一章:幽霊なるは

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 神田豊島町の表長屋の一角。その二階からたどたどしい琴の音色が聞こえてくる。  琴の師匠は女一人暮らしというし、表長屋の二階建てに住めるという事は、相当な礼金を頂いているのだろう。  評判が良いのかとお利津に聞けば、武家への出入りも許されているとかで、いっそ訳ありなのかもしれない。  「習い事は二階の部屋で行います。その間荷物は一階の居間に置いてあるんです。  だから彼女の巾着に櫛を忍ばせて頂ければ・・・」  友人の巾着は見慣れているので、どれがすぐ解ると言う。  「彼女とは本当に・・・仲良しだったんです。習い事の時、解らない所を教えてくれたり、どこそこの甘味屋は美味しいよって、教えあったり。  家はちょっと離れていましたが、途中まで一緒に帰ったり」  成程。と千草は頷いた。若い娘が二人でお喋りしながら通りを歩く姿など、想像するだけでも華やかだ。  しかし櫛を入れるだけだと逆に気味悪がられないだろうか。千草がそれを指摘すると、お利津も迷ったようだった。  『私が一筆したためましょうか?長い文章は無理だけれど、簡単な言葉ぐらいなら、この爪を使えば書けるわよ』  名乗り出たのはシロ婆さんだ。ギラリと突き出された爪はちょっと怖い。  それでもお利津は、両手を打って「是非お願いいたします」と乗り気になった。  紙は櫛を包んでいた懐紙を使い、墨の代わりに竈に溜まった炭で爪先に色を付けた。  “貴女にあげるね―――お利津”  シロ婆さんの爪で書かれた文字は、細くて一見頼りない。文章も本当に簡潔だ。これだけで十分だと、お利津は言う。  そうして出来た手紙で再度櫛を包み、友人のものだという、可愛らしい薄紅色の巾着の中に差し込んだ。  幽霊は物に触れないので、サダとシロ婆さんの二人がかりで、そこそこ時間がかかってしまった。  二階から和やかな会話の声と、階段をゆったり降りる足音が聞こえてきて、二匹は二人の幽霊を乗せたまま、素早く長屋から飛び出した。  「じゃあ、次に行きましょうか」  「え、友達の顔を見ていかないの?」  「いえ、願いは叶えてもらいましたから。――さあ、早く次へ行きましょう。ね、サダ」  外で出たと思えば、お利津は急くようにサダを促す。サダもサダで、さっさと近くの塀の上によじ登ってしまう。シロ婆さんが後を追った。  「次は両国ですね。すみません千草さん」  「いや、俺はいいんだれど」  千草は何度か長屋の方を振り返ったが、シロ婆さんもサダも次の目的地に向かって駆け出している。塀から屋根へ、屋根から屋根へ、と猫達は身軽に駆けて、あっという間に長屋が見えなくなった。  ―――泣き叫ぶ声が、少しだけ後を追いかけてきた気がした。
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