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沙璃が言うのは市内の神社で行われる大きな祭りのことだ。諒もすぐに思い当たったらしく表情をやわらかくした。
「そういえば、そろそろですね」
「柊二がたいへんそうだから息抜きに誘ったの。で、あなたもどうかなぁって」
柊二はここの執事だか従僕だか秘書だかの職を辞して、前職である車関係のエンジニアに戻ると決めたらしい。だが、三年のブランクが枷となってなかなかスムーズにはいかないようだ。そのうえ、彼は県内の大学に通う恋人と――つまりは沙璃と離れたくないばかりに就職先を近隣に絞ってしまった。前途多難である。
「あの子は沙璃さんさえいれば元気になる気がしますけれど、せっかくですから賑やかしにご一緒しましょうか」
ふふ、と笑う諒の右手を強く掴んだ。
「私、あなたとも行きたいの」
「…………」
「別に恋人がいて、あなたというペットがいる。混乱させているのはわかるけれど、そうまでしても私はあなたといたいの。わかるわね?」
なにかを言い聞かせたいときは触れてやらねばならなかった。
諒は本ばかり読んでいる。なのに、彼は言葉を信じていないのではと沙璃はときどき考える。実のところ彼が最も頼りにするのは、沙璃や柊二と同じで触覚なのではないだろうか。
「は……い、……沙璃様」
彼は陶然と目を細め、ふわりと花のような笑みを浮かべた。
何度でも見たいと願う、いちばん大好きな表情。
「だったら、沙璃さん、浴衣作りましょう」
「つ、作るって」
「だって、あなた振袖も作らせてくれないじゃありませんか」
成人式で振袖を着ていないと話してから、諒は振袖振袖と煩い。沙璃にしてみれば着るあてのない振袖をわざわざ仕立てるなんてとんでもない話なのだが、彼は晴れ着の一枚や二枚は持っていてしかるべきだと主張する。そのやりとりを蒸しかえしたくなかったので、沙璃は渋々と言った。
「じゃあ、お言葉に甘えるけれど――既製品で十分よ?」
「あなたのサイズは既製品ではありません。本当なら広幅の反物を特別に染めたいぐらいなんですからね?」
眉間に浅く皺を寄せる。こういうときの彼は強情だった。
でも、と沙璃が反駁しようとする前に、諒は少し意地悪く笑った。
「ねえ、沙璃さん、柊二を喜ばせてあげたいのでしょう? だったら、僕の提案を受け入れるべきですよ」
ね、と笑みを蕩かせて首を傾げる。
こうされてしまえば、沙璃に抗えるはずもない。
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