薬罐坂

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 静かな住宅街の近くの隠れ家的なシガーバー。カウンターに並んだ二人の怪談作家がグラスを傾けている。 「どう、最近仕事の方は?」  デビューも年齢も数年古い先輩格の榎戸が水を向ける。 「いやあ、いまいちですねえ。どうも、最近ネタに困ってまして」  後輩格の藤原が頭を掻きながら苦笑いをする。 「ネタなんていくらでもあるだろう。この国じゃ毎日のようにとんでもない事件が起きてるし、このご時世本当にホラー系のネタには困らないよ」 「ええ、確かに情報は沢山あるんですが、それが何というか、どうも自分の中で膨らんでいかないんですよねえ。これってスランプなんでしょうか」  先輩の前でへりくだって見せてるのが半分だが、残りの半分は本当に困っているのだ。 「まあ、確かに事実をそのままなぞるだけではノンフィクションライターになっちまうけどね。我々の仕事は想像力を如何に膨らませるか、にかかってるわけだからな」 「そうなんですよねえ。そこが最近どうも上手く膨らまなくて……」 もやもやした気分を酒で流すように、藤原がグラスを空ける。  暫らく静かな時が流れる。ふいに榎戸が耳慣れない言葉を口にした。 「薬罐坂って聞いたことある?」 「やかんざか……ですか?いえ、知りません」 「道具の“薬罐”に“坂”と書く、ベタな名前だけどさ。実は東京都内に同じ名前の坂が複数あるらしいんだが、いずれも古くからこの坂で怪異が見られるという言い伝えがあるんだ」 「はあ」 「場所によって、言い伝えの内容は微妙に違うらしいが、僕が気に入ってるのはこんな話だ。ある晩、近所に住む男が酒を飲んで、一杯機嫌でこの下り坂を歩いていると、道の真ん中に真っ赤に焼けた大きな薬罐が転がっている。周囲には誰もいない。何故夜中の、誰もいない場所に真っ赤に赤熱した薬罐が転がっているのか……奇妙な状況だったが、その男は酒の勢いもあって、その薬罐を蹴っ飛ばしてしまった。すると、薬罐は人気のない坂道をコロコロと転がっていって見えなくなった……。それ以来、そこは薬罐坂と呼ばれ、怪異の起きる場所として言い伝えられていったそうだ。なかなか味わい深い話だと思わない?」 「はあ……」  折角榎戸が披露した話に、藤原の反応は今ひとつ鈍い。 「あれ?何となくどこが面白いんだ?って顔してるね」  榎戸がにやにやしながら藤原の顔を覗き込んでくる。 「はい、正直いまいち良く分からないんですが……夜中に誰もいない坂道に赤熱した薬罐が置かれていたのは、確かにまあ、奇妙な状況と言えば言えるんでしょうが、誰かの悪戯の可能性もあるし、全くあり得ない状況でもないと思うんです。それと、その男が蹴っ飛ばした薬罐は人気のない坂道をコロコロと転がっていって見えなくなったって話ですが、坂道で丸い薬罐を蹴飛ばしたら、それは、ずっと転がって行くでしょうね。ごく当たり前の現象なわけで、それがどこが面白いのは、どうもよく分からないのですが……」  酔いも手伝って、つい思ったままを口にした藤原の顔を一瞬見つめると、榎戸は聞えよがしに大きなため息を吐いてみせた。 「確かに今の話は、今時のホラーの感覚から言えばいかにも古臭くてインパクトに欠けるだろうさ。だけど、“話”ってのは“情報”だけが全てじゃないんだよ。人っ子一人いない、真っ暗な深夜の坂道に、真っ赤に焼けた薬罐がぽつんと置かれている。その異様な情景を想像してごらん。いいかい、想像するんだよ。シンプルな構図がいかにも不気味な情景を醸し出していると思わないか?そして、蹴飛ばされた薬罐がコロコロと坂道を下っていく情景を想像してみなよ。確かに丸い薬罐を蹴飛ばしたら、坂道を転がって行くのは当然だろう。だけどその情景をじっくりと想像してみたかい?真っ暗な闇の中、自分以外にだあれも人影の無い寂しい空間の中で、立った一つ、まるで生きているかのように勢いよく動くもの。しんと静まり返った空間の中に、薬罐が転がるコロコロという音だけが乾いた響きを立てる。やがてだんだんと音は小さくなり、薬罐と共に闇に吸い込まれていく。そして、後にはまたしーんとした静寂が戻ってくる。そのいかにもシンプルで、殆ど無意味とさえ言える情景が、かえって不気味な印象を与えていると思わないか?要はイマジネーション力だよ。一見何でも無いようなことにも、想像力を掻き立ててイメージを膨らませるように普段から心がけなければ駄目さ。作者がそうでなければ、読者の想像力を喚起する作品なんか書けっこないじゃないか」  酒の勢いもあって榎戸は一気にまくしたて、さらに余勢を駆って、一言付け加えた。 「だから、君は駄目なんだよ」 「はあ……そうですね……勉強します」  ごまかすような愛想笑いを浮かべながら、藤原はグラスを空けた。  榎戸の説教に反発を覚えたせいもあって、かなり飲みすぎてしまった藤原は、覚束ない足取りで何とか自宅に向けて歩いている。 「だから、君は駄目なんだよ」  榎戸の言葉が、小馬鹿にしたような口調と共に忌々しく蘇る。 「くそ!ちょっとデビューが早いからって先輩面しやがって。手前だって大したもの書いてねえじゃねえか、偉そうに……」  悪態をつきつつも、榎戸の言葉が正鵠を射ていることは認めざるを得なかった。何と言っても、自分が想像力の低下に悩んでいるのは事実であり、榎戸の前で初っ端から自分でそう認めていたのだから。そして、普段からイマジネーション力を養うように努力せよという彼の言葉は、実際、貴重なアドバイスとも言えるのだ。同時に、今自分が悩んでいる問題、まさに痛い所に正論をぶつけられたからこそ、それがまた一層藤原の感情をささくれさせてもいるのである。 「イマジネーション……想像力……普段から訓練しろったって、筋トレじゃねえんだぞ、ったく……どうやったらいいんだよ、馬鹿野郎……」  まばらな街路灯に照らされた暗い坂道を千鳥足で歩いていた藤原は、道の真ん中に一つの物体を見つけた。 「なんだ、道の真ん中に。邪魔くせえな……」  近づくにつれて、暗闇の中に物体の輪郭が浮かび上がって来る。 「……傘?」  一本の傘が、開かれた状態で道の真ん中に置かれている。持ち手の端と広げた骨のうち二本の先端部分が地面に接しており、軸が地面に対して斜めになる形で、置かれていた。持ち手は良く見かけるJの字の形をしており、布の色も黒色で、ごくありふれた感じのする傘だ。  ここ数日天気もよく、昨日も雨は全く降っていなかった。誰がこんな所に傘を広げておいたんだろう?酔った勢いで蹴っ飛ばしてやろうと藤原は近づいた。  その時。  カラカラカラ……軽快な音を立てて傘がいきなり回転した。持ち手と地面の接点を中心に、円弧を描いたそれは、石突きの先端をぴたりと藤原の方に向けた。 「わっ!」  下から突き上げるような角度で石突きを向けられた藤原は、思わず驚いて飛び退った。  周囲には人っ子一人いない。風もない。夜明け前の一番深い闇の時間、漆黒の闇の中に長く伸びる坂道を、わずかに一本の街路灯が心細い灯りで照らし出しているだけだ。  ひょっとしたら自分にも感じられないくらいの微風が吹いたのかもしれない。確かめるために、藤原は、おそるおそる自分から見て左の方向に回り込んでみた。  すると、傘の方も彼の動きに合わせて左側にカラカラと回転を始め、彼が歩みを止めたところでぴたりと静止する。  明らかに傘は自力で回転しているのだ。 「こいつ、俺の動きを追っているのか?」  藤原は、今自分の前で起きている不気味な現象に腰がぬけそうになった。酔った頭の中では、機能の低下した理性が、こんなことはあり得ない、得体の知れないものに関わらないで、すぐに逃げだせと辛うじて小さな警鐘を鳴らしている。  だが、同時に彼の心の中には、それよりも遥かに大きなうねり、即ち興奮が沸き起こっていた。そうだ、これはあり得ないことだ。不可解で奇妙な現象だ。だがそれは今現実に俺の目の前で起きている。俺は、今まさに自分の目でそれを目撃しているのだ。  確認のために、もう一度右側に歩いてみる。 傘もカラカラと音をたてて転がって、石突きをぴたりと藤原の前に向ける。  今度は、左側に駆け足で回り込む。  傘も彼の足に合わせて、カラカラカラと左に急回転する。 「やっぱり、こいつは自分の意思で動いてるんだ!」  今や藤原の心は感動に満たされていた。これこそ、まさにイマジネーションの世界だ。いや、もっと進んで、それが現実化したものを俺は今、自分の目で見ているんだ。榎戸さん、あんたは所詮読んだ話をもとに想像力を働かせることしか出来ないじゃないか。今、俺は、そんな情景を現実にこの目で見てるんだ。この迫力、インパクト、これはあんたのいう想像力なんぞが生み出したものより、何百倍も凄いもんだぞ!これをもとに、素晴らしい作品をぶち上げて、あんたを見返してやる。俺は勝ったよ!あんたに勝ったんだ!  高揚する藤原の顔面にはいつしか笑いが浮かんでいた。確かに、今起きているのは不可思議で不気味な現象だ。だが、なんて“楽しい”不気味さなんだ!  満面の笑みを浮かべる藤原の前に、いつの間にか石突きをきちんと彼に向けた状態で傘が静止していた。 「よーし、競走だ。お前の後ろに回り込んで持ち手を掴まえて、“雨に唄えば”を踊ってやるぞ。見てろよお」  藤原は、笑いながら傘の周囲を走り始めた。傘の方も彼の動きに応じて、めまぐるしく転がりながら、その向きを変える。 アハハハハハハハハ カラカラカラカラカラカラ アハアハハアハハハハハハハハ カラカララカラカラカラカラカラカラ ぎゃははははははははははは…… ガララララララララララララララ…… 「もしもし、榎戸先生ですか。梅田書房の松山です。藤原先生のこと、聞きました?まだですか……実は今朝、ご自宅近くの路上を徘徊しているところを保護されて、そのまま病院に収容されたそうです。ええ、私もびっくりしました……ええ、なんでも地面に落ちていた壊れた傘の周りを、げらげら笑いながら走り回っていたそうで……」 [了]
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