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両国広小路は、江戸を訪れる者なら一度は行ってみたいと憧れる、江戸一番の盛り場だ。
浅草仲見世よりもよほど豊富な出店がそろっているし、あちらのように寺院の手前でもないから、雑多なまでに自由度が広い。
値段もぴんからきり。僅か十六文でうまい蕎麦にありつけると思いきや、十両取られて人気の綱渡りを鑑賞する事もできる。
両国の賑わいを目の当たりにして早々、お利津の目が輝いた。目に映るもの目に映るもの、すべて真新しそうに歓声を上げている。
「実を言うと、私両国橋の盛り場に来るのは初めてなんです。こういう場所は素行のよろしく無い者が多いと、父にも止められていましたから」
お利津は裕福な家の娘だ。そういう者はやはり狙われやすい。身ぐるみはがされたり、身代金目当てにさらわれたり、下手をすれば女郎屋に売られてしまう。
「父は一年前に亡くなりましたが、それから店の中も慌ただしくて・・・未だ行きそびれていたんです」
目的はあくまでかつての奉公人に、精の付くものを食べて欲しいというお利津の未練だが、見るからに浮足だっている彼女の様に、千草は「ちょっとだけ見世周りもいいよなぁ」と思った。いや、正直なところ、千草にも今現在かなり心惹かれるものが両国に来ているのだ。
万延元年、七月。千草だけでなく、江戸中を熱中させた見世物。
―――“虎”である。
見世物小屋の周りでは人だかりができていて、何とか中に入ろうとしている。
このころ発行された瓦版『虎解省略』によれば、今回江戸入りした虎は雌の子供なのだという。背高は二尺八寸、首から尾までの長さは七尺五寸にもなるとか。
我先にと押し合いへし合いする町人たちの足元を、猫達は器用に潜り抜けた。最前列に出た千草とお利津は柵の向こう、初めて見る虎の実物に揃って感嘆の息を吐く。
虎の姿を絵や彫刻では見たことがあるが、本物の迫力は全く違う。その体は猫よりも犬よりもよっぽど大きい。体格も立派で見るからに強そうだ。
甘栗色の体毛、すらりとして伸びやかな背中、呼吸が重々しく肢体を上下させている。くあ、と大欠伸をすれば、見えた牙の鋭いこと。
千草とお利津は、周りの観客と一緒になって手を打ち熱狂した。
「あの牙で食べられたら、私達どうなってしまうのでしょうか」
「うんうん、凄いよねぇ。それに模様だって不思議だよ。真っ黒で、丸くて、斑点みたい。――あんな模様、猫にも犬にも見た事がない」
「神社の飾り物は見た事がありますけど、本物は本当に大きいんですね」
お利津の言葉に千草は眼を輝かせて何度も頷く。世話役の男が生きた鶏を持ってきて、虎がそれに食らいついた時など、その迫力に二人揃って息をのんだ。
もっとよく見たい、と千草は幽霊の特権で柵からぐいぃ、と体をねじ込む。
『中には入らないわよ、私』
シロ婆さんの声も聞こえていない。もっと近くで見たかった。
なんて格好良いんだろう…。男の子らしい憧れで、千草はシロ婆さんに乗ったままぎりぎりまで身を乗り出す。
「―――ありゃ虎じゃねよ」
そんな千草の高揚に水を差すような声が聞こえた。人間の肉声だった。心底馬鹿にしたような、嘲笑交じりの声。
む。と千草は乗り出していた体を戻して、周りを見回す。しかし周りは人だかりである。この中の誰が先程目の前の虎を否定したのか解らない。
同じ声を聞いたのだろう、お利津もきょろきょろと周りを見回している。しかし千草と目が合うと、困ったようにはにかんで見せた。
「シロ婆さん、これって虎だろう?」
憤懣は冷めぬが、犯人が誰か解らないのでは仕方がない。千草はとりあえず、物知りの『猫様』に確信の為の確認をした。
しかしてシロ婆さんの返答は無慈悲にも…
「あのね、千草。―――これ、豹よ」
あっさりと千草の高揚を打ち砕いてくれたのだった。
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