花ほころびし、三月某日。

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花ほころびし、三月某日。

 超異能力特務隊に配属されたとはいえ、あくまで、キョウヤとトシヒコは学生である。平素は最寄りにある中学校の二年生として、勉学に励んでいる。無論、帝都の危機があれば学校を抜け出さねばならないこともあるのだろうが、幸いにも、今にいたるまで、そういった事件は起きていない。 「あと、ひと月もすれば三年生か」  授業を終えた教室で帰り支度をしながら、トシヒコが感慨深そうにこぼした。 「おまえとの付き合いも、三年ほどになる」 「ああ、そうか。まだ、そんなものだったか」  少し意外な気持ちになって、キョウヤは教壇へと目を向けた。 「おまえが来てからは一日一日が長いようで、どうにもおかしな気分だよ」  トシヒコは、キョウヤが中学一年生のころに、この帝都へとやってきた。年月だけならば決して長いとはいえないのだが、ともにハルオミの助手をしていた分、キョウヤにとっては短いともしがたい付き合いである。これを素直に告げれば、「違いない」と、トシヒコも目を細めた。 「今日も定刻どおりに探偵社へ行けばいいのか?」 「それで頼む。目を離すと、あの人はすぐにミルクホールだのカフェーだのへと行ってしまう」 「仕事も増えているだろうに、本当にしかたのない人だな」  呆れまじりに笑い、キョウヤはトシヒコの苦労を思った。探偵社の所長と超異能力特務隊の隊長を兼任するようになって、ハルオミは以前よりも、ずいぶんと忙しくなったようだった。探偵社には、依頼人にまぎれて帝国議会の人間が出入りし、所長室の電話はひっきりなしに鳴る。丸一日、所長室から出てこないということも、しばしばあった。  しかし、これに油断をしていると、ハルオミは得意の瞬間移動で姿をくらませてしまう。仕事を放りだし、行きつけの店でアイスクリイムやらフルーツやらに舌鼓を打っているハルオミを見つけだしたときには、キョウヤもトシヒコも言葉を失ったものである。当人には反省の色など一切ないのであるからして、まったくたちが悪い。  その後は、探偵社へと帰るトシヒコと一度別れ、キョウヤは自らの帰路へと着いた。モノベ邸の門をくぐり、庭を横切っていく。庭木の梅はすっかりこぼれ、桃のつぼみがほころび始めていた。このところは大分暖かくなってきて、よく手入れされた庭は萌葱色の若葉で彩られるようになった。外から屋敷へと帰ってくる度、忙しなく働く園丁(えんてい)の姿を見かける。それと同時に、昨年までは絵空事でしかなかった光景が、度々キョウヤを出迎えるようにもなっていた。 「キョウヤ、おかえりなさい」  あたたかな日差しの中で、チヨコが笑う。その手には、幾本もの菜の花が握られていた。キョウヤは「ただいま」と笑みを返しながら、学帽を取った。 「その花はどうしたんだい」 「園丁のタキさんにもらったの。きれいでしょ」  タキは、今年で三十を数えるモノベ家の庭師だ。物腰のやわらかい真面目な働き者で、大変な愛妻家でもある。以前から、チヨコのためにと庭で咲いた花々を生けてくれていたのだが、はたして、この庭に菜の花などはあっただろうか。キョウヤが怪訝に思っていると、チヨコは言った。 「タキさんの家の近くに咲いていたのだって」  チヨコの生まれは、帝都から遠く離れた田舎町であった。こんな豪奢な屋敷の庭園とは、ほとほと縁のないような家で暮らしていた。それだから、こういった野に咲く花の類は、チヨコも親しみを覚えるのだろう。目にも鮮やかな黄色い花に顔をうずめるチヨコの頬は、少し赤みが差している。 「よかったじゃあないか。タキには礼を言ったかい?」 「うん。お礼に、チヨの折ったお花もあげたの」 「そうかい。それはタキもよろこんだろう」 「とっても」  うなずいたチヨコの耳もとで、赤い耳飾りが光る。キョウヤがトシヒコと贈ったあの日以来、チヨコはほとんど肌身離さず身につけているようだから、きっと気に入ってくれたのだろう。キョウヤの口もとも、自然とゆるむ。 「せっかくだ。花がしおれてしまう前に生けてこよう」  おいで。と、手を差し出せば、ためらいなく重ねられる細い手。けれど、そこには以前よりも、たしかに生の力を感じ取ることができた。  ハルオミから渡された薬を飲むようになって、チヨコの容態は見違えるほど良くなった。初めこそ、屋敷の中を歩き回るだけだったものの、近ごろでは庭先に出てもなんら支障がないほどである。一体全体どうやって手に入れたのだと尋ねれば、ハルオミは「ちょっとしたずるをしたのさ」と、笑っていた。犯罪ではない、けれど誰もが望みながらも決してできないことでね――  それ以上は語る気がないのか、ハルオミはぼんやりとタバコをふかしていた。トシヒコもそうだが、やはりハルオミも不思議な男だった。  そもそも、キョウヤとハルオミとの出会いは、四年前。町を焼き払った炎が未だくすぶる、チヨコの生家跡でのことだった。  そこは、避暑地として名の知れた小さな町で、高原の空っ風が心地よい、緑豊かな土地だった。キョウヤの物心がつく前から、モノベ家は夏になるとそこへ行き、しばしば所有する別荘に滞在していた。キョウヤはその町でチヨコと出会い、夏がくる度に家を訪ねていったものだった。  というのも、キョウヤはチヨコが生まれたときから知っている。もともとは、産気づいたチヨコの母親を病院まで連れて行ったのがきっかけであった。  当時の暦は二月。本来ならば、キョウヤが町にいるはずのない時期ではあったのだが、大地をすっかり覆い尽くすほどに降り積もった雪など、帝都では見ることができない。北国の出身であった父キヨシは、これを大層残念がっており、あるとき、思い立ったようにキョウヤを冬の高原へと連れ出したのである。  今も、鮮明に覚えている。生まれて初めて立った雪原の広さと静けさを、生まれて初めてふれた赤ん坊の小ささとあたたかさを。 「きみが、キョウヤくんだね」  かつて焼け跡で出会ったハルオミは、ぐったりとするチヨコを腕に抱えて言った。 「彼女が、ひたすらに繰り返していたよ。助けて、と――キョウヤ助けて、と」  自身の暴走させた能力が、助けを求めた相手から借りているものであるなどとは露とも知らず、チヨコはキョウヤの存在にすがろうとしていた。火の出所がチヨコによる超異能力であるなら、真っ先に被害者となったのは、その家族であったに違いない。友人も少ないチヨコには、きっと、ほかに頼れるものがなかったのだ。  このとき、キョウヤは煤けたチヨコの顔を見つめながら、思った。この小さく、あたたかで儚い存在を、今度こそは自分が助けてやらねばならないと。そのためにできることならば、どのようなことでもやってみせようと。  菜の花というのは、どうにもにおいが独特で、百合などのような(かぐわ)しいものとは言いがたい。けれど、手ずから花を生けていくふたりの間には、談笑が絶えなかった。菜の花のにおいを、ぷんと漂わせ、軽やかに言葉を交わす。 「飾る場所はどこにしようか」  キョウヤがそう口にしたのなら、チヨコはたのしそうに「あのね」と言った。 「チヨ、お屋敷中に飾りたい」  お屋敷のあちこちに飾って、どこもかしこも菜の花畑にしたいのだと、チヨコは無邪気に笑う。これまで、チヨコの世界といえば、キヨシから宛がわれた、かつての客室だけだった。狭い窓に切り取られた外を見るだけの、小さな世界。それが、今や、モノベ邸全体にまで広がっている。チヨコが、自分の目に映る世界を花で埋め尽くしたいと願ったのかはわからない。ただ、花が好きなチヨコらしい願いだと、キョウヤは笑った。 「そうかい。それじゃあ、花瓶をもっと用意しなくてはね」  キョウヤは通りがかった女中を呼び止めて、屋敷中の花瓶をあるだけ持ってくるよう頼むと、生けられた菜の花を見つめた。  千代紙で折られた色とりどりの花も、世界を白で染めあげる雪も、鮮やかに咲いた菜の花も――チヨコが望む世界は、いつだって、うつくしいものであふれかえっている。女子であれば、あるいはそれは当然のことなのかもしれない。しかし、キョウヤは思うのだ。チヨコのそういった願いを聞くたびに、どこか物悲しい気持ちに駆られ、思うのだ。チヨコはまるで、あの日の焼け跡を塗りつぶそうとしているかのようだと。  そう思えばこそ、菜の花のにおいの、どれほど芳しいことか。あの焦土のそれとは、比べものにならない。たまらず、キョウヤは眉根を寄せた。 「おチヨ」 「なあに、キョウヤ」  ほの暗い影など、微塵も感じさせぬ声が返る。 「きみは今、幸せかい」  キョウヤは知っている。今も、たびたび夢にみるほど、チヨコの幼い心は深く傷ついている。そしてそれは、自分と通い合ったがゆえに起こしてしまった惨劇だ。あるいは――そう、あるいは――チヨコとキョウヤが出会っていなかったのなら、キョウヤが、存在していなかったのなら、 「チヨは幸せよ」  チヨコが言った。 「キョウヤに会って、ハルオミやトシヒコに会って、今こうして一緒にいられることができて、チヨは幸せよ」 「そうか」 「そうよ」  花瓶に生けたばかりの菜の花を、細い手が短く手折る。チヨコは、うんと背伸びをしたかと思うと、キョウヤの胸ポケットにそれを差した。白いかんばせが、笑みを浮かべる。 「キョウヤ、お花のにおい」  きっと、それは(たわむ)れであった。キョウヤの錯覚であった。けれど、あどけなく紡がれた言葉が、声が、音もなく、キョウヤに語りかけてくる。だから、もういいのだと。笑ってほしいと。あの、おそろしい世界は、もうここにはないのだからと。  まさしく、救われる思いだった。錯覚であって、戯れであっても、チヨコが浮かべる笑みに偽りはない。キョウヤは、伸ばした指先で花瓶の花を折った。チヨコのつややかな髪へと差してやれば、黒に菜の花の黄色が、とてもよく映える。 「これで、おそろいだ」  キョウヤが笑うと、チヨコもまた笑った。あの鼻を覆いたくなるような凄惨なにおいは、このモノベ邸のどこからも漂ってはこない。鼻をくすぐるのは、菜の花のそれだ。チヨコが望む世界は、あるいは、キョウヤの望む世界と同じであったのかもしれない。今さらながらに思って、キョウヤはふと笑みを深めた。  トシヒコとした約束の刻限が近くなるころには、モノベ邸のいたるところに菜の花が飾られ、開け放った窓から吹きこむ風は、より一層の春の装いでもって邸内を賑やかした。 「キョウヤは、これから探偵社へゆくのでしょ。これ、トシヒコとハルオミにも、おすそわけね」  千代紙で包まれた小さな花束をチヨコから受け取り、キョウヤは「ああ、そうだね」と、うなずいた。 「僕だけがもらったと知ったら、トシヒコの奴もすねるだろう」 「そうかな。そうだといいな」  ころころと笑い、けれど、そこでふいにチヨコは遠い目をする。 「ハルオミはチヨのこと、嫌いなのかな」  これにはキョウヤも、目を丸くした。 「おチヨ、一体どうしたってそんなことを言うんだ。たしかにハルオミさんは、きみを脅かしたこともあったが、詫びにと良い薬をくれたろう」  手荒ではあるが、チヨコの異能が暴走するたびに止めてくれているのは、ほとんどハルオミだ。チヨコにとっては、恩人といっても過言ではない。それが、どうしてチヨコを嫌っているという話になるのか。  すると、チヨコはさびしそうな横顔を見せたまま、キョウヤに言った。ハルオミはみえないの、みせてくれないの、チヨとの間に線を引いているの――  キョウヤはチヨコの言っていることをはかりかねたが、電車の時間が迫っている。託された花束を片手に、キョウヤはチヨコの頭を撫でてやることくらいしかできなかった。  制服のまま、あでやかな千代紙と菜の花の花束を持って、電車へと乗りこむ。小ぶりな花束が珍しいのか、その彩が目を引くのか、乗客のいくらかがキョウヤへと視線を寄こした。キョウヤは努めて、なんでもない顔をして車内の手すりにつかまった。 「どなたかへの贈りものかしら」  近くの席に腰かけていた女が、微笑んで声をかけてくる。「ええ。まあ、そうです」キョウヤが笑って返せば、ますます女は笑みを深くした。 「よろこんでいただけるといいわね」 「そうですね。僕からの贈りものではないのですが」 「あら、そうなの? では、妹さんからの贈りものかしら」 「妹?」  相変わらず、にこにことしている女を前に、キョウヤはわずか、眉をひそめた。キョウヤに、妹はいない。チヨコとは兄妹のようだと言われることは多々あるが、それはキョウヤとチヨコを知っている人物からだけである。見ず知らずの人間に言われたことはない。そもそも、どうして妹であるのか。千代紙と菜の花の花束が、幼い女子が作るものに見えたのだろうか。そうでなければ、 「チヨコは、元気でいるかしら」 「あなたは何者です」  にわか、キョウヤの声は低くなった。反して、女の表情は変わらない。それどころか、見おろすキョウヤの瞳を、ひたと見つめる。 「わたくしの顔をお忘れになられましたか、キョウヤお坊ちゃま」  呼ばれ慣れない、けれど、覚えのある呼び名だった。キョウヤは瞠目して、女を見る。一体どうして、ひと目で気がつかなかったのか。その顔に、キョウヤはたしかに見覚えがあった。 「トキワ、さん」  キョウヤは、ひどく困惑した。そんなはずはない。そんなことがあるはずはない。幾度も頭の中で、そう繰り返した。だのに、すぐそこの座席には存在しえない人物がいる。だって、なぜなら、彼女は、 「ツキハギ町――ツキハギ町です」  車内に、車掌の声が響く。はっとして、キョウヤは顔をあげた。遠目ではあるが、窓の向こうに通い慣れた探偵社が見える。  だが、はたして、このままここで下車していいのか。戸惑い、ためらい、キョウヤは視線を戻す。思わず、目をみはった。  キョウヤがつかまる手すりの、すぐかたわら。先刻まで、一人の女が座っていたはずの座席には、誰の姿もなかった。一秒とかかるか、かからないか。そんな一瞬。ただそれだけの間、キョウヤが目を離した隙に、女は忽然と消えていた。ぽかりと空いたその場所に、シロツメクサが一輪だけ、置き去りにされている。 「今、こちらにご婦人が座っていませんでしたか」  空席の隣に座っていた、見も知らぬ男へ問いかける。すると、男は妙な顔をして言うのだ。何を言っているんだ坊主、そこはもうずっと前から席が空いているだろう――  キョウヤは、すっかり狐につままれたような気分になって、電車を降りた。千代紙で包装された菜の花と、未だみずみずしいシロツメクサを手に、探偵社へと向かう。走りだした電車に追い抜かれる際、キョウヤは車内に目を凝らした。先ほどの男が、あくびをしている。その姿が見えただけで、女の座っていた席は空いたままになっていた。  探偵社の階段をのぼり、所長室へと入る。タバコのそれにまじって、コーヒーのにおいが鼻腔をくすぐった。 「モノベキョウヤ、ただいま到着しました」 「ご苦労だね」  所長室のソファーに腰かけたハルオミが言う。トシヒコは、そのかたわらでコーヒーを淹れていたようだった。手を止めるなり、部屋の柱時計を見る。 「定刻どおりだな」 「これまで、僕が遅れたことがあったかい」  キョウヤは平静を装って、軽口をたたいてみせた。薄く笑ったトシヒコが「いや、なかった」と、首を横に振る。 「それにしても、今日はいたく着飾っているようだが、何か祝いでもあったか」 「まさか。おチヨが園丁からもらった花さ。二人にも渡すよう頼まれていてね」  そう言って、キョウヤは両の手のひらに収まるほどの花束をふたつ、コーヒーカップの脇へと置いた。「おや」と、ハルオミが意外そうな声をもらす。 「僕にもかい?」 「もちろんですよ。チヨコは、あなたにだって懐いている」 「そうなのか。それならば、ありがたくちょうだいしなければならないな」  湯気の立つコーヒーをすすりながら、ハルオミはひょうひょうとした態度だった。菜の花をしげしげといったようすでながめ、トシヒコの名前を呼ぶ。 「たしか、僕の部屋にとっくりがあったろう。きみ、生けておいてくれないか。これだけ短くては、合う花瓶がないだろうから」 「わかりました」  トシヒコは顔色ひとつ変えず、花を手にして席を外した。その背を見送り、キョウヤはしばしの間、逡巡していた。ズボンのポケットに手を入れて、先ほど拾ったシロツメクサにふれる。おもむろに、ハルオミが言った。 「それで、きみは僕に、何か話すことがあるんじゃあないのかい」  シロツメクサをいじっていた手が止まった。 「何か、知っているのですか」 「いいや。僕はまだ(・・)何も知らない」  ハルオミは、ゆるくかぶりを振った。 「ただ、きみがこの部屋へと入ってきたときから、どうにも覚えがない異能の気配を感じるものでねえ」  そのポケットに入っているものを見せてくれないか。言外にうながされ、キョウヤはそれを取り出した。ハルオミの目が、すうっと細くなる。 「なるほど。精神感応(せいしんかんのう)から得た情報で、幻覚を見せている。催眠系の超異能力か」  花を指先でつまみ、ハルオミは呟くように言った。発動には何かしらの触媒を必要とするようだが、異能の痕跡を隠そうとしたようすはない―― 「それにしても、キョウヤ。きみもまた、ずいぶんな幻覚を見せられたものじゃあないか。トキワの人間とは」 「わかるのですか」  キョウヤはおどろいて、ハルオミを見た。超異能力者が力の痕跡を隠していなかったとはいえ、たったのひと目で、そこまでわかってしまうのか。キョウヤが見せられた、その幻覚さえまでも。  たちまち、ハルオミから心外だといわんばかりの声があがった。 「おいおい。僕を、きみたちと一緒にしないでおくれよ。感応能力の素質はあるほうだと、きみも知っているだろう」  そうは言うが、キョウヤにとってハルオミは未知なのである。ハルオミが、その超異能力で、どれほどのことを、どの程度までできるのか。それを、キョウヤは知らされてはいない。あくまで、ハルオミが実際に発動させた力を目にしてから、知ることしかないのだ。チヨコの言葉が、よみがえる。ハルオミはみえないの、みせてくれないの――  けれど、キョウヤが何かを言うよりも先、ハルオミは肩をすくめた。「まあいいさ」と、視線をシロツメクサへ戻す。 「力を隠すことを知らないのか、あるいは挑発か。いずれにせよ、今回の件は、きみとチヨコを狙っている可能性が高い」  なぜならば、相手は触媒なしに超異能力を使うことができない。それでいながら、相手は自らキョウヤに接触を試み、二人にとって忘れがたい人物の幻影を見せてきた。 「チヨコの超異能力は特に異質だ。悪用を考える者がいたとしても、不思議じゃあない。くれぐれも、気をつけてくれ」  一瞬、キョウヤは押し黙った。 「それは、隊長としての言葉ですか」 「そうだ。超異能力特務隊長、ノグチハルオミとしての」  ハルオミの声が、いつになく鋭さを帯びている。常の陽気さは、どこにもない。制服の襟につけた徽章が、ぐっと重みを増す。 「モノベキョウヤに命じる。これより、カザマトシヒコとともに、サガラチヨコの警護にあたれ。関与する超異能力者の身柄が確保されるまで、警護対象から離れてはならない」 「了解しました」  キョウヤにとっては、うなずくよりほかはない。同じ命を受けたトシヒコにもこれを伝えるべく、キョウヤはすぐにきびすを返した。けれど、そこでハルオミから呼び止められる。 「きみは、この花の花言葉を知っているかい」  花言葉といえば、それぞれの花に割り当てられた意味のことであっただろうか。道ゆく女学生が、そのような話をするのを聞いた覚えがあった。だが、キョウヤは男子である。女子が好みそうな、そういった類のことなどはとんと知らない。「いえ」短く答えて振り返れば、ハルオミは白い花を見つめたまま、「そうか」と呟いた。 「それなら、教えておいてあげよう」  先刻までの鋭さは失せ、その声は普段と変わらぬ調子だった。 「シロツメクサ、その花言葉のひとつは幸福。そして、もうひとつは復讐だ」  この花が触媒として選ばれた理由があるのかはわからない、けれども意味があるのだとしたらそこには大きな悪意があるかもしれない、きっとチヨコを守ってやっておくれ――  トキワは、チヨコがサガラ家へと引き取られる前にもっていた姓だ。電車でキョウヤが見た女の幻覚は、かつて焼け死んだチヨコの母親であった。それらを思うと、ハルオミが口にした復讐という言葉は、キョウヤに何か薄ら寒いものを感じさせる。胸ポケットの菜の花が、ひとひら、その黄色い花弁を散らした。  ハルオミからくだされた任務を説明するくだりで、キョウヤは自身とチヨコの過去をかいつまんでトシヒコに話した。常から淡々としており、情にほだされるようなことなどなさそうなトシヒコであったが、チヨコの過去には同情したのだろう。痛ましいといった顔をして、「そうだったのか」と、小さくこぼした。 「俺はカザマではなく、母様のもとで育てられた。幼くして母親の愛情を失うのは、さぞつらいことなのだろうな」  キョウヤは、面食らった。こんなふうにトシヒコが自らのことを語ることなど、これまではなかった。なぜならば、トシヒコは自分の素性を知られることを好まない。少なくとも、キョウヤはそう感じていたのだ。だのに、一体どうしてしまったというのか。思わずといった具合でトシヒコを見れば、キョウヤの心中を察したのだろう、トシヒコは薄い微笑を浮かべた。 「キョウヤ。俺は、おまえには話してもいいと、そう思っている」  おまえだって俺に話してくれたろう。そう言われてしまえば、キョウヤもそれ以上を追求する気にはなれない。トシヒコはキョウヤを見てから、ふと前を向いた。 「俺は、(めかけ)の子だ」  カザマ家は、古くは陰陽寮に属していた超異能力者の家系なのだと、トシヒコは言った。彼ら一族がいうには、超異能力は基本的には血によって受け継がれるものであるらしい。それゆえ、より強い力を求める家は、進んで超異能力者の血を取り入れる。カザマは、その最たる例だった。  当主は、めとる妻には身分と超異能力とを求めるが、同時に幾人もの妾を作る。無論、この際に妾となるのは異能を発現させた女であり、トシヒコの母親もまた、その一人であった。  妾となる女たちの多くは、貴賎(きせん)を問われない。生まれもった異能の精度や、特異さだけが重視される。辺境の村に生まれ育ったトシヒコの母親は、その特異な力を見込まれ、齢わずか十三でお手付きにされたのだという。先日、キョウヤがヨシキと会ったとき、父親にしてはいささかトシヒコと年が離れているように感じたが、そういった事情があったのだ。  生活に必要な金は、カザマ家から送られていたとしても、若くして母となった少女の苦労はいかほどのものであったのか。三年前、病によって他界したという話を聞いた限りでも、想像するに難くない。トシヒコの苦労もまた、同じである。言及こそしなかったが、トシヒコはカザマを快くは思っていないのだろう。語る表情は、苦みばしったものであった。  しかし、母親を亡くしたトシヒコが、カザマ家に引き取られることなく、ハルオミのもとへとやって来たのには、それとは別に理由があったという。母親の葬儀が終わったころ、トシヒコのもとを訪れた妙な帽子の男。ふかしてこそいなかったものの、きつくタバコのにおいを漂わせていた。やあ、はじめまして、僕は生前のお母上から、きみのことを頼まれている者なのだけれどね、きみ、聞いていないかい、ノグチハルオミというのだけれど―― 「ますます、あの人のことがわからないな」 「ハルオミさんのことか」 「ああ」  モノベ邸へ戻るための電車を待ちながら、キョウヤはうなずいた。「おチヨが言っていたんだ。ハルオミさんはみえない、みせてくれないのだと」  チヨコのその真意をキョウヤは知りえないが、たしかに、ハルオミは自身について多くを語ろうとはしない。問い詰めたところで嫌な顔はせずとも、のらりくらりとかわされるのである。それでありながら、ハルオミはキョウヤたちのことをよく――あるいは当人ら以上に、本当によく――知っているのだ。疑問は積もれど、減ることは決してない。 「あの人は俺たちとは違うからな。多様な“(ふだ)”を持っている」  トシヒコが淡々とした調子で言った。「おそらく、まだ俺たちの知らない“札”が多くあるはずだ」  この“札”というのは、超異能力の隠語である。特務隊への所属が決まってからは、外でたびたび使うようになった。これは、時折ハルオミがする札遊びにちなんだもので、性質が異なる超異能力を組み合わせて使うことを“(やく)”と呼び、チヨコやトシヒコがもつような固有の超異能力に関しては“鬼札ふだ(おにふだ)”という隠語が使われる。ちなみに、キョウヤはいくらか納得していないのだが、“(おや)”――隊長であるハルオミ――から、くだされる任務は“札遊(ふだあそ)び”と称される。 「知らされていない“役”も多いのだろうな。僕たちはすっかりあの人の“鬼札”を知ったつもりでいたけれど、もしかすると本当は別の」  そこまでキョウヤが言いかけたところで、路面電車特有の鐘の音がした。振り返れば、道の向こうから電車が走ってくる。電車が停車すると、トシヒコがつづりの乗車券を車掌に手渡した。 「二人分でお願いします」  自分の乗車券を取り出そうとしていたキョウヤは、おどろいて手を止めた。 「トシヒコ、僕は自分で」 「いや、これくらいはさせてくれ」  と、トシヒコが言う。「おまえは、俺が“鬼札”を使わずにすむようにしてくれた」  モノベ邸へとんぼ返りすることとなった際、ハルオミはトシヒコが盗んだ空間移動能力を使うようにと言った。けれど、キョウヤは首を縦には振らなかった。先日の騒動のとき、他人の超異能力を使ったトシヒコが身動きも取れぬほどに消耗していたことを、キョウヤはよく覚えていたのである。 「相手の実力は未知数です。トシヒコが欠けた状態で、チヨコを守り抜けるかはわからない」  キョウヤ、と。トシヒコは珍しく呆けたような声をこぼした。しかし、なおもキョウヤが、ここで戦力を削るのは得策ではないという考えを続けると、ハルオミはどこか――うれしそうな――そんな顔をしたのである。 「それなら、来たときと同じように電車を使ってくれ」  探偵社を後にする間際、ハルオミは言った。頼んだよ、キョウヤ――  チヨコの警護について頼まれたのか、それとも、別のことであったのか。キョウヤには、まるでわからない。ただ、キョウヤの言葉が、トシヒコの身を案じたものであったということは、当人にもハルオミにも、すっかり見透かされてしまっていたようだった。 「本当は、あの人の――チヨコのことが心配でたまらないんだろう」  電車の窓際に寄ったキョウヤの隣へと、トシヒコが並び立つ。キョウヤはふてくされながら、「そりゃあそうさ」と、窓の外を睨んだ。「けれど、おまえのことだって心配なんだ」 「“札遊び”のほうが重要だとは思わなかったのか」 「友や仲間をないがしろにする“札遊び”なんて願いさげだ」  吐き捨てるようにして、キョウヤは返す。くつくつと、トシヒコが喉で笑った。 「ああ、そうだ。そのとおりだな、キョウヤ。俺はおまえが友でいてくれて、心底よかったと、そう思う」  屈託のない笑みを浮かべたトシヒコが、みがかれた車窓に映っている。キョウヤは妙に照れくさくなって、そっぽを向いた。「お互い様だろ」  モノベ邸の最寄り駅が近くなる。キョウヤたちが乗降口へ向かおうとすると、ふいに、電車の速度があがった。キョウヤもトシヒコも、思わず、たたらを踏んだ。けれど、車掌も、ほかの乗客も、何事もなかったようなようすでたたずんでいる。それどころか、電車はさらに速度をあげて、ついにはキョウヤたちが降りる駅をとおりすぎてしまった。 「どういうことだ」  キョウヤは眉をひそめた。同じく怪訝な顔をしたトシヒコが、車掌へと駆け寄る。 「先ほどの駅で降りなければならなかったのですが」  ところが、車掌はトシヒコとキョウヤを見やって、至極不思議そうな顔をした。 「お客様、この辺りに駅はございません」 「次の駅は」 「もうしばらくはございません」  一つの可能性が、キョウヤの脳裏に浮かんだ。そしてそれは、トシヒコも同じであった。 「では、すぐ降ります。すぐ電車を止めてください」  反して、車掌は心底困ったというふうであった。「そういうわけにはまいりません」と、首を横に振る。トシヒコは、なおも説得を続けたが、車掌の態度は変わらない。「できない」の一点張りであった。 「だめだ」と、トシヒコが呟いた。「すっかりあちらの」  そのときであった。鈴を転がしたような、それでいてよく知った声が、キョウヤの耳を打った。 「キョウヤ」 「……おチヨ?」  いつの間にか、電車の中にはチヨコの姿があった。キョウヤは弾かれたようにチヨコへと駆け寄った。床に膝をつき、細い肩を両手でつかむ。 「おチヨ、きみ、どうしてこんなところに――そんな、一人で。家の者には、ちゃんと言ってあるのかい? ここまで、なんともなかったのかい?」  けれど、チヨコは答えない。どこか、うつろなまなざしをして、ぽつりと言う。 「キョウヤがいけないの」  肩をつかんでいた腕が、振り払われる。思いのほか、それは強い力だった。キョウヤの手が、宙をさまよう。 「おチヨ?」  唖然とするキョウヤを、しかして、チヨコは感情のない瞳で見つめた。キョウヤの手を、まるで避けるかのようにして、その身を引く。そうして、チヨコは言うのだ。 「ととさまも、かかさまも、みんなキョウヤのせいで死んだの。みんなみんな、キョウヤがいけないの」  キョウヤは、瞠目するよりほかなかった。暗く、よどんで、底の見えない(まなこ)が、キョウヤをとらえて放さない。いつしか、呼吸さえもが止まっていた。「だから」と、静かな声音のチヨコが言う。キョウヤは死ぬのよ、チヨコと一緒に、キョウヤはここで死ぬの――  大きく、電車が揺れた。いつにない速さで、窓の景色が流れてゆく。前方に、通常運行している別の電車が見えた。トシヒコが、舌打ちをする。 「まずい。このままだと衝突する」  伸ばされたトシヒコの手が、キョウヤの肩をつかんだ。 「キョウヤ、気をしっかりもて! それはチヨコじゃあない、そうだろう。俺たちはみんな、幻覚を見せられているだけだ!」  肩を強く揺さぶられ、キョウヤはふらついて床に手をついた。胸のポケットから、数枚の黄色い花弁が散り落ちる。ゆるりと、チヨコの目が動いた。「あなたは、邪魔」  細い指先が、トシヒコをとらえる。刹那、渦を巻いた異能の風がトシヒコへ襲いかかった。トシヒコは即座に顔の前で腕を交差させ、攻撃に耐えようとした。けれど、かまいたちと化したそれは、トシヒコの目と鼻の先で、不可視の力に相殺される。トシヒコではない。ほかの乗客でも、ましてや、チヨコでもない。キョウヤである。 「わかっているさ。チヨコじゃあないことくらい」  胸に咲く菜の花に手をそえ、キョウヤは言った。 「おチヨは言ったんだ。僕やトシヒコ、ハルオミさんと一緒にいられて、幸せだと――そう言って、この花をくれたんだ」  ぷんとした菜の花のにおいが、あどけなく無邪気な笑みが、軽やかに弾む声が、よみがえる。それらは、決して今キョウヤの前に立つチヨコの姿とは、重ならない。キョウヤはただ目を細め、目の前にたたずむチヨコの幻覚を抱きしめた。  この超異能力の使い手は、きっと相当な実力者であるのだろう。幻覚であるはずだというのに、それはたしかな質量とぬくもりをもっていた。ふとしたら、本物なのではないかとさえ思ってしまう。かすかに漂う土と草のかおりが、不思議とチヨコの生家を思い起こさせた。チヨコの幻影が、身じろぎをする。キョウヤは腕の力を強めた。 「トシヒコ。今のうちに、運転手を止めてくれ」 「わかっている」  キョウヤたちの脇をすり抜け、トシヒコが素早く運転席へと乗りこんでいく。もがき逃れようとするチヨコの肩に顔をうずめ、キョウヤは呟くように言った。 「おチヨは自分のことを、チヨコとは呼ばないんだ。亡くなったお母上の、カヨコという名を思い出すからと、決して自分の名前を最後まで口にしないんだ。夫妻がチヨコに遺せた、たったひとつの形見だというのに」  キョウヤの腕の中、見せかけのチヨコが動きを止めた。にわかに、異能の気配が薄れていく。ぬくもりが失われ、その姿は陽炎(かげろう)のように揺らいだ。ばらばらと、床に無数のシロツメクサが散らばる。同時に、電車が急停車した。シロツメクサの山が雪崩(なだ)れ、白い花の中から鮮やかな赤色が顔を見せる――  催眠が解け、正気に戻った乗員や乗客たちが騒ぎだしている。前方にある車両との衝突を、かろうじて回避した電車から、乗客が我先にと降りてゆく。落ち着くようにと車掌が声を張りあげる中、キョウヤは花に埋もれていたそれを拾いあげた。そうして、この事件の首謀者を悟ったのである。 「キョウヤ、俺たちも降りるぞ。チヨコが危ない」 「ああ」  かろうじて短く答え、キョウヤはトシヒコとともに電車を降りる。急ぎ道を戻りながら、キョウヤは歯を食いしばった。  静けさに満ちたモノベ邸の、整えられた庭園。うららかな日が差すそこで、一人の男が小さく背を丸め、土いじりをしている。いつでも、土と草花と、汗のにおいにまみれて、おだやかに微笑んでいた男。なぜだかはわからないが、不思議と場を和ませるような空気をもつ男だった。それは、キョウヤが男を信頼していたからなのか、それとも、男自身の人柄が成せるものだったのか。キョウヤにも、そして、おそらくは当の男本人にも、その答えなどわかりはしない。  けれど、今となっては、その背には何か暗く重いものを負っているように思える。キョウヤは、道中で幾度となく思った言葉を繰り返した。どうして、 「どうして、おまえなんだ。タキ」  投げかけた問いの向こう。園丁のタキは、振り返らない。キョウヤは、赤い千代紙で折られた花を握りしめた。花がひしゃげ、こぶしがきしむ。だのに、今はそのこぶしよりも、ずっと胸のあたりが痛くてたまらない。 「あんなに――あんなにも、チヨコをかわいがってくれていたじゃあないか」  草木を愛で、庭を整え、あるときには、チヨコの部屋に飾るためだけの花まで庭のすみで育てていた。キョウヤは、よく覚えている。チヨコが、まだモノベ邸に来て間もないころ。息せき切らしたタキが、汗も拭わず駆けてきて、そうっと、壊れものを扱うように手を開いたときのことを。その笑顔を。珍しい花の種が手に入ったんです、チヨコ様に見せてさしあげたいので庭の一角を使わせていただけたらと―― 「それはそうですよ」常と変わらぬ、園丁の声が返った。「あの人は、チヨコは俺の姪なんですから」 「姪?」トシヒコがいぶかる声を聞いてか、タキは振り返る。 「ええ、そうです。俺は数年前に死んだトキワカヨコ――旧姓、タキカヨコの弟です」  トシヒコは無論、キョウヤにとっても、その話は初耳であった。たまゆら、言葉をなくしてタキを見つめる。一方で、タキは場にそぐわぬような笑みを顔にたたえている。いっそ、背筋が薄ら寒くなるほどに、おだやかな笑みであった。 「覚えてらっしゃいますか」と、タキが首を傾ける。「六年前の二月十四日。例年どおりであれば、俺の故郷が一面の銀世界になるころのことです」  忘れるはずもない。タキが言うのは、チヨコが生まれた日であり、キョウヤがトキワカヨコと初めて出会った日でもあった。 「あの日、キョウヤ様は道端で産気づいた姉を、ご自分が乗ってらした馬車に乗せてくださったそうじゃないですか。キョウヤ様がいなかったら、姉さんはおろか、チヨコだって無事に生まれてはいなかった」  そうでしょう、と。タキは笑う。日だまりの中にたたずみ、ひとつひとつ、言葉をかみしめるように口にする。俺はね、と。ずっと感謝していたんですよ、と。家を飛び出して以来、姉とはすっかり顔を合わせられなくなっていましたから、と。キョウヤ様が姉さんやチヨコの話を聞かせてくださったときは泣きたいくらいでしたよ、と。 「なのに」  くしゃりと、タキの顔が歪んだ。 「なんでなんです。どうしてなんです。どうして、あなたたちが姉さんたちを殺してしまうんです?」 「タキ」 「俺はもう、苦しくて苦しくて、たまらなかった。キョウヤ様は姉さんの恩人で、チヨコは姉さんの娘だっていうのに」  今にも、泣きだしそうな顔だった。声が、ふるえていた。 「サガラにチヨコが引き取られて、ここへ来たときだってそうでした。俺は、チヨコと血のつながった親族です。それなのに、叔父であると告げることも叶わない。だって、そうでしょう? 華族(かぞく)が庶民の子を養子に取ったなんて話、聞いたことがない。帝国議会が裏で手を回してるとしか思えなかった」  そして、それは事実であった。超異能力の存在を秘匿すべく、事件の真相を闇へと葬り、チヨコの身分までをも、ねつ造してのけた。 「帝国議会が、貴族院の連中が悪いのだと、そう思おうとしました。でも、キョウヤ様、あなたは帝国の(いぬ)になってしまった」  超異能力特務隊だなんて、そんなものに属して、姉さんを殺した忌々しい力を、大義名分のもとに振りかざせるようにまでなってしまった―― 「それで、キョウヤの命を狙ったのか」  トシヒコが言えば、タキは「いいえ」と、首を横に振った。 「キョウヤ様だけではありませんよ」  タキの顔に、ほの暗い笑みが浮かぶ。 「姉さんのところへ送るのなら、キョウヤ様だけじゃあ足りないでしょう」 「まさか、おまえ」  トシヒコが、気色ばんだ。瞬く間にタキとの距離を詰め、懐から短刀を抜き放つ。陽光を照り返し、目をくらませるような閃光がひらめいた。 「待ってくれ、トシヒコ!」  声をあげたキョウヤを、トシヒコの視線が一瞥する。しかし、タキは微動だにするそぶりもなかった。喉もとに刃を突きつけられてもなお、その表情はおそれを映さない。キョウヤはトシヒコを手で制して、タキを見据えた。 「タキ。おまえ、チヨコを手にかけようとしたのか」 「ええ」静かな声で、タキが答えた。「眠るように息を引き取る、そういう毒を仕込みました」 「チヨコは、死んだのか」 「ええ」タキは目をつむり、ふてぶてしく繰り返した。「死にましたよ。眠るように」  トシヒコの握る短刀の切っ先が、わずか、ふるえた。薄く切れた皮膚の下から、赤い血がにじむ。キョウヤは、けれど、トシヒコの腕をつかんだ。 「トシヒコ、頼む。それをおろしてくれ」 「だが、こいつは」 「頼む」  まっすぐに、トシヒコの目を見つめて懇願する。しばしの沈黙をおき、トシヒコは乱暴に腕をおろした。逆手に持った短刀の柄を、きつく握る。腑に落ちない。全身でそう表していた。キョウヤはタキに向き直ると、その名前を呼んだ。 「タキ。おまえ、嘘をついているね」  一瞬、タキは呆けたような顔をした。かと思えば、次には鼻でせせら笑う。 「何を根拠に。それとも、願望か何かですか」 「それは、おまえのほうだろう」キョウヤは首を振り、タキを見つめた。「おまえ、チヨコを殺そうとして、でも、できなかったのだろう?」  殺したいほどに憎い姉の仇。けれど、それと同時に、タキにとってのチヨコは姪であり、姉の忘れ形見でもある。殺すことができなくとも無理はない。 「きっと、気づいてはいないのだろうけれどね、おまえは嘘をつくとき、目をつむる癖があるんだ」  覚えているかい、おまえがこっそり育てていた花畑をおチヨに見つけられてしまったとき、おまえ、ずっと目をつむっていたんだ、まったくいつの間に咲いたんでしょうね、俺にはさっぱりですよと――  長らく、タキは目を丸くしていた。毒気を抜かれたような、まっさらな顔だった。どこか、あどけなささえ感じさせる。無防備に開かれていた唇から、吐息がこぼれた。 「それだけ、ですか。たった、それだけ」 「いいや」と、キョウヤはかぶりを振る。「それが、おまえの癖だと言う根拠なら、ほかにもある。おまえは、うちに仕えて長いからね」  とたん、タキが笑いだす。たまらず、といったようすであった。 「敵いませんね。キョウヤ様はチヨコと違って精神感応の素質が低いと踏んでいたんですが、それ以上に、人をよく見ていらっしゃった」  伏し目がちに自嘲の笑みを浮かべながら、タキは言った。 「ええ、そうです。すべて、キョウヤ様のおっしゃるとおりです。俺には、チヨコを殺せなかった」  二匹でたわむれる蝶に目を奪われていたチヨコのかたわらで、タキは器に茶を注いだ。そうして、隠し持っていた毒を流し入れようとしたとき、チヨコは振り返ることもなく言ったのだ。短い間だったけれど、チヨは幸せだったの、だから、なんにも気にしなくていいのよ―― 「チヨコは、俺のことに気づいていたんです。いつからか、俺の存在に気づいて、ここしばらくは、殺される覚悟をもって庭へ出てきていたんです」  笑うタキの声は、しかして、涙にぬれていた。 「そのうえ、チヨコが自分の名前を呼べない理由まで聞かされて、一体どうして、あの子を殺せるっていうんです? あんなに無邪気に笑っていながら、本当はずっとひとりで苦しんでいたなんて。そんなこと、俺は知りもしなかったのに」  事件は、キョウヤたちがモノベ邸へ着くころには、もうすでに終わりへと向かっていたのである。    ※  事件の解決とともに、園丁のタキはモノベ邸から姿を消した。トシヒコから聞いた話では、現在その身柄は帝国議会によって拘束されており、近々、何らかの処罰がくだされるようであった。主には、超異能力によって電車を暴走させた件を咎められるのだろう。今回の事件で死傷者などは出ていないが、タキは処罰を受けることに抵抗するようなそぶりは一切ないという。  キョウヤは思う。おそらく、タキは、キョウヤやチヨコを殺そうとした自分を、許すことができなかったのだろう。だからこそ、チヨコを殺したなどと、うそぶいたのだ。キョウヤたちが自分を殺し、裁いてくれるようにと。事実、トシヒコは、半ばタキを殺すつもりでいたはずだ。  けれど、キョウヤは思うのだ。それは、とても悲しいことだと。  超異能力の存在などは知らずとも、タキには明日を誓い合った妻がいて、チヨコという姪もいる。園丁のころにみせていたおだやかな性格を思えば、友人だって多くいるに違いない。帝国議会によって、その死がいかに隠蔽されようと、タキがこの世を去れば、それを嘆き悲しむ者は必ずいる。そして、それは人々の胸に深い傷をつけ、癒えてもなお消えぬしこりを残す――タキ自身が、そうであったように。例え、当人が自らの死をどう思おうとも、それは変えがたいことなのだ。 「おチヨ」  世話をしてくれる者を失った庭園に、ぽつりとしゃがみこんだ小さな背中へと声をかける。タキがいなくなってからというもの、チヨコは見よう見まねで庭の植物を世話するようになった。無論、チヨコの知識や技術、体力では庭園を維持することなどできはしないのだが、体調が許す限り、毎日のように庭の草木に水をやっている。  土まみれの手で汗をぬぐいながら、チヨコが振り返った。まばゆい日差しにきらめく緑の中、不思議そうな顔をして、たたずんでいる。 「もう、こんなことはないようにしておくれよ」  タキは言っていた。チヨコは殺される覚悟をもって庭へ出ていたのだと。それを聞いたとき、キョウヤはどれほど肝を冷やしたことだろう。もとより身体が弱く、チヨコはキョウヤよりも、ずっと死を身近に感じているのかもしれない。それだからこそ、タキが殺意をもって近づいてきても、チヨコは逃げようとしなかったのかもしれない。いずれにせよ、生きている以上、死は避けることのできないものだ。けれど、だけれど、 「僕は、おチヨがいなくなるのは嫌なんだ」  今の生活だけに満足せず、もっとたくさんの幸せを感じてほしい。もっと、さまざまなことを経験し、泣いて、笑って、生き抜いてほしい。そうして、できることなら、もっと自分と同じ時間を過ごしてほしい。  目を伏せて、か細く胸のうちを吐露(とろ)するキョウヤを、チヨコは、はたしてどう思ったのだろう。泥だらけになったチヨコが、キョウヤの前に立つ。そっと伸ばされた手は、しかし、すぐに引っこめられてしまった。 「ごめんなさい」  泣きそうな声で、チヨコが呟く。うつむいて声をふるわせる姿は、本当に小さく、儚げだった。たまらず、キョウヤはチヨコをかき抱く。一度はふれることをためらったチヨコも、今度はキョウヤの服にしがみついた。そうして、チヨコは涙ながらに「ごめんなさい」と繰り返す。答える代わりに、キョウヤはふるえるチヨコの身体を、ただただ、きつく抱きしめた。あるいは、タキが思い留まっていなければ、今、キョウヤの腕の中にチヨコはいない。そう思うと、ぞっとしてたまらなかった。  結論からいえば、キョウヤの選択は任務を果たすうえでは悪手であった。トシヒコの異能で瞬時にモノベ邸へと移動していれば、電車が暴走することはなかったであろうし、タキがチヨコと接触することさえ避けられたかもしれない。しかし、ハルオミがこれを責めることはなかった。それどころか、これでよかったのだと、そう笑っていた。これが、もっとも望ましい結末であったのだと。  ふいに、門のほうが騒がしくなる。近づいてくる足音にキョウヤが顔をあげると、人影が一つ、歩いてくる。それはトシヒコで、キョウヤと目が合うなり目配せをよこしてきた。さらに、トシヒコの後ろにはもう二つの影が見える。キョウヤはチヨコの肩を揺すり、後ろを見るようにうながした。そうして、振り返ったチヨコの目は、大きく見開かれる。 「タキさん!」  ぱっと駆けだしたチヨコを、ひとつの人影が、タキが抱きとめる。 「ああ」と、タキはうめくように声をもらした。「こんなに泥だらけになってしまわれて。俺がいない間、庭の面倒を見てくださっていたというのは、本当だったんですね」 「だって」と、チヨコは泣きじゃくった。「タキさんのお庭だもの。チヨの、大好きなお庭だもの」  タキが、目頭を押さえる。「ありがとうございます、チヨコ様」  ひしと抱き合う二人を見つめ、キョウヤは目を細める。すると、もう一つの影が紫煙をくゆらせて、かたわらに立った。 「残念だったなあ、キョウヤ。きみのかわいいおチヨは、タキに取られてしまったようだ」  そう茶化すハルオミを、けれども、キョウヤは振り返らない。隣に並ぶトシヒコの気配を感じながら、言った。 「タキのことで、ハルオミさんが口添えをしてくれたと」 「トシヒコから聞いたのか」  たまゆら、ハルオミの目がトシヒコへと向いたが、トシヒコは素知らぬ顔をしている。こういうときのトシヒコは、頑として口を割らない。ハルオミも、それは重々に承知しているのであろう。軽く肩をすくめて、視線を戻した。 「なに、大したことは言っちゃあいない」 「これから、タキはどうなるのです?」 「悪いようにはならないさ――そら、タキの襟もとをよく見てみるといい」  あごでうながされ、キョウヤはチヨコと抱き合うタキの襟を見る。そして、そこに陽光を照り返してかがやく徽章があることに気づいた。「あれは」と、声がこぼれる。 「だから言ったろう? これが、もっとも望ましい結末だったのさ」  くつくつと、ハルオミが満足そうに喉を鳴らす。それは一体、誰にとって、もっとも望ましい結末であったのだろうか。ふと、キョウヤは口を開いた。 「あなたは、チヨコをどう思っているんです」  急なキョウヤの問いかけに、しかし、ハルオミが動じたようすはなかった。ゆったりと、タバコの煙を吐き出す。 「なんだい、やぶからぼうに」 「チヨコは、あなたから線を引かれていると思っています。嫌われているのではないかと、そう言っていた」  もとより、ハルオミはチヨコを監視する立場でもある。いつだって、ハルオミはチヨコを救ってくれてはいたが、思い返せば、彼の個人らしい感情を聞いたことはなかった。 「嫌ってはいないさ。厄介だとは思うけれどね」  返ったのは曖昧な答えではあったが、チヨコとタキを見つめるハルオミのまなざしは、ひどくおだやかであるように思う。 「いつまでも、ああしていてほしいものだよ」  ぽつりと呟かれた言葉は、どうしてか、ひどく耳に残った。
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