第一話:霊 瑞香

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 そうこうしているうちに、影の内から垂れる水のようにつぅっと民家の前に姿を現したのは、お洒落な長羽織を着た細身の男。腰には刀がぶらさがっている。  仲間内では『メロンソーダ侍』通称『侍(ざむらい)』と呼ばれている。侍風ではあるが、生前は侍ではない。大店の長男坊として生まれたのに大して働かず、遊び放題に遊んで家族はもちろん、方々に迷惑ばかりかけていた放蕩息子であった。 「よっこらせ」と掛け声をかけながら建て付けの悪い引き戸を雑に開け、憎めない笑顔を覗かせた。 「やいや、今日も寒いなあ。これは昭子さんのせいだよ。あれがいるから寒さが増すんだ。まったくしょうもねえ。太郎、あれだ、いつものをちょいとくんな」 「おや侍さん、今日は来るのがずいぶんと早いじゃないか。それに外はそんなに寒いのかい? 寒いのは体にこたえるからやだねえ。体の芯がブルっと震え理まうよ。いつものアレだね。ちょっと待ってくんな」 しゃがれた声で返事をよこしたのはこの民家の主人、タロ太郎だ。『タロ』が苗字で『太郎』が名前だというんだから全くふざけている。  かくいう本人はいつぞやの頃からかこの名前一本で通してきていて、今ではもう自分の本当の名がなんなのか、本人ですら首を傾げる状態であった。  戸を引いて家の中に入ってみるとすぐに小上がりになっていて、履物を脱いで部屋の中へと上がるシステムになっていた。  部屋の中は狭くて薄暗い。真ん中には不自然に大きなこたつが一つだけ置かれていてあとは何もない。こたつ布団には茶色い猫の柄が描かれていた。その奥がどこかの店の厨房のような台所となっている。  太郎はその台所にいて、侍の飲み物を入れるグラスを用意していた。  侍は慣れた様子でこたつに入り込み、こたつ布団を肩まで引っ張った。  太郎はそんな様子を見て左の唇だけ上げて鼻でふんと一つ笑う。  小馬鹿にしているように見えるその笑いは彼の癖であった。
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