傘がない

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

傘がない

暗闇の中、雨の滴る音で目を覚ますと、僕はゴツゴツとしたアスファルトの上でうつ伏せに倒れていた。 片耳は路面に溜まった雨水に浸かり、唇も僅かに触れていた。 重い体を起こすと、そこはビルに囲まれた薄暗い路地裏。 見上げると、ビルの隙間から灰色の空が僅かに顔を出し、そこから雨が降り注いでいた。 ビルの壁に備わった排水管からは、雨水が音を立てて流れていた。 何故、自分がこんなところで倒れていたのか思い出せない。 ずぶ濡れの自分の姿を見れば、スーツ姿にリュックを背負うという出勤時の恰好だということがわかった。 腕時計を見ると、壊れてしまったのか短針と長針が十二時で重なり止まっていた。 「会社に行かないと」 路地裏を抜けると、大きな通りに出た。 車は走っていないが、傘を差して歩く人の姿はあった。 空は心なしか赤く、不気味なうえに雨は止みそうにもない。 とにかく傘を手に入れないと。 それにしても、ここは一体どこなのだろうか。 オフィス街のようなこの場所は、何処にでもあるような光景だが、僕には心当たりがなかった。 それでも、歩いていれば住所は見つけられるだろうと、とりあえずコンビニを探すことにした。 ずぶ濡れの僕の横を、傘を差した人たちが追い越していく。 しばらく歩いていると、見慣れたコンビニを見つけた。 窓ガラスの向こうに値札のついたビニール傘を見つけ、僕は安堵した。 髪も服もすでにびしょ濡れで、タオルや着替えも買おうと決めて入り口の前に立った。 だが、何故かドアが開かない。 マットの上に乗っても開かず、手で開けようにも重くて開けられなかった。 中を覗けば、店内には客はおろか店員の姿もなかった。 「なんで誰もいないんだ」 深いため息をつき、僕は呆然と大通りを見ていた。 ふと、僕は目の前の光景に違和感を覚えた。 通りを歩く傘を差す人たちは、みんな一様に同じ方向に歩いていく。 誰も、逆方向へ歩く人がいない。 みんな、一体どこへ向かうのだろうか。 僕はひとりびしょ濡れだ。 そんな僕を、誰も見向きもしない。 「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」 僕は雨の中を駆け出し、傘を差して歩く男性に声をかけが、一瞬立ち止まっただけで何も答えずに行ってしまった。 僕の顔すら、見てはくれなかった。 今度は、スーツ姿の女性に声をかけた。 だが、女性は立ち止まることもなく行ってしまった。 いつの間にか、空の赤が少し濃くなってきた。 とにかく駅を探そうと、僕は濡れたまま傘を差す人と同じ方へ歩いた。 「あの、すみません!」 何処からか女の子の声が聞こえたが、傘が障害になり姿が見えなかった。 僕は何とか傘をかき分けながら、声がする方へ向かった。 すると、そこにいたのは制服姿で学生鞄を持った女の子。 彼女は辺りを見回し、戸惑っていた。 僕と同じく傘を持っていないようで、髪も服も雨で濡れていた。 「大丈夫?」 声をかけると、彼女は驚きながら僕を見た。 「君も傘を持っていないの?」 「持っていた気がするんですけど、よく覚えてなくて。何処かへ忘れて来たのかな。 それより、変なことを聞きますけど、ここはどこですか?」 「実は、僕もわからないんだ。どこかのオフィス街だと思うんだけど」 「そうですか……」 ガッカリした様子の彼女に、僕は自分の名前と会社員であることを伝えた。 すると、彼女もまた自身のことを話してくれた。 彼女の名前は、早瀬夏帆。 都内の女子高に通い、今朝もいつも通りに学校に向かった。 けれど、気が付くとこの通りに立っていた。 ここが何処かわからず、傘を差す人に助けを求めたが無視されたという。 傘を差す人は、僕らの横を淡々と通り過ぎていく。 誰も、何も話さず、傘で顔を隠したまま、みんな同じ方向へ歩いていく。 まるで、目的地が同じように。 車道に車が一台もなく、いつの間にか傘を差す人は車道にまで流れ始めた。 ここにいても仕方がないと、僕と早瀬さんは雨宿りが出来る場所を探すことにした。 早瀬さんは僕の後ろをついて歩く。 時々、傘を差す人とぶつかってしまったが、相手は何の反応もせず行ってしまった。 僕のごめんなさい。の言葉が取り残された。 早瀬さんも同じなのか、時々短い悲鳴が背後から聞こえた。 見失いそうになる早瀬さんの手を掴み、見つけた庇のある店の下に僕らは逃げ込んだ。 そこは本屋だった。 ガラス戸には、週刊紙の広告がびっしり貼られ、そこには凄惨な事件や事故の見出しばかりが並んでいた。 店の中は明かりがついているが、やはり誰もいないしドアも開かない。 早瀬さんの濡れた髪から、雨の雫が滴り落ちている。 「今日もついてない日」 「僕も、早く会社に行かなきゃ。また上司に叱られる」 「私はもう家に帰りたい」 早瀬さんはそう呟き、僕は空を見上げた。 空には赤黒い雲が広がり、大粒の雨を降らせている。 僕らは少しの間、ただ雨を凌いでいた。 ふと通りを見ると、傘を差す人の間からフラフラとよろめいている人影が見えた。 その人も僕と同じくスーツを着た男性で、傘を持っていないようだった。 彼は体調が悪いのか、今にも倒れそうな足取りで歩いていた。 「あそこにも傘を持っていない人がいる」 僕は早瀬さんにそう伝え、彼を指差した。 「あの人に声をかけてみよう」 早瀬さんにそう伝え、僕は彼のところに向かおうとした。 彼は足を止め、その場に立ち尽くした。 異変に気付き、僕は足を止めた。 彼は、ゆっくりと雨の降る空を見上げた。 その直後、彼は口から真っ赤な血を大量に吐き出した。 手で口を閉じようとしたが、吹き出す血は手では抑えきれない様子だった。 僕と早瀬さんは、それを見て愕然とした。 彼は血塗れの自分の手を見ながら、呆然と立ち尽くしている。 「た、大変だ。助けないと」 傘を差す人は、それでもみんな無関心に通りすぎていく。 彼はガクガクと体を震わせながら、膝から崩れ落ちた。 僕はそんな彼を助けようと、駆け寄ろうとした。 「待って!」 僕の腕を早瀬さんが掴んだ。 早瀬さんの体は、恐怖からか震えていた。 「行かないで。一人にしないで」 すがるような目で、早瀬さんは僕を見つめた。 「彼の介抱をしたら、すぐに戻ってくるから」 そうだ。救急車を呼ばなきゃ。 僕は早瀬さんを落ち着かせ、ポケットから携帯電話を出した。 だが、何故か圏外と表示され、電話は繋がらなかった。 おかしい。 ここがどこだか知らないが、少なくとも地下でも室内でもない街中だ。 遮るものもなく、電波は届くはずなのに。 壊れたのか? 「よりによって、こんな時に故障だなんて」 僕は早瀬さんに携帯電話を持っていないかと尋ねた。 早瀬さんは学生鞄の中を探ったが見つからず、忘れてきてしまったと僕に詫びた。 「あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」 血を吐いた彼は、アスファルトに膝をつきながら叫んでいる。 「とにかく、このまま放ってはおけない」 彼のところに向かおうとする僕を、早瀬さんはまた僕の腕を掴んで阻止した。 離して欲しいと訴えても、早瀬さんは手を離さず駄々っ子のように首を横に振った。 ふと彼の方を見ると、僕らに気づいたのか顔をこちらに向けた。 「大丈夫ですか!」 僕は彼に大声でそう問いかけた。 彼は驚いた表情を見せた後、赤く染まった口元でにっかりと笑った。 「なんで、笑った?」 戸惑う僕らの先で、彼の脳天から赤い血を溢れ出し、顔が真っ赤に染めた。 そして、彼の頭から順番にまるで氷のように体が溶けて崩れた。 彼の血肉が雨と共にアスファルトに広がり、周囲の水溜まりを赤く染めた。 僕らはそのグロさに言葉を失った。 だが、傘を差す人々は動じることなく、かつて彼だった塊を踏みつけながら通り過ぎて行く。 そして、彼は消えてなくなった。 「今のは、何なんだ」 隣で早瀬さんは震えていた。 きっと僕も震えていただろう。 二人の間に沈黙が流れる。 いつまでも状況は好転しない。 雨は止みそうにもなく、 どの店にも入れず、 傘は手に入らない。 「少し休んだら、交番か駅を探そう。心配いらない。きっと、家に帰れるはずだ」 「私は……」 「どうかした?」 「いえ、何でもないです」 早瀬さんは何かを言いかけてやめた。 その目は何かを隠しているように見えたが、詮索はしなかった。 それにしても、こいつらは何なんだ? 一体、何処かに向かっているんだ。 この際、ついて行ってみるか。 もしかしたら、知ってる場所に行けるかもしれない。 携帯電話も使えないし、ここにいても仕方がない。 けれど、気がかりなのは早瀬さんだ。 雨の中、これ以上連れまわしたら、風邪をひいてしまうかもしれない。 「僕が傘か乗り物を探してくるから、ここで待っていてくれないか。必ず、ここに戻って来るから」 「いや!いや!! いや!!!!! 一人にしないで。お願い。一人はもう嫌なの。私もついていくから!」 早瀬さんはかなり取り乱していた。 そんな彼女を置いては行けず、雨の降る中を二人で進むことにした。 どれほど歩いただろうか。 かなりの距離を早瀬さんと歩いたはずなのに、景色がずっと変わらない。 通りがずっと先まで続いていて、両サイドに建つビルはどれも同じに見える。 空だけが暗くなりはじめた。 雨はさらに冷たくなり、体に当たると痛みが走るようになった。 足もだんだんと重くなって、歩くのも辛くなっていく。 息も苦しい。 それは僕だけではないようで、早瀬さんも苦痛で顔を歪めていた。 「もう歩けない」 早瀬さんは立ち止まり、その場で腰を下ろしてしまった。 「雨宿りが出来る場所を見つけよう。だから、もう少し僕と頑張ろう」 僕はそう言って手を差し伸べたが、早瀬さんは疲れて下を向いたまま黙り込んでしまった。 早瀬さんの体が、震えていた。 これ以上雨に濡れていたら危険だと思い、僕は覚悟して横を通り過ぎようとした黒い傘を持つ手を掴んだ。 奪うつもりはない。 ただ、少し貸してほしかった。 「すみません、傘を貸してく……」 腕を掴んだその人は、スーツを着た男性だった。 だが、傘に隠れていたその顔には目も口も鼻もなく、ただののっぺらぼうだった。 僕は驚き、途中で言葉を飲み込んだ。 すると、顔のないその男性は突然発狂し奇声を上げた。 その声にまわりの傘を差す人たちが立ち止まり、一斉に僕らの方を向いた。 その顔は、みんなのっぺらぼうだった。 「どうなってるんだ」 別に何かをするわけでもなく、傘を差す人達は僕らの方を見ていた。 僕は恐怖で心臓が痛いほど鼓動していた。 その時、空からベットリと雨よりも重い塊が僕の頭の上に落ちてきた。 「なんだ?」 早瀬さんは、僕を見て悲鳴をあげた。 手で拭うと、少し温かくて粘り気のある塊が指に触れた。 それは赤くて、僅かに弾力性のあるものだった。 握れば、赤い液体が雨に溶けるように流れた。 「なんだよ、これ」 早瀬さんは、それを見て怯えている。 ベチャ 僕の斜め前に、同じ塊が落ちてきた。 ベチャリ 今度は横に。 地面に落ちたそれを見て、僕はあるものが思い浮かんだ。 「これ肉片みたい」 僕より先に早瀬さんが口に出した。 べちゃ、べちゃ 雨と共にあちこちに肉片のようなものが空から落ちてくる。 足を止めていた傘を差す人達は、傘にベットリと赤い血糊がついているのに、また何事もなく同じ方向に歩き始めた。 アスファルトの道には、赤い色の雨が溜まっていく。 通りには肉片が転がり、僕は吐き気に襲われた。 早瀬さんもまた顔色が悪かった。 まるで地獄だ。 「とにかく、違う場所へ行こう」 早瀬さんの手をひき、僕らは走り出した。 傘を差す人のあいだを縫って、ただ落ち着ける場所を探した。 空はますます暗くなっていく。 通りすぎるビルは明かりが灯っているが、ドアは開かないし、叩いても誰も出てこない。 窓ガラスの向こうに人影が見えて足を止めた。 だが、それはただのマネキンだった。 「なんだ、マネキンか……」 僕はがっかりしてため息をついた。 その時、窓ガラスに一瞬何かが映った後、僕らの背後で酷い音がした。 恐る恐る振り返ると、そこにはパーカーにジーンズ姿の青年がうつ伏せに倒れていた。 青年の周囲を、赤い血が染めていく。 早瀬さんはあまりのショックに膝から崩れ落ちた。 僕はその青年に駆け寄った。 青年の体はピクリとも動かず、その目はすでに光を失っていた。 だが、その目の奥には恨みが宿っているようで、長く見つめてはいけないと直感した。 青年の腕に触れてみたが、やはり事切れていた。 救急車や警察を呼ぶにも、携帯電話が使えない。 回りを歩く傘を差す人達は相変わらず無関心。 きっと、顔のない人間なのだろう。 早瀬さんが悲鳴をあげた。 振り返ると、早瀬さんは動揺した様子で空の方を指差した。 そこには、ビルの屋上で佇む人影があった。 「まさか、飛び降りる気じゃ。やめろ!」 僕は傘の隙間を縫って、叫びながらビルに向かって走った。 だが、その人は倒れるようにしてビルの屋上から飛び降りた。 重い肉体が雨水の張るアスファルトに音をたてて落ちた。 若い制服姿の女の子だ。 駆け寄ったが、その子もすでに息絶えていた。 屋上から、遅れて学生鞄が落ちてきた。 身分証を調べようと鞄に手を伸ばすと、灰になって消えてしまった。 女の子の体も、本屋の前で見た男性のように溶けて雨に流れていった。 さっき落ちてきた青年も、すでに姿形がなくなっていた。 早瀬さんは呆然と立ち尽くしていた。 僕は早瀬さんのところへ戻ろうとした。 すると、僕の背後でまたドサッという嫌な音がした。 振り返ると、そこにも誰かが倒れている。 ドサッ また音がした。 今度は向かいのビルから落ちた。 ドサッ 別のビルから、どんどん人が落ちてきた。 年齢も性別もバラバラだが、みんな最後には雨に溶けていく。 落ちてきた人は、何も残らない。 通りすぎる傘を差す人たちは、落ちてくる人を避けて歩き、落ちた人に見向きもしない。 だが、あるスーツ姿の若い男性が落ちてきた時、ボロボロの穴の空いた傘を差した小太りの白髪の男が、横たわる若い男性の前に立ち止まった。 ボロボロの傘の隙間から滴る雨がのっぺらぼうの顔に落ちると、僅かにその男の顔が現れた。 その顔には深いシワがあり、かなりの年配の男だった。 年配の男は、横たわる若い男性に向かって何かを呟いた。 その言葉は、はっきりと僕の耳に届いた。 「惨めなやつだ」 悪意あるその言葉は、僕の記憶を刺激した。 僕も前に言われた事がある。 白髪の男は横たわる骸を蹴りあげると、ニヤリと笑って再び顔を失いながら歩き去った。 僕の視界には、次々と落ちてくる人が見える。 彼らはアスファルトに体を打ち付け、そのまま雨に溶けていく。 その人たちには顔があるのに、誰一人として話を聞くことが出来ない。 アスファルトに濃い赤色の雨が溜まっていく。 早瀬さんは恐怖で身動きがとれずにいた。 「大丈夫?」 早瀬さんの肩に触れると、怯えるようにびくりと肩を震わせた。 「わたし、前にもここに来たことがある」 早瀬さんはそう言って、僕の目をじっと見つめた。 「本当に? なら、ここが何処かわかるんだね!」 僕は、ここから出られると安堵した。 だけど、早瀬さんは悲し気な顔で両手を僕に差し出した。 早瀬さんの手首には無数の切り傷が現れ、そこから血が滲み出た。 その傷は見る見るうちに深くなり、血は雨のように地面に滴った。 僕は彼女の手首を掴み、止血をしようとした。 何処でこんな傷を。 救急車を呼ばないと。 血が止まらない。 誰か助けてくれ! 掴んだ僕の手の隙間から、彼女の血が漏れ出てくる。 僕は、止まらない血に焦っていた。 彼女はそんな僕を見ながら、ボソリと呟いた。 「思い出した。自分のしたこと」 現実の世界で、彼女は自身の体を傷つけた。 友達だと思っていた子から罵倒され、好きだった人にも裏切られた。 両親は弟ばかり贔屓して、彼女の事は二の次。 辛くて、悲しくて、居場所がなかった。 ここも地獄だが、彼女にとっては現実世界も地獄だった。 一度、この悪夢から出られたそうだ。 彼女が目を覚ました時、そこは病院の上だった。 だが、病室には誰もいなかったし、退院の日まで誰も来なかった。 病院から呼ばれた母親は、看護師にはいい顔をして頭を下げていたが、二人きりになると彼女の事を金食い虫だと罵った。 みんな、無関心ののっぺらぼうばかり。 誰かが泣いていても、みんな見て見ぬふり。 だから、繰り返してしまった。 彼女の目は悲しげだった。 「こうなる前にあなたに出会えていたら、また違う人生があったかもしれない」 「人生なんて、何度でもやり直せるよ!死ぬなよ」 早瀬さんの目から、赤い涙が流れた。 そして、彼女もまた手首からゆっくりと溶けていき、最後には雨と共に流れて消えた。 ひとり残されてしまった僕。 ここにいる理由を思い出そうとしても、まったく思い出せない。 雨は降り続き、落ちてくる人は絶え間ない。 見たくない。 聞きたくない。 僕はその場でうずくまり、誰か助けてくれ、と呟いた。 ふと顔を上げてビルの一階に目をやると、窓ガラスの向こうにぼんやりとした明りの中に人影が見えた。 誰かいるのか? それとも、またマネキンか? その人影は僅かに動いた。 僕はビルの入り口に駆け寄り、ドアを開けようとしたが開かない。 中を覗けば、フロアにはテーブルと椅子、ホワイトボードが無造作に置かれ、隅には段ボールが積まれていた。 「すみません!」 中の人影に向かって、僕は大声で叫んだ。 だけど、まったくこちらに気づかない。 人影は二つ。 何か話しているように見えたが、よく見ればまるで違った。 その人影は二つとも宙吊りで、頭は項垂れるように下を向き振り子のように揺れていた。 首元から伸びたロープが天井に続いていた。 フロアの床は雨が降っていないのに、水浸しになっていた。 僕は一気に血の気が引き、絶望感に苛まれた。 隣のビルを覗けば、そこにも不自然に揺れる人影が見えた。 僕は声にならない声をあげて走り出した。 べちゃべちゃとアスファルトに広がる赤くドロドロとした塊で足が取られ、何度も躓きそうになった。 どんなに走っても、同じような景色が続くだけ。 何故、自分がこんな悪夢にいるのか。 思い出さない限り、きっとここからは出られない気がする。 僕は走るのをやめ、また庇のある場所を探した。 そして、僕は待つことにした。 雨が止むのを。 忘れた記憶が蘇るのを。 僕を助けてくれる誰かを。 待って、待って、待ち続けた。 あれから、どれぐらい経っただろう。 雨も、赤い塊も、落ちてくる音も、揺れる影ももう慣れてしまった。 壊れた排水管から流れ出る赤い雨水を見るたび、早瀬さんを思い出した。 相変わらず、傘を差す人が通りを同じ方向へ歩いていく。 そして、時々破れた傘を差す人が現れては、僕の前で立ち止まりこちらを向く。 すると、のっぺらぼうの顔に目と口が現れ、憐れむような目で僕に向かって酷い言葉を吐き捨てる。 「まだ、生きてるの?」 「はやく、死ねば?」 顔は再び消え、その人は去っていく。 僕の目の前を、傘を差す人が無関心に通りすぎていく。 それが悲しいとか、切ないとか、そう思える時期は過ぎてしまった。 僕は、雨の降る空を見上げて決断した。 次に僕の前で立ち止まり、酷い言葉を吐き捨てる奴が現れたら、そいつの傘を奪ってやろうと。 傘がないなら、奪えばいい。 そうしたら、僕は元の世界に戻れるかもしれない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!