夏燈

1/22
前へ
/22ページ
次へ
 八月。  広々とした一階ベランダに面する廊下は庭や山に住む蝉の声がかしましい。蝉時雨を耳にしながら豪奢なチューダー様式の館を歩くのは少し妙な気持ちになる。  諒は広いほうの応接間にいると聞いた。  九月に引越しを控えて屋敷は少しずつ片付けが始まっていた。引越し先の市内の洋館はここまで広くはないのに、主人である諒は気に入りの家具や調度品をすべて運びたいと我侭を言って使用人を困らせている。四年暮らした屋敷を出るのが心細いのは沙璃だって理解できるのだが。  大応接間の扉は少し開いていて、四季花を描いた金唐革紙の壁が陽光にきらきらと輝くさまが見えた。その真ん中で諒はテーブルの上を睨んでなにやら考え事をしているようだ。 「お客様だったの?」  呼びかける前に振り向いた。彼は耳が良い。沙璃の足音に気づいていたのかもしれない。 「ええ、呉服屋が来ていたのです。冬のガウンをね、新調しようと思って」  二十二の沙璃の養父――戸籍上の父にあたる彼は四十を少し過ぎていて、沙璃同様に茶がかった髪と明るい虹彩をもち、沙璃よりも繊細で美しいおもだちをしている。今日はほっそりとした長身を淡いモカベージュのサマースーツに包み、首許を涼しげなピンクのアスコットタイで飾っていた。ふだんの英国紳士めいた装い。  そんな彼が真剣な様子で見つめていたのは、骨董品と思しき加賀友禅の訪問着であった。彼は夜は和装で眠り、着物を誂えなおしたナイトガウンを羽織るのが常だ。 「選べなくて置いていってもらったのです。ねえ、沙璃さん、どれが良いと思います?」  ほんの少し高く透明で輪郭線が弱い、そんな淡雪のような声を甘えた調子で紡ぎ、小首を傾げた。  深緋(こきあけ)の地に水仙の描かれた雪輪を配したもの、濃紅(こいくれない)に雪持竹を描いたもの、臙脂に白で乱菊を描いたもの――。 「どれも綺麗だけれど、諒はすらりとしているから……」  これが似合うんじゃないかしら。裾と袖、そして背中心を少し外して数本の雪持ち竹の描かれたものを手のひらに載せた。極上の絹はやわらかくて軽い。 「けれど、あなたには少し小さくない? 丈はどうせガウンにするとは言っても……」  昔の小柄な女性向けのものなのだろう。裄も身丈も一八〇近い諒には――いや、一七二センチの沙璃にだってまるで足りない。彼はくすりとして言った。 「ええ、僕にはどれも小さいのです。ですから、いつも袖は肩の辺りで別の布を継いでいるのですよ。女性用の着物ではあまりしないんですけれどね、まあ、模様を描き足せばあまりわかりませんし、どうせ僕が家の中で着るだけですから」  一度も気づいたことはなかった。家で着るためだけのもののためにずいぶん手をかけるものだ。だが、彼のそういうところは嫌いではない。  手にした濃紅の着物をそっと諒に合わせてみせる。よく似合っていたが、少し意地悪をしたくなった。 「女の格好がしたいの?」  小首を傾げてうねりのある長い髪を揺らし、いくぶん『沙璃様』の口調で尋ねると、諒は肩のあたりに少し警戒を見せた。  彼は沙璃の戸籍上の父親であり、美しい愛奴でもある。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加