唸りながら教えてくれた。  「いや、『昔、あんたの世話になったって娘から差し入れだ』って、鍋ごとくれてやったんだが。最初は仏様のお恵みだってぐらい拝まれて。  けど、その世話になった娘の名前が『お利津』だって教えてやったら、その鍋の中身、丸ごと頭からぶちまけられてよ。  しかも爺さんが騒ぐわ、長屋の連中は集まってくるわで・・・  久々に這々の体で逃げ出す、なんて真似したぜ」  ――人間まだまだおっそろしいもんだなぁ。と、店から手ぬぐいを引っ張り出して、善次は濡れた体を拭く。  熱湯を浴びたせいか、体から湯気がもうもうと上がっていたが、当人はしれっとした顔である。しかも湯気から漂う匂いがなんとも美味そうで、ちょっと千草は反応に困った。  一方のお利津は顔を真っ青にして、何度も善次に頭を下げている。  ――ごめんなさい、ごめんなさい。  ちょっと謝りすぎだろう、繰り返し曲げた腰からぽっきりいくんじゃなかろうかと心配になる。  「いや、いいけどよ。なかなか面白い体験だったぜ。水も滴るいい男っぷりだろう?――いや、これ湯か。  しかしまぁ、お前さん・・・というかお前の親父さんか? なかなか悪党だったみたいだなぁ。  爺さんの怨みたっぷりの顔もなかなか見物だったが、長屋の連中も鋤に鍬に包丁まで持ち出してよぉ。  いやほんと、楽しかった楽しかった。人間まだまだ捨てたもんじゃなかったんだなぁ」  熱湯をかぶせられたというのに、善次はどこまでもからりと。  「金貸しの娘も大変だよなぁ」  からから、からから。  ・・・お利津の顔は完全に血の気が引いていた。
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