一章:幽霊なるは

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 山くじら、と書かれた出店の前で、若い男が腹を抱えて笑っている。笑いながらも鍋をかき混ぜる手は休まないし、漂う匂いはなんとも食欲をくすぐる。  男は目元の涼やかで、いなせなイイ男なのだが・・・周りの人間達はあからさまに彼と彼の店から距離をとっていた。  それもその筈で、端から見れば何もない空間に向けて男は話しかけ、笑いかけているようにしか見えないのだ。  男が笑っている相手は千草である。隣にはお利津がいて、足元には勿論シロ婆さんとサダもいる。  「善次さん」  「いやいやいや、なぁんもおかしな事じゃねえよ。江戸の人間は何でか、縞模様を雄の虎、斑点模様の豹を雌の虎と思っているからな。実際そうやって描かれた屏風や彫り物だってある。千草が無知なわけじゃねえから安心しな」  慰める言葉を口にしながら、善次と呼ばれた男は笑い続けている。  あまりに笑いっぷりがに、道行く者達はさらに彼のももんじ屋から離れた。  ももんじ屋。狸、猪、鶏などの獣肉を扱う店である。虎、もとい豹の見世物小屋から、ふらふら出てきた千草達に、顔見知りであるこの店主が声をかけたのだ。  店主の名を―――善次という。二十代後半の見目の良い男だ。  「・・・・善治さん、いつの間にももんじ屋なんて始めたんですか?  前は屑紙拾いだった気が・・・いや、袋物の棒手降りだったっけ・・・?」  「最近豚肉が流行りだって聞いたからな。こりゃ儲かるんじゃねえかと」  『貴方って、基本定まりが悪いわよねぇ』  「移り変わりが激しいのは人の世の醍醐味だろう、婆さん」  『・・・職がころころ変わるのは、醍醐味とは言わないわよ』  シロ婆さんのジト目にもなんのその。善次はけらけら笑いながら、小皿に小さな豚肉を乗せてシロ婆さんとサダの前に置いてくれた。  『払えないわよ』  「いらんいらん、ミヤの奴が世話になっている礼だ」  この男、声がでかい。ひそひそと会話しながら通り過ぎる人々の姿に、お利津は居心地が悪そうである。  「あの・・・この方は私達が見えるのですね」  「ああ、この人はね・・・人間じゃないから」  「そうなのですか!?」  「・・・・・多分」  善次は悪い男ではない。寧ろ面倒見は良いし、付き合ってみればなかなか親しみやすい性格をしている。が、如何せん正体が知れない。  この前会ったときは、還暦もとうに過ぎた老人の姿をしていた筈だ。過去には女性の姿だった事もある。  やっぱり得体が知れない。  『そのミヤはどうしたの?――一仕事終わったのだし、貴方の元に帰っていると思ったのだけれども』   「・・・・・・まだ帰ってねぇ」  先程までの陽気さはどこへやら。今度は目に見えて落ち込んでみせる。  『愛想でも尽きたのじゃない?』  「食うぞ、猫っころ」   『・・・・・・・・・・』  シロ婆さんが喧嘩を売られて言い返さないのは珍しい。  「まあ、あいつにはあいつの事情もあるだろうし・・・何かあったのなら俺には解る。  あいつが帰る所は俺んとこだけだ。――心配はねえだろうけどよ」  『大した自信じゃない』  「当たり前だ」  シロ婆さんが小さく唸った。だが善次は気にした風もない。彼はさっさと足元の猫から視線を離すと、お利津の方を見た。  「時に嬢ちゃんは幽霊共の新入りかい?――若いのに酷なこったなぁ。  どうだい、うちの肉は?あの世の土産にはなりそうかい?」  「え?え?」  「嬢ちゃんの乗っている猫が食ってんだ。嬢ちゃんにも味がわかるだろう」  お利津は口元を押さえたまま、もごもごと動かして・・・そうして今更味がしている事に気づいただろう。頬を紅色させた。  「――――美味しい」  「だろ、だろ」  善次はご満悦で胸を張った。何度も言うが、周りから見れば何も無い空間に向けて満足げに胸をはる、かなり怪しい兄ちゃんである。  「人間、肉も食わなきゃいけねぇってなもんだ。滋養強壮、無病息災、序でに何だ、精力増強っ!これで夫婦の夜もばっちりってな  ―――――――っ痛ぇっ!!」  見れば彼の足元にサダが噛みついている。噛みついたまま、ふがふが、ふごふご。どうやら年若い女主人に対する下卑た言葉が気に入らなかったらしい。
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