一章:幽霊なるは

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 「…俺の事はどうでもいいや。 ええと、お利津さん。自分が死んだ時の記憶はある?」  お利津は戸惑うように、けれども殊更ゆっくりと頷いた。認めたくはないけれど、認めざるを得ない。そんなところか。  それでも、自分が死んだ事に自覚を持とうとしてくれるだけ、千草は助かる。  幽霊とは、この世に未練がある者達だ。理由は様々だが、生前何らかの遺憾を残してきたからこそ、成仏できずに現世に留まってしまった者達。  だから幽霊になりたての者は、自分の死んだ事に自覚が無い事が少なくないし、あるいは理解していても認めたがらない。  そんな者達に比べて、お利津の状態はとても落ち着いて見える。多少戸惑ってはいるようだが、そのぐらいは当然であろう。  お利津の足に、斑色の子猫がすり寄った。お利津がその顎に手を伸ばすと、ごろごろと喉を鳴らす。「サダ」とお利津が子猫を呼ぶ。この斑猫はお利津の飼い猫だったらしい。  まだ小さいから、人語を解する事はできないだろう。それでも若くして死んだ女主人を憐れに思っているのかもしれない。  「幽霊ってのは心残りがあるから、成仏できない、けれどもそのまま放っておいても、遅かれ早かれいずれは消滅してしまうんだ。 ええと…じじょーさよう?」  『自浄作用、よ・・・千草。世界の理と言ってもいいかしら。 現世はあくまで肉在る者達の世界だから、肉体を失った貴女達は存在できないの』  「ええと、だから幽霊は放っておくと世界に溶けちゃうんだってさ。 なら、未練を解決してあの世に逝けた方がよっぽどいいだろう?」  お利津は理解しているのか否か、ただ迷ったように頷いてはくれた。  「勿論、俺達は幽霊だから生前の未練を晴らそうったって、普通じゃできない。肉の器が無いから、殆ど現世に干渉ができないしね」  「はあ」  「そこで『猫様』の力を借りるんだ」  猫様、ですか?――とお利津は足元の斑猫、サダを見下ろす。サダは可愛らしく首を傾げた。  「『猫様』ってのは、まあ猫なんだけれど。  俺達幽霊に協力してくれる猫たちの事を、そう呼んでる。  『猫様』はさ、自分達の上に俺達の魂を乗せてくれるんだ。もちろん、馬みたいに、よいしょって上に乗るんじゃないよ?  『猫様』の魂に、俺達の魂を重ねさせてもらう感じ…かなぁ。  で、乗せてもらった『猫様』の体が、俺達の失った体の代わりになってくれる。  放っておいたら消滅しちゃう幽霊が、そうならない為に、この世に“錨”を得るような感じだね。  勿論、体の主導権は『猫様』の側にあるから、好きに動き回れるわけじゃないけど・・・・それでも引っ掛かり処があるだけ大分違うんだ。 ちなみにお利津さん、俺たちに会う前の自分の状態、覚えている?」  お利津は自信無さそうに眉を寄せた。 千草達がお利津を見つけたのは神田両国瓦町の、とある大店の前だ。店表には忌引きの紙が貼ってあったから、多分その店の娘だったのだろう。  まだどこの店も表を開けぬ、朝陽が顔を覗かせたばかりの時刻。  軒から落ちた朝露を、その透けた体の中に潜り落としながら、青白い顔で何をするでも言うでもなく、ぼうっと突っ立っていたその姿。  傍ではサダが寄り添いながら心配そうに鳴いていて、けれどその鳴き声にも反応はなく、ただただ朧げな娘の姿がそこに在った。  「幽霊ってさ、とにかく不確かなんだよ。基本、心残りのある場所か、自分の死んだ場所から動けないし。意識も朧気で、下手すれば自分が何者か理解していない事もある。あるいは何かをしなきゃっていうのは理解していても、それが何か解らない、できない」  「寝起きの微睡のようですね」  「そうなの?」  「違いますか?――私は貴方の話を聞いて、今改めて思い返してみて…何となくそう思いました」  「―――へえ、寝起きってそんな感じかぁ」  「?」  シロ婆さんが足元で咳払いをした。  「とにかく、『猫様』に乗せてもらえれば、生前並みに自我もはっきりする。自分が何処の誰かも、心残りが何かも思い出せるようになるかもしれない。  それに沢山の『猫様』の力を借りれば、色々凄い事もできるようになる」  「猫さんって凄いんですね」  お利津は今度はシロ婆さんの顎を撫でた。ごろごろと喉を鳴らす様は愛嬌があるが・・・あれは猫を被っているな、と千草はひっそり呆れる。  「猫さんじゃなくて『猫様』ね。――俺達人間を乗せる事を嫌がる猫達だって勿論いるし、俺達はあくまで“場所”を借りさせてもらっている側だ。  だからこそ、俺達の為に肉体の恩恵を少しでも分けてくれる『猫様』に、敬意を表さないと――怒られちゃうよ? 臍曲げると結構根に持つし、猫って」  『最期の方は余計ではないかしら?』  ぶんっとシロ婆さんの尻尾が唸った。千草は明後日の方向へと視線を泳がせる。  「幽霊の私がこうしてサダに触れる事が出来るのは、サダが私の『猫様』だからなんですね?――サダが私を乗せてくれているから  あまり、“乗っている”という感じはしないですけれど・・・」  お利津がサダを膝の上に抱き上げようとするのを、千草は慌ててそれを止めた。人間に幽霊は見えないが、猫はばっちり見えている。  周りには、猫がひとりでに浮いたように見えるだろう。お利津が少し寂しそうな顔で、サダから手を離した。きっと普段から膝の上に乗せて、撫でてやったりしていたのだろう。サダは千草に向かって不満そうに唸った。  この子猫、思ったより人間の言葉を理解しているのかもしれない。  「『猫様』なら大体触れるよ。猫って元々霊的?――あの世と近しい生き物なんだって。だから俺達が未練を晴らして、あの世に行けるようになったら、向こう側へこのまま乗せて運んでもくれる」  『昔は猫以外にもそう生き物のは結構いたのよ。ただいつの間にか皆、どこかへ行っちゃったわね』  「因みに、彷徨う幽霊をそのままあの世に運ぶと、弾かれちゃうんだ」  『理に逆らってこの世に留まろうとするぐらいだもの。この世に対する気持ちが強すぎるのよ。弾かれる、というよりは貴女達が自分でこの世に引っ張られようとする感じかしら。試したいなら試してあげるけれど?』  「嫌デス、痛いデス。あれは幽霊でも怖いデス」  『だ、そうよ』  千草の顔が真っ青になって震えている。  「と、とにかく。俺は君みたいな彷徨う幽霊達の未練を晴らしてあげて、堂々成仏できるようにする…幽霊の相談役をしているわけなんだ。  それで、是非とも君の未練も晴らしてあげたい」  お利津はじっと千草を見つめた。  「一つだけ、いいですか?  何故千草さんは、赤の他人の為に相談役などしてくださるのでしょうか。  貴方だって、ご自分の未練を抱えていらっしゃるのですよね?」  ん~~、と千草は笑いながら首を傾げた。  「それが俺の、未練を晴らす事に繋がるといいなって…思っているからかなぁ」
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