猫様:序

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 下谷広小路を北上し、上野の御山を左手にぐるりと迂回すると、ようやく田園が見えてくる。  江戸の町と聞けば、余所者などは雄大な江戸城や荘厳な武家屋敷、それに華やかな色街、商店通りといった想像を巡らせるのだろうが、端の方に行けば立派に田んぼも畑もある。新堀村は江戸の北東にある村だ。  田んぼばかりが並ぶ村で、ぽつぽつと藁葺の屋根が見える。西の空を見上げれば、真っ赤な太陽が揺らめきながら山の少し上に佇んでいた。              与吉は右を見て、左を見て、――そうして人影が周りに全く無い事を確認すると、迂回してきた御山に素早く飛び込んだ。あとは一気に駆け上がる。   地元では上野の御山と呼び親しまれるこの東叡山は、徳川将軍菩提寺たる寛永寺が建立されている。  表から見れば、山の中の長い長い階段と、頂上にある寛永寺の門が見上げられるが、裏から見れば、ただ鬱蒼とした木々が生い茂る小高い山である。  与吉はその中をただひたすら駆けた。じゃぼん、じゃぼん、と桶の中が煩い。中身をひっくり返さないようにだけは気をつけつつ、少しでも奥へ、奥へ―――。  もう大分駆け抜けて、ようやく与吉は足を止めた。振り返れば背後も鬱蒼とした木々に覆われて、すでに眼下の道は全く見えない。  暴れ狂う呼吸を何とか整えながら、天秤棒を半台ごと足元に下ろす。  頭上を覆う梢のせいで、今現在太陽がどの辺りまで沈んでいるのか解らない。まだ周りが見渡せる分、完全に沈み切っているわけでもなさそうだ。  (早く済ませて帰ろう。)  与吉は深呼吸をすると、まず後ろに掛けていた半台の蓋を開く。手斧や十能、割れた鉢なんてものまで取り出した。使えそうな物を家の中ひっくり返して見つけ出せたのがこれだったのだ。  本当は鍬や鋤があれば便利なのだろうが、家にそんな物が都合よくある筈も無いし、そんな大きな物を隠し持って運ぶのは不可能である。  与吉はつま先で足元の土をえぐりながら、比較的柔らかい場所を見繕うと、まずは手斧と十能を交互に使って地面を掘り始めた。  すでに何度か本来の用途以外の方法で使っているせいか、手斧は歯が欠けているし、十能はついに柄が折れた。割れ鉢に切り替えれば、すぐにもろく崩れてしまう。終いには商売道具の半台まで使って、土をかきだした。  ようやく半台が二つは入りそうな穴が出来上がった頃には、与吉の全身汗でぐっしょりと濡れていた。着物が張り付いて気持ちが悪い。鬢から垂れた雫が目に入って、じくじくと滲む痛みに「ちくしょう、何で俺がこんな目に」と自身の不幸を嘆く。  「くそ、くそぅっ!」  どうにも気持ちが収まらなくて、与吉はもう一つ残っている、まだ木蓋の閉まった半台を、怒りのままに蹴りつけた。  思ったよりも力がこもっていたらしい。半台はぽぉんと宙を舞ってから、ごろごろと斜面を転がり落ちた。  与吉は真っ青になって、奇声を上げながら半台を追いかけた。幸いにも半台はすぐに木の根にぶつかって止まったが、その拍子に木枠が飛んで跳ね返り、与吉の肩を打った。  また、かっとなりそうになって・・・しかし与吉はなんとか自制する。  (―――いい加減、この頭に血が上りやすい性格を治さねぇと)  与吉は額に浮かんだ汗をぬぐいながら、珍しく己を反省した。  (これが片付いたら、今までの自分をちゃんと改めて・・・・  そうだ、俺は全部やり直すんだ)  与吉はまだ煩い心臓を深呼吸をしながら宥める。そうして足元に落ちた木蓋を拾った。  ――――にゃあ。  背後の草むらで物音がした。与吉は飛び上がって、木蓋を危うく取り落としそうになった。恐る恐る物音がした方向を振り返れば、猫が一匹、すぐ傍の草むらから顔を覗かせている。  ――にゃあ。  猫はもう一声鳴くと、さっさと別の草むらの中へと走って行ってしまった。  「く・・・くそぅっ!!猫畜生ごときが人間様を驚かせるんじゃねえっ!」  木蓋を猫が消えていった草むらへと叩きつける。疲労よりも怒りから呼吸が定まらない。先程までの誓いもどこへやら、与吉はさらに草むらに駆け寄って落ちた木蓋を振り上げたが、猫の姿はすでに無い。  そういえば先程の猫は善次の飼い猫、ミヤに似ていた。特にあの見据えるような金の目が・・・。 「い・・・・いや。いかん、いかん・・。」  与吉は首を振った。あの善次がミヤを傍から離すとは思えない。それにミヤだったとして、何か問題があるというのか。たかが猫一匹だ。善次のあの足では山登りは不可能である――――そう、たかが猫一匹。  与吉は意味も無く木蓋を手で弄びながら、周りを見回す。  鳥や虫の鳴き声、物音の一つすら聞こえない。すでに一寸先も危うい闇だ。日は完全に沈んだらしい。  与吉は舌打ちした。江戸は町ごとに木戸を設置し、暮れ六つには閉めてしまう。木戸番に手間賃を払えば通してもらえるが、相手の記憶に残ってしまうだろう。それは望ましくない。  まだ急げば間に合うだろうが、最悪どこかで一晩明かさねばならない。そう思えば気が滅入った。転がった半台の傍まで戻れば、気分はさらに下降した。  半台は入っていた水を周りにまき散らし、土と泥で汚れている。さらには半台と根っこの間には隙間があって、何かが引っ掛かっているらしい。  中途半端に半台から飛び出ているのは黒くて丸い塊だ。黒糸のようなものが、うねるように広がって、木の根と半台にぺったりと絡まっている。  与吉が手を伸ばせば、その黒い塊に目玉が生えて――ぎろり。と与吉を睨んだ。  「ひいっ!?」  与吉は驚いてその場で尻もちをついた。心臓の音が早鐘を打つ。  それでも何とか気力を奮い立たせて黒い塊を覗き込めば、黒糸の・・否、黒髪の隙間から覗く白濁した目。腐敗し崩れた皮膚。蛆に食い散らかされた唇。  黒くて丸い塊の、そこから下は存在しない。――人間の生首だ。    「お常」  与吉は生首の、生前の名を呼ぶ。生首から反応は無い。  睨まれたように見えたのはただの錯覚であったようだ。与吉の妻は今朝半台の中に突っ込んだ時と同じ有様でそこに在った。  「死んでからも手間かけさせやがって」  与吉は妻の生首を木蓋と半台で挟むようにして中に戻す。途中木の根に絡まった黒髪が、頭皮ごとずるりと抜けて残ったが、正直もう面倒だった。急ぐ気持ちも相変わらずある。  与吉は半台を抱えて穴を掘った場所まで戻る。戻りながら、もう何度目か、むかむかとする気持ちがせり上がってきた。  死んだ妻の首をかききったのは与吉である。実際はかききったなどと上等なものではなく・・・  最初は商売道具の包丁で。それが使えなくなったら金物屋で買い求めた鑿で肉をほじくるように抉り出し、金槌を何度も打ち付けて骨を砕き・・・  首、腕、脚、胸、腹に切り分けたそれらを、毎日少しづつ江戸中にばらまいたのだ。  今回のように埋めたものもあれば、川に流したものもある。そうしてこの頭部が最後の部品だった。  お常が死んだのは、無論与吉がお常を手にかけたからで・・・その理由は与吉に言わせればお常こそが悪かったからに他ならない。それも含めて手間がかかり過ぎた。しかしこれで終わるのだと思えば、ふつふつと沸き上がる苛立ちも、なんとか制御できる。  そうして半台の中身を穴の中に放り入れると、中を見ないように急いで土を戻す。最期に塞がった穴を踏みつけて地面を鳴らすと――――与吉は深く長いため息を零した。  晴れやかだった。  清々しかった。  まだ無事帰宅できたわけでも、証拠の処分も終わってないのに、この場で小躍りできそうだった。こんなに気持ちが良いのは生まれてはじめてだ。胸を満たす達成感と、苛むものが無くなった解放感で、生まれ変わった気分すらしてくる。   与吉は多幸感でくふくふと笑った。すぐに含み笑いだけでは足りなくなって、声を上げて大笑い。鳥も虫も鳴かない山の中で、与吉の笑い声だけが響き渡った。  ―――あっはっはっ、わっはっはっ。  「ツイてねえ人生だったが、明日からちっとはマシにならぁな。  なぁ、そうだろ?―――そう思うよなぁ・・・。  なあ、なぁ・・・・・なあ、そうなんだろ、―――お常」  目の前に、お常の生首が浮いていた。つい先ほど、確かに埋めた筈の生首が。 濡れて乱れた黒髪、白濁した眼球、腐って崩れた皮膚、蛆に食い散らかされた唇。 「お・・・・お常ぇ」  返事の代わりに、お常の唇の無くなった顎がかくんと外れた。  生臭い息が顔にかかって、肺が埋め尽くされる。  真っ白い目玉が、憎々し気に与吉を見据えていた。お常の顎がまた動いた。しかし外れた顎が戻らないのか、ゆらゆらと上あごの下で揺れている。  多分、何かを言っている。だが何を言っているか解らない。それに一歩分はあった距離がだんだん近づいてくる。ゆっくりと・・・ゆぅっくりと・・・。  お常の半ば削げた鼻先と、与吉の鼻先がくっつきそうな距離まできて。  『――――――ィ――』  ぼろん、とお常の右の目玉が転がり落ちた。真っ黒な眼孔と、ぼろぼろ、ぼろぼろと蛆が溢れ出してくる。その幾つかは与吉の顔にかかった。    「はひゃ」  笑うような、悲鳴のような。奇妙な声を残して与吉はその場で気絶した。  最後に猫の鳴き声を聞いた気がした。
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