猫様:序

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 とっぷり暮れた山の中。投書を見てやって来た同心やその手代達が時間も関係なく騒がしい。  そんな喧騒をよそに、十代半ばの少年が、若い娘と向き合っていた。  明らかに検分の邪魔であろうに、町方達は誰も彼等を咎めないし、見ようともしない。  二人の足元にはそれぞれ真っ白な猫と三毛の猫が寄り添っていた。  少年…千早は今まさに成仏しようとしている女を見た。お常、と名乗った彼女は何とも美しかった。艶のある黒髪、瓜実顔には、小さく可愛らしい唇が乗っている。目は黒々としていて困り眉はちょっと男心を擽るような儚さがあった。歳は二十を迎えたばかりで、十六で嫁いで以降、癇癪、ま悋気持ちの夫のせいで随分と苦労したらしい。その末に殺されて、その躯を棄損されたとあっては、あまりにも救われない。  「お世話になりました」  しっかりと下げられた頭が、お常の感謝を表している。自分の死を自覚した当初は、「あの男を呪い殺してやる」と言って憚らなかったのに。  その旦那は、同心に縄をかけられてしょっ引かれている最中だ。髪は真っ白に色抜けし、口は呆けたように開いたまま、ぶつぶつと何やら呟きながらおぼつかない足取りで下山していく。やり過ぎか自業自得か、それを決めるのは自分じゃないな、と千草はお常の表情を伺った。  お常の方は晴れやかな笑顔だ。一気に老人のようになってしまった夫の姿に少しは溜飲を下げられたか。  無論、彼女とてそれで全てを許す事はできまい。だが、お常自身の為に、自分で自分を納得させる、その為の区切りにはなる。  ――にゃあ。とお常の足元から猫の鳴き声がした。三毛猫の雌、ミヤだ。  これからミヤがお常を乗せてあの世まで運んでくれる。猫は元々霊的生物で、あの世とこの世を自由に行き来できるのだそうだ。  ミヤが早くしろ、というように尻尾を振ってみせた。お常はミヤにまたがると――この場合、物理的にまたがるのではなく、猫の魂に死者の魂を“乗せて”もらうような形である――もう一度千早に礼をした。  千早もなんとか笑みをひねり出す。  「お常さん、お疲れ様です。ミヤさん、お願い致します」  ミヤは近くで一番近い木の幹に縋りつくと、猫の身軽さで一気に登っていってしまう。そのまま一番上までくると、今度は枝の先まで、さらにぴょぉん、と飛んで夜空へ、上へ、上へ、さらに上へと昇っていった。  その姿が完全に見えなくなるまで、千早は見送った。  『お疲れ様、千早』  足元から、真っ白な猫が語り掛けてくる。「シロ婆さん」とよびかければ、白猫はくるる、と喉を鳴らした。   「良かった、無事に逝けて」  『すごい泣き喚きっぷりだったからねぇ、あの子。絶対に畜生亭主を許さないって。まあ、ずっと我慢してきたものもあったんでしょうけれど』  「あの世なら、少しはマシかな」  『さて、それはあの子のこれまでの行い次第でしょう。同情だけで沙汰が変わる程、閻魔様は優しく無いからねぇ』  シロ婆さんは手を舐め舐め、顔をくしくしと洗い出す。猫にとっては、人間の行く末なんて興味の外なのかもしれない。    「大丈夫だよ、きっと」  『そう』  お常の死因はいつもの夫の癇癪――その延長線だった。普段から、暴力は振るわれていたらしい。  余所の男に秋波を送った、だから殴る。  今日の客は気に入らない奴だった、だから蹴る。  天気が悪くて売り上げに響いた、だから踏む。  同行者が店を持ちやがった、だから火鉢で炙る。  癇癪というよりは、完全な八つ当たりである。だからお常もついには堪忍袋の緒が切れた。女一人で生きていくのは辛い世だが、出て行かねば殺されてしまう。  だから別れ話を切り出したのだ。  そうしてあっさり殺された。気が付いたら自分の体をぶつ切りにする夫を見下ろしていたらしい。  「何で周りの人は誰も何も言わなかったのかなぁ。与吉の暴力の音は、外まで漏れていたと思うし、お常さんが死んでからは腐敗臭だってしてた筈なのに」  『あら、お常が言っていたじゃない。あの子は余所からあの男の住む長屋に嫁としてやってきたのよ?』  「うん」  『付き合いの長い与吉と、余所者でしかも目を見張るような美人のお常。特に長屋の実力者である山の神達はどう思ったでしょうね。  あらやだ、こうして改めて見ると与吉って結構いい男ね。なら余計解りやすいわ』  千早は与吉を見る。千早には猫の嗜好はよく解らなかった。  『癇癪持ちなのは知られていても、外面は最低限保てていたと思うわよ。  長屋に見に行った時、おかみさん達は与吉に愛想が良かったし、与吉も商売の残り物をわけてあげたりしていたでしょう?  まあ、もう一つあげるなら、差配さんよね。  長屋で問題があると、差配さんも罰せられるのよ。どこまで気づいていたかは解らないけれど、与吉が一人で何とかできるのなら、それに越した事はそりゃあ無いでしょう。 差配さんの機嫌を損ねると、長屋を追い出されるから、そりゃあ長屋の人たちは差配さんの顔色を伺うわよね』  猫のシロ婆さんは容赦がない。  「悲しいな」  『あら、正しい生き方じゃない』  「そう?」  『そうよ。厄介ごとに関わらない、好奇心を起こさない。長屋の人達の行動は人間としてとても正しいと思うわ。  まあ、与吉は失敗してしまったのだけれど、それでも罰せられるのは差配さん一人なのだし、店子達は知らぬ存ぜぬを貫けばいいのよ』  猫の観点なのだろうか。どちらにしろ、それは悲しいなぁと千早は思う。  少なくとも、知らぬ存ぜぬができない人間がいたからこそ、お常は成仏できたのだ。  お常が嫁ぐ前に奉公していた店の若旦那だ。身分違い故に実らぬ恋ではあったが、確かに想い合っていたらしい。そうして、若旦那から逃げるようにお常は店に出入りしていた棒手振りの与吉の元に嫁いだ。  「お常さんが死んで、さ。与吉はお常さんが他の男の元に出て行ったって言いふらしてたけど…若旦那、真っ向から否定してたね」  かなりの剣幕で、与吉の胸倉をつかみ「お常は何処だ」と。  『そうね』  シロ婆さんはやはり素っ気ない・  「そんな人がちゃんといてくれたから、お常さんも素直にあの世に逝く気になったんだ。―――まあ、報復はさせてもらったけれど」  『貴方もしかして怒っているのかしら?』  「怒ってる・・・俺?」  『さあ』  でたぞー。という声が聞こえた。手代が土中からお常の頭を掘り上げたらしい。  半台の中身を覗き見た彼は、悲鳴を上げて現場から千早たちの傍まで走ってくると、木の陰で盛大に吐き始めた。  彼を揶揄する他の仲間たちの声に、弱々しく反論の言葉を口にするも、ふとすぐ傍らの千早達を見た。  「すまねぇなぁ。汚ねぇもん見せて」  手代はシロ婆さんの頭を撫でてやると、仲間に悪態をつきながら戻って行った。千早の事は最後まで見なかった。  『私達も行きましょうか、千早』  にゃう。とシロ婆さんが鳴いた。千早は頷いて、そうして一度だけ空を見上げた。お常は無事成仏した。あの世とやらがどんなところか千早はまだ知らない。  ただ、未だ現世に留まり続ける彼は、ちゃんと逝く事が出来た彼女を羨ましいと思うと同時に、敬意を抱けた。
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