大正二十七年、二月某日。

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大正二十七年、二月某日。

 ベッドに広げた千代紙を、チヨコが熱心に折りこんでいる。白く細い指先が折りあげるのは、一見して何をかたどっているのかわからない代物であった。強いていうのであれば、矢羽のように見えなくもないのだが、キョウヤはこんな奇妙な折り紙を知らない。チヨコの膝の上に、いくつものせられたそれらを見つめ、静かに部屋のドアを閉めた。 「今日は何を作っているんだい」  椅子に腰かけて問いかければ、今日は幾分か顔色の良いチヨコがあどけなく笑う。 「チヨの好きなお花」 「おチヨの好きな花?」  けれど、チヨコの折っているそれらは、とても花のカタチをしているようには見えない。まじまじとキョウヤが見つめる先で、チヨコの指がひとつ、ふたつと折り紙をつまみあげた。そして、五つほどを空いた手のひらの上へ置いたかと思うと、それらを放射状に並べてゆく。 「これは、そうか。桜だったのか」  白い手に咲いた五弁の花を見て言えば、チヨコは満足そうにうなずいた。普段、花を好んで折るチヨコにしては珍しいものを作っていると思ったのだが、どうやら常と変わらないらしい。キョウヤは、ひっそりと笑った。  未だ折られていない数枚の千代紙をふくめ、これらはキョウヤと友人のトシヒコとでチヨコの誕生日に合わせて贈ったものだった。自分の名前とよく似た、色とりどりのそれをチヨコが欲しがるようになったのは、ちょうど昨年の今ごろ。ハルオミの客人が忘れていった千代紙を目にしてからだった。  もっとも、キョウヤはチヨコの口から「これが欲しい」と、直接ねだられたわけではない。ただ、チヨコのまなざしが、あんまり熱心に、きらきらとして、千代紙へと向けられていたものだから、ひどく印象に残った。折り紙であれば、齢五つを数えたばかりのチヨコでも、ひとりで遊ぶことができる。ベッドの上で過ごすことの多いチヨコにとっては、ちょうどいい暇つぶしになるだろうと思ったのだ。  初めこそ、「もったいないから」と言って、ながめるだけだったチヨコも、このところは毎日のように紙を折っている。以前、どういう心境の変化かと問うたところ、新聞の切れ端で折った花が、あまりきれいに思えなかったからだという答えが返った。黒いインキで印字されただけの新聞では、目にあでやかな花を折れるはずもないのだけれど、苦労して折った分、チヨコはこれが残念でならなかったのだろう。色鮮やかな千代紙で折ったのなら、きっとうつくしい花になると考え、大切にしまっていたそれらを小さなつづらから取り出した――かくして、チヨコはこの紙の花のとりことなったのである。  枕もとに置かれたつづらの中に入っているだろう紙の花々を思いながら、キョウヤは膝に頬杖をつく。黙々と、また別の花を折り始めたチヨコを、おだやかな気持ちで見つめる。 「おチヨ、もうじきに誕生日だろう。今年は何をあげようか」  キョウヤは言った。今年から、おチヨも尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)へ通うようになるだろ、節目のお祝いも兼ねて少し奮発したっていいんだよ――  紙を折っていたチヨコの手が、止まる。 「……チヨ、自転車が欲しいな」 「自転車だって?」  キョウヤは思わず、声をひっくり返した。 「あれはいくら安くたって、五十円はするじゃあないか」  五十円といったら、たしか、帝国大学を卒業したような大人が、ひと月かけて稼ぐくらいの金額だ。キョウヤやトシヒコのような、中学生の持ち合わせで買える代物ではない。  このご時世、名家であるからといって、金銭的な余裕があるとは限らないのだ。モノベ家は違うけれど、家の体裁を守るため、借財(しゃくざい)まみれになるところも少なくはない。  サガラ家に養女として引き取られ、モノベの屋敷で世話になっているチヨコとて、そこは理解しているのだろう。金のことを考えるなんてはしたないと言われるものだけれど、チヨコはもともとが令嬢であったわけでもない。いたたまれなさにか、肩をちぢこめてうつむいた。「だって」と、口をもごもごさせる。 「チヨは走れないんだもの。自転車に乗ったら、誰でも、うんと速く走れるのでしょ」 「それはそうだけれど」  眉間に指を押し当て、キョウヤはうなった。たしかに、身体が弱いばっかりに、ろくに外へも行かれないチヨコからしたのなら、自転車というものは、とても魅力的であるかもしれない。乗りものといえど、あれは自分の足でこぐ必要があるし、身体全体で風を感じることもできる。チヨコが移動するときに使っている車とは、てんで違うのだ。幼児用の三輪車ならば、あるいはといったところだが、走る速さはうんと遅くなってしまう。  誰の力も借りず、自分一人の力で物事を成し遂げたい。きっと、チヨコはそう思っているのだろう。名家の生まれならばともかくとして、出生が異なるチヨコの願いは、もっともなことだ。積極的に社会へと出て働く職業婦人(しょくぎょうふじん)というものも、今やそう珍しくはない。時代の流れなのだ。  けれども、それとこれとは、また別の問題になってくる。奮発してもいいとは言ったけれど、限度というものがあるし、何より――  チヨコを諭そうと、キョウヤは口を開いた。 「いいかい、おチヨ。きみだって、ちゃあんと一人の力でやっているんだ。食事をしたり、薬を飲んだりするのは、みんな、きみ自身の力だ。ほかの誰の力でもない」  そうだろう、と返事をうながす。そうやって命を絶やさないということは、走るなんてことよりも、よっぽどチヨコにとって価値あることだ。熱でもだそうものなら、チヨコの命は風前のともしびも同然。キョウヤだって生きている心地がしなくなる。しかし、チヨコの表情はかたくなだった。 「でも、誰だってそれくらいしてる」  ふるえる唇から紡がれた言葉に、キョウヤは首をかしげた。たまゆら、チヨコは何を言っているのだろうと考えた。「誰だって、って」と、ひとつ瞬きをする。 「そりゃあきみ、当然だろう。そうしたら、走ることだって同じじゃあないか」  すると、チヨコはか細く言った。 「違うよ」 「違わないさ」  かんでふくめるように、キョウヤは返した。 「走るということは、何もそんなに特別なことじゃあない」  自転車に乗っていようといなかろうと、走ることくらい誰だってしている。チヨコだって、いつも窓から見ているはずだ。新聞配達のシュウジなんて、走っていないほうが珍しいほどである。  だのに、なおもチヨコはかぶりを振った。違う違うのだと、まるで泣いているような声だった。 「おチヨ?」いよいよ、キョウヤも何かがおかしいと思い始めた。「一体、何が違うって」  問おうとしたキョウヤの周囲で、ふいに力の乱れが発生する。チヨコだった。 「キョウヤには、わからない!」  サイドテーブルの上で、花瓶が割れた。ガタガタと、部屋の調度品が小刻みに揺れる。チヨコから発せられる感情が、荒波のようにのたうつ。 「だめだ、おチヨ! 落ち着くんだ!」  キョウヤが立ちあがって叫んだとたん、突風が吹いた。臙脂(えんじ)のカーテンが、大きくひるがえる。異能(いのう)の力が、チヨコの感情と同調して荒れ狂う。キョウヤはとっさに眼前へと手をかざし、不可視の力で壁を作った。目には見えない風の刃が、部屋の壁を走り、カーテンを切り裂く。事象の中心にいるチヨコは、苦しそうに背を丸めた。自らの身体をかき抱いた両の指先はより白く、血の気が失せるほどに力がこめられている。  おチヨ、と。もう一度、その名前を呼ぼうと口を開きかける。キョウヤの視界に、影が落ちた。忽然と現れた男が一人、キョウヤとチヨコとの間に立っている。火のついたタバコをくわえたそれは、キョウヤもよく知る人物だった。 「ハルオミさん」  キョウヤが助手をしている探偵社の所長であり、姓はノグチ。ひょうひょうとしていて、神出鬼没な男であるが、後者に関しては彼がもつ超異能力(ちょういのうりき)に由来する。瞬間移動とでも呼べばいいのか。瞬時に離れた場所へ移動する異能を得意とするハルオミは、こうして、前ぶれもなくキョウヤの前に現れることがたびたびあった。 「おチヨを、チヨコを止めてやってください。このままじゃあ、チヨコが死んでしまう」 「わかってるさ。そのために、遥々フルーツパーラーから飛んできたんだ」  タバコをふかしながら、ハルオミは言った。「今ごろ、トシヒコの奴があわてて勘定をすませているだろうよ」  緊張感のかけらもなく、くつくつと喉で笑う。そのとき、ハルオミのくわえていたタバコの先端が、風に切り落とされた。赤いビロードの絨毯に火が落ちる。瞬く間に、絨毯よりも鮮烈な炎が燃え広がった。肌を焦がすような熱気と、なにかの焼ける臭いが、部屋に充満する。チヨコの、息をのむ気配がした。風の勢いが、弱くなる。 「サガラチヨコ」  火の海にたたずむハルオミの声が、静かにチヨコの名を呼んだ。怯えるように、チヨコの肩がはねる。けれど、目深にかぶった「チューリップ帽」なる奇妙な帽子の下、のぞくハルオミの双眸はただただ無感動だった。 「きみは、また、繰り返してしまったようだね」  ひと言、ひと言、言いふくめるようにして、ハルオミは言葉を紡ぐ。なぶるような熱風にあおられる髪や羽織りなど、まるで気にもとまらないといった風体で、そのまなざしはチヨコだけをとらえている。  いつしか、部屋を成していた壁や天井は姿を消していた。炎の中には、ベッドに座るチヨコと、相対するハルオミ、そして、キョウヤの姿しかない。チヨコの細い肩が、浅い呼吸を繰り返す。ふつふつと瞳に浮かびあがってくるのは、深い恐怖と、 「ハルオミさん――」  それ以上はやめてやってほしい。ハルオミの背に懇願しかけたキョウヤを、けれど、肩をつかんで止める手があった。友人の、カザマトシヒコだった。  フルーツパーラーから、ハルオミを追いかけてきたのだろう。トシヒコは肩で息をしながら、鋭くキョウヤを見つめ、かぶりを振る。チヨコを止めたいんだろう。言外に諭され、キョウヤはこぶしを握った。はたして、ハルオミは続けた。 「今度は一体、どれだけを焼き殺せば気がすむんだい?」  ちがう。青ざめたチヨコの唇が、かすかに動いた。チヨは何もしてない――  胸をあえがせるチヨコの目は、もはや焦点も合わない。うつろなまなざしに、キョウヤは息が詰まる思いだった。支えきることさえ困難となった身体が、ベッドに崩れ落ちる。ふつりと、吹き荒れていた風がやんだ。それに続いて、キョウヤの視界を覆っていた炎もまた、音もなく消え去る。先ほどまでの光景が、まるで夢であったかのように、あとには熱気ひとつとして残らない。モノベ邸にあるチヨコの部屋には、割れた花瓶と、切り刻まれたカーテン、そして、絨毯を小さく焦がしたタバコの先端だけが残っていた。  平民の生まれであり、サガラ家の養女として引き取られたチヨコが、今このモノベ邸にて暮らしているのには、やむにやまれぬ事情がある。そのひとつが、今回チヨコが起こした超異能力の暴走であった。  別に、チヨコだけに限った話ではないのだが、彼女には常人がもちえない異能の力がある。それは、自分とは異なるさまざまな存在と心を通わせることで、その相手の力を「借りる」というものであった。鳥と通い合えば翼を得て、魚と通い合えばひれを得る。さらには、異能をもつ者と通い合えば、その異能の力さえをも得てしまう。幼くして、この異能を発現させたチヨコは、力の扱い方を知らなかった。ましてや、生まれつき身体の弱かった彼女は、自身で力を抑えることが困難であった。それでありながら、チヨコはそうと知らず、他の異能をもつ者と通い合ってしまった――  チヨコの生家が、火事で焼け落ちたのは、彼女が三つになった年のこと。そしてこの際、偶然にも居合わせていたハルオミの調べで、チヨコが異能をもっていると判明したのである。  しかしながら、異能の力というものは一般大衆には知らされておらず、チヨコのように自らの異能を制御できない存在は危険極まりなかった。そこで帝国議会(ていこくぎかい)は、異能の存在を知るサガラ家の養女としてチヨコを迎え入れ、同じく異能をもって生まれたキョウヤを抱えるモノベの家へと託した。幸い、モノベ邸は帝都トウキョウにあり、ハルオミがいる探偵社もまた近くにある。もともと、幼い超異能力者(ちょういのうりきしゃ)の指導をしていたハルオミは、帝国からの要請により、チヨコの監視もするようになった。  ハルオミはしばし、ベッドに寝かせたチヨコをぼんやりと見つめていた。どこか、思案しているようにも見える。しかし、だからといって何を言うわけでもなかった。キョウヤとトシヒコをともなって部屋を出れば、短くなったタバコをくわえたまま、手で懐をさぐる。新しいタバコをさがしているのだろう。彼はずいぶんな愛煙家であるから、助手なんてものをしていれば、そんな仕草は日に何度も見る。すかさず、キョウヤは口を開いた。「タバコなら、バルコニイでお願いします」  振り返ったハルオミは、不満げに鼻を鳴らした。 「いいじゃあないか。チヨコの命を救ってやったろう」 「父はタバコの煙を嫌います。ご存知でしょう」 「まったく、モノベの連中は口うるさいなあ」  しらけたといわんばかりのようすで、ハルオミが肩をすくめる。キョウヤとトシヒコの、ため息が重なった。 「それにしたって」と、トシヒコの目がいぶかしむようにキョウヤへとうつる。「一体、何があったんだ。ここのところは落ち着いていただろう」  改めてチヨコのことを問われ、キョウヤ自身もまた困惑した。正直、キョウヤにもわからないのだ。今日は朝から悪夢にうなされていたようすなどはなく、身体の調子だって良かった。チヨコがこんな風に、会話の途中で超異能力を暴走させるなど、初めてのことだった。まるで、癇癪でも起こしたかのようだと、そう思う。 「それなのだけれど」  ためらいがちに言いかけたところで「ああ!」と、ハルオミが大きな声をあげた。何事かと振り向けば、にんまりとした笑みがある。 「きみたち、ちょいと、ひとっ走りしてきてくれないか。タバコを切らしてしまったようでね」  正直にいうのならば、とてもそんなことをしている気分ではなかった。超異能力を暴走させてしまったチヨコのことが、何より気がかりでならなかった。だが、探偵助手である手前、キョウヤとトシヒコにはこれを断ることもできない。  結局、ハルオミに言いつけられるがまま、キョウヤはトシヒコとともに屋敷を出た。タバコ屋へと向かう道すがら、キョウヤはチヨコとのことをトシヒコに話す。隣を歩くトシヒコは、しばらく、気のないような相づちを打って話を聞いていたが、キョウヤの話が終わるや否や、短くこう言った。 「それは、おまえが悪い」 「どうして」 「キョウヤは、チヨコの気持ちがわかっていない。俺たちにとって当たり前のことも、チヨコにとっては当たり前じゃあないんだ」  切れ長の目に、わずか非難めいた色をにじませて、トシヒコは言った。 「赤ん坊のころ、おまえは生きるために乳を飲むことくらいはできていただろうが、走ることはできなかったろう。でも、今はできる。それは何かのきっかけで、キョウヤが走ることを知って、自分も走りたいと望んだからだ」  チヨコも同じなのだと、トシヒコは続ける。走ることを知って走りたいと思ったんだ、できないことをできるようになりたいとただそう望んでいる、背伸びをしたいだけなんだ――  つまり、チヨコがひどく感情を乱したのは、自転車が手に入らないからではない。キョウヤが、チヨコにはできないことを「誰にでもできること」と、ひとくくりにしたからだというのだ。 「けれど、おチヨは誰だってと言ったんだ」 「ほとんど屋敷から出られないチヨコが、一般大衆のことを語れると思うのか」  チヨコは手に入らないものを望んで、聞き分けのない駄々をこねるような娘ではない。むしろ、自分の望みをひた隠しにしてでも、他を優先しようとする節さえある。トシヒコの言うとおりであるというのならば、なるほど、キョウヤも合点がいく。  そうこうしているうちに、最寄りのタバコ屋へと着いた。日にきらきらと光るガラスケースへ歩み寄り、トシヒコは陳列されているタバコの銘柄を確認する。 「シルバーバレットを二箱」  店の看板娘であるハナコに声をかけると、その断髪(だんぱつ)がおどった。 「あら、探偵さんとこの」 「いつもお世話になっています」 「いやあね、それはこっちの台詞だわ。うちは探偵さんのおかげでどうにかなってるようなものだもの」  ころころと笑うハナコに愛想もなく会釈だけを返し、トシヒコはてきぱきと勘定をすませていく。ハナコも慣れた手つきで二箱のタバコを出すと、頬杖をついた。 「安くもないのに、こんな風変わりなタバコをたくさん買ってくださるのは、探偵さんくらいよ」 「そうでしょうね」  静かに応じながら、トシヒコがタバコの箱を受け取る。ふと、キョウヤはトシヒコがこの銘柄のタバコをいっとう嫌っていたのを思い出した。以前、このタバコのにおいは特に鼻がもげそうだと、そうこぼしていたことがある。探偵社に住みこみで働いているというのに、トシヒコはいつまで経っても、このにおいに慣れない。 「今度は三人でいらしてよ。探偵さん、近ごろはちっとも顔を見せにきてくれないのだもの」  頬をふくらませ、むくれてみせるハナコには「伝えておきます」と返事をして、モノベ邸への道を引き返す。「きっとよ」念を押すハナコの声を背に、キョウヤもトシヒコも黙ったままだった。  途中、先を歩いていたトシヒコが人気のない路地へと入りこんだ。誰にも聞かれず話をしたいのだろう。そう見当をつけて、キョウヤもあとに続けば、すぐにトシヒコの足が止まった。 「それでおまえ、どうして金がないからと言ってやらなかったんだ」  キョウヤと向かい合ったトシヒコの口から出てきたのは、案の定、チヨコの話だった。 「大体、幼児用の三輪車ならばともかく、チヨコに自転車はまだ早い。あれを走らせるのには、それなりの力と練習がいるぞ」 「そんなことを言ったら、おチヨをがっかりさせてしまうだろ」 「がっかりさせるのと、チヨコの身体に負担をかけるのと、どっちがいいんだ」  思わず、言葉に詰まった。トシヒコの言い分は、もっともであった。こんなことになるのなら、変にはぐらかさず、きちんと言ってやればよかったのだ。そうしていたら、チヨコだって、きっとわかってくれるはずだった。  だけれど、キョウヤの胸のうちには、苦みばしった気持ちが広がる。気に入らないと、おもしろくないと、そう思う。 「僕のほうが、おチヨのそばにいるのに」 「それなら、おまえもチヨコと同じだ」  トシヒコが、かすかに口の端をつりあげた。 「背伸びをしたいんだろ」  ますます、おもしろくない。キョウヤは、トシヒコの手からタバコの箱をひとつ奪った。引き抜いた一本を口にくわえる。明らかに迷惑そうな顔をしたトシヒコへ箱を投げ渡すと、キョウヤはタバコの先端を両手で覆った。隠した右手の指先に異能の火をともして、タバコの煙を吸いこむ。そうして、キョウヤはむせた。 「馬鹿だな」  呆れたようすのトシヒコが、キョウヤの手からタバコを取りあげた。 「タバコの煙は口で楽しむんだ。肺にまで入れるようなものじゃあない」 「吸ったこともないくせに」 「俺は吸わないが、ハルオミさんがいつも吸っている。吸い方くらい嫌でも覚えるさ」  しゃあしゃあと言い、キョウヤから奪ったタバコを手の中で燃やす。甘いような苦いような、タバコ独特のにおいが煙となって、辺りに立ちこめた。くらくらとする頭を振る。 「ハルオミさんも、酔狂な人だ。そんなものの何が良いのか、僕にはわからない」 「それには同意しておく」  今にも鼻をつまみそうなトシヒコのしかめっつらを見て、キョウヤは少しだけ、気分が晴れたような気がした。空気のよどんだ道で話していたせいだろう。まとわりついて離れない煙を、トシヒコが手で払っている。ここにトシヒコをおいて、先に屋敷へ戻ってやろうか。キョウヤが足を踏みだすと、けれど、なおもトシヒコが言った。 「ただ、おまえは勘違いをしている」 「僕が?」返す声に、今度は少しの苛立ちがまじった。「一体、何を?」  声色の変化に気づけないほど、キョウヤとトシヒコの付き合いは短くない。しかして、トシヒコの口調は常のように淡々としていた。 「チヨコは怒ったのじゃあない。傷ついたんだ」  いつもそばにいてくれる相手に、自分の気持ちが伝わらなかった。そのことを嘆いたのだと。 「おそらく、おまえならわかってくれると、そう期待していたのだろうな」  帽子のつばを押しあげ、トシヒコが薄く笑う。長い付き合いなんだろう、それこそ俺よりもずっと―― 「トシヒコ、おまえ」 「さて」と、トンビがひるがえった。風が紫煙をけちらし、トシヒコは学帽をかぶりなおす。「そろそろ戻るぞ。ハルオミさんを放っておくと、面倒だ」  背を向けて歩きだすトシヒコは、常となんら変わらない。怒りはおろか、ほんのわずかな苛立ちさえも感じられない。唐突に、キョウヤは自身がもつ器量の狭さを痛感した。たかだか数歩で追いつくだろう距離にあるはずの背が、ひどく遠く感じられる。 「キョウヤ」  いつまでも動かないキョウヤをいぶかったのだろう。足を止めて振り返った友の姿に、思わず目を落とした。 「悪かったよ」  髪をかきむしり、キョウヤはぼそぼそと言った。「少し、意地の悪いことをした」  しばしの沈黙。ふと、トシヒコの笑う気配がした。 「俺よりも、チヨコに言ってやるんだな」  変わらぬ友の態度に安堵するようで、キョウヤはその器の大きさを思っては複雑な気持ちになった。  ところが、キョウヤたちがモノベ邸へと帰り着いたとき、そこにハルオミの姿はなかった。よく勝手にくつろいでいる客間はもぬけの殻で、かろうじてタバコのにおいだけが残っている。妙だと、キョウヤは思った。すぐに人を呼んで話を聞いてみたが、女中たちはおろか、家令(かれい)でさえもハルオミが来訪していたことを知らない。ハルオミが異能を使えば、屋敷の人間に気づかれず出入りすることなど容易いのだが、どうしてか、いやに胸騒ぎがした。  モノベ邸二階にあるチヨコの部屋へキョウヤが駆けこむと、暖められていたはずの部屋は、すっかり冷えきっていた。窓が開け放たれ、外気が入りこんでいるのだ。ぼろのカーテンが踊る窓辺のベッドに、チヨコの姿はない。してやられたと、キョウヤは歯噛みした。 「何を考えているんだ、あの人は」  ハルオミは、タバコを切らしてなどいなかった。客間に残っていたタバコのにおいが、それを如実に物語っている。タバコを切らしたというのは、キョウヤとトシヒコを追い払うための嘘でしかなかったのだ。  おそらく、ハルオミはチヨコを連れ出したかった。けれど、それをするにはキョウヤたちが邪魔だった。なぜか。キョウヤやトシヒコが、快く思わないだろうことをしようとしているからではないのか。 「わからないのは、わざわざチヨコを連れ去った理由か」 「議会に報告するにしたって、チヨコをともなう必要はない」  キョウヤはサイドテーブルの引きだしから、薬の入った巾着袋を取り出した。案の定、中の薬にはまったく手がつけられていない。キョウヤは舌打ちをした。  チヨコは超異能力を暴走させ、心身ともに消耗しきっているのだ。容態が急変する可能性は、多分にある。それだというのに、薬ひとつ持たずに外へ連れ出すなど、キョウヤには考えられないことだった。苛立つキョウヤの肩を、トシヒコの手が叩く。 「落ち着け、キョウヤ。いくらあの人でも、サガラ家を敵に回すつもりは」 「おチヨは養女だ。サガラは帝国議会に従って引き取っただけにすぎない」  苦く吐き捨て、キョウヤは薄汚れたちりめんの巾着袋を握りしめる。トシヒコの手が、かすかにふるえた。  超異能力の存在を知っているからといって、サガラ家にその力を扱える人間はいない。ましてや、チヨコは自身の力も制御できないのだ。サガラ家からしてみれば、鼻つまみ者でしかない。だからこそ、チヨコはあの日からずっとモノベで暮らしてきた――  キョウヤの肩にあったトシヒコの手が、静かに離れていく。 「悪い。知らなかったんだ」  引いた手で、トシヒコは帽子のつばをさげた。ばつが悪いといったようすだった。だけれど、それもしかたのないことだ。キョウヤは、ゆるくかぶりを振った。 「僕だって言わなかった。あまり気分の良い話ではないから」  哀れな娘だと、そう思う。あんなにも弱く儚い存在であるのに、川へと流されたチヨコという笹舟に寄る辺などはない。ただただ水の流れに身を任せ、自らの行く末を案じることしかできないのだ。 「とにかく、さがそう。チヨコが心配だ」  トシヒコの言葉にうなずいて、キョウヤは巾着袋を懐へとしまった。いつもチヨコが座っているベッドに手をすべらせる。手ざわりの良い、白く清潔なシーツ。ほのかに、せっけんの香りがする。すっかり冷たくなっているところを考えると、チヨコがいなくなってから、もういくらか経っているのだろう。  本来、キョウヤもトシヒコも、こういった類の超異能力は得意ではないのだけれど、適正の高い二人がそろいもそろって行方知れずになっているのだから、やむを得ない。目を閉じて、深く呼吸をする。意識を手の先からベッドへと移し、残された思念をさぐる。  強く感じたのは、恐怖だった。燃えさかる炎の幻に意識をのまれた、チヨコの残留思念(ざんりゅうしねん)。それに匹敵するほどの強さで残っていたのは、懺悔。きっと消えることのない、チヨコの心の傷だった。ふとしたら、キョウヤ自身の意識まで流されそうになる。けれど、それでいてはチヨコを見つけだすことはできないのだ。爪の先が食いこむほどにこぶしを握り、キョウヤは意識を保つ。期待を裏切られたことへの悲しみ、理解されなかったことへのさみしさ、そして――  やがて、キョウヤはそれまでとは異なる鮮度の思念と感応した。際立って新しいそれは、恐怖というには弱く、驚きというには暗い。怯えている。チヨコが怯えている。では、何に怯えているというのか。深く、深く感応するほどに、キョウヤにもみえてくる。細くたなびく紫煙、息苦しさを覚えるほどの威圧感、薄い唇がかたどった「トクムタイ」という言葉。しかし、キョウヤには、そこまでしかみることができなかった。すぼめられた口から白い煙を吐きかけられたとたんに、ふつりと思念は途絶えてしまう。  意識が、在るべき現実へと弾き出される。脳を揺さぶるような衝撃に、キョウヤはかろうじて足を踏んばった。遠ざかっていたキョウヤ自身の五感が、徐々に戻ってくる。 「どうだった」 「間違いない、ハルオミさんだ」  ぐらつく頭を振りながら、キョウヤは答えた。「おそらくは特務隊(とくむたい)と、そう言っていた」 「特務隊だって?」  にわかに、トシヒコの声色が変わる。 「知っているのか」と問えば、「少し」と言葉が返った。  いわく、それは帝国議会が作ろうとしている超異能力者を集めた部隊であるという。詳しくはトシヒコも知らないが、ハルオミは言っていた。すべてはお国の事情なのさ、一般大衆から超異能力の存在を徹底して隠そうっていうのも極秘で特務隊を設立しようっていうのもね―― 「だが、ハルオミさんは反対していたはず。一体どうして」 「まさか、おチヨを特務隊とやらに加えるつもりなのか」 「わからない」  手を口もとへやり、トシヒコは思案している。  正直、超異能力者を集めて特務隊を作るということ自体は、然したる問題ではないようにキョウヤは思う。だが、そこにチヨコを加えようというのであれば、話は別だ。女の、しかも、未だ幼い子ども。どんなことをする集団であるのかがわからないとはいえ、特務などといった仰々しい言葉などとは、とんと縁のなさそうな存在である。おまけに、チヨコにいたっては、 「キョウヤ、よく聞け」  神妙な面持ちで、トシヒコがキョウヤに向き直った。 「今から俺は異能の力を使う。だが、おまえは何があっても俺にかまうな。チヨコをさがしだして安全を確保するんだ」 「おまえ、一体何を言っているんだ」 「時間がないかもしれないんだ」  キョウヤの目を見据え、トシヒコは短く言った。頼むから俺の言うとおりにしてくれ――  異能の力によって、空間がゆがむ。次の瞬間には、キョウヤはトシヒコとともに、探偵社の所長室にいた。二脚の向かい合うソファのひとつ、そこに横たえられたチヨコと、かたわらに立つハルオミを確認するや否や、キョウヤは自らの身体を異能で浮かせた。脇目も振らず、無防備なハルオミの背へと突進する。刹那、ハルオミが動いた。振り向きざまにキョウヤへと手をかざし、異能を使おうとする。 「させない」  トシヒコの声がして、紅蓮の炎がハルオミへと襲いかかった。わずか、ハルオミの意識がそれる。その隙を逃さず、キョウヤは鋭く研いだ空気の刃をハルオミに放った。 「おいおい。きみたち、チヨコを殺す気か?」  わざとらしい口調で言い、ハルオミはキョウヤへかざしていた手から衝撃波を発する。キョウヤの力を相殺し、トシヒコの炎に向かって紫煙を吐き出した。けれど、トシヒコの放った炎は絶えない。より勢いを増してハルオミを狙う。ハルオミの顔に、動揺が走った。床を蹴り、ソファの前から飛び退く。燃えさかる炎が、キョウヤとチヨコをのみこんだ。 「正気か、トシヒコ」  ハルオミが言った。声色には、信じられないといった思いがありありと表れている。 「あなたに言われる筋合いはないでしょう」  チヨコを抱えあげて炎の中に立ち、キョウヤはきつくハルオミを睨んだ。ハルオミがおどろきの表情で振り返る。なぜ。唇がそう疑問を紡ぎかけたとき、キョウヤに抱えられたチヨコが薄く目を開いた。 「……キョウヤ、トシヒコと迎えにきてくれたの」 「そうだよ」と、キョウヤは微笑んだ。「さっきは僕が悪かったね。まだ、しんどいだろう。ゆっくり休んでおいで」  赤い炎に照らされながら、けれど、チヨコは安心したように笑う。「うん」と、ほんの少しうなずいて、まぶたをおろす。すぐにおだやかな寝息が聞こえ始め、そこでトシヒコが床に崩れ落ちた。たちまち、キョウヤとチヨコを覆っていた炎が消え失せる。 「そうか。そういうことかい」  ハルオミが、膝をつくトシヒコを見やった。 「相変わらず手癖が悪いな、きみは。僕の力を盗んだろう」 「なんのこと、でしょうか」  息も絶え絶えに、トシヒコは笑う。だが、その笑みはしてやったりといった風であって、決して誤魔化そうとするそれではなかった。キョウヤはチヨコを抱えたまま、ハルオミから距離を取り、つぶさにようすを見る。  モノベ邸から、この探偵社へと移動する間際。トシヒコがキョウヤに明かしたのは、ふたつ。  ひとつは、ハルオミがいつもふかしているタバコについてだった。シルバーバレットと銘打たれたこのタバコの煙には、超異能力を封じる力がある。しかしながら、これで異能を封じるにはコツがいる。対象となる異能の本質を見極めたうえで、それに合わせた煙の使い方があるのだ。ゆえに、このタバコを真に扱うには、超異能力へ対する造詣が深くなくてはならない。そういう意味では、優れた異能の使い手であるハルオミが愛用するにふさわしいタバコなのだ。  では、なぜ、ハルオミはトシヒコが放った炎を封じることができなかったのか。それは、ハルオミが思いこみゆえに、異能の本質を見誤ったからにほかならない。  キョウヤに明かされたもうひとつの事柄は、トシヒコ自身がもつ異能の力についてだった。トシヒコが生まれもった異能には、その目でとらえた他者の超異能力を「盗む」という性質があった。一見、チヨコのもつ異能と同じようなものであるが、トシヒコが盗むことのできる超異能力はあくまで表面上だけであり、その本質までには届かない。先刻、トシヒコがキョウヤをともなって探偵社へと瞬間的に移動することができたのは、ハルオミが日常的にトシヒコの前で探偵社へと瞬間移動をしていたからであって、移動先までを自身で決められるわけではない。  キョウヤはしばしば、異能の炎をぶつけることで物質を燃やす。トシヒコはその姿を見ているから、同じように炎をぶつけて物を燃やす程度の力は扱うことができる。そして、当然ながら、ハルオミはこれらの事実を知っていた。だからこそ、ハルオミはトシヒコの放った炎が現実のものであると思いこんでいた。  だが、実際には違った。トシヒコの放った炎は、現実のものではなかった。催眠による幻覚だった。それは、奇しくもキョウヤたちがタバコを買いに出かける少し前、ハルオミがチヨコに見せた幻の炎を盗んだものだったのである。  現実の炎と、幻覚の炎とでは、本質が異なる。あるいは、相対したのがハルオミも知らない未知の敵であったのなら、見誤ることもなく、シルバーバレットで封じることができていたのかもしれない。けれども、実際に攻撃をしかけてきたのは、ハルオミのもとで助手をしている少年らだった―― 「どうやら、甘く見すぎていたようだ。きみたちも成長していたのだね」  まいったといった具合で両の手のひらをあげ、ハルオミが肩をすくめた。 「どうです。これでも、まだ彼らを信じられませんか」  語りかけるその言葉が向かう先は、キョウヤでも、トシヒコでも、チヨコでもない。まさかと、キョウヤは部屋を見渡した。指を鳴らす音が響き渡り、それまで誰の姿もなかった机に、忽然と人影が現れる。ハルオミの超異能力によって姿を隠していたのだろう。山高帽(やまたかぼう)をかぶり、白いひげをたくわえた精悍(せいかん)な顔つきの老人であった。 「どういうことです」  苦悶の色をにじませながら、未だ立ちあがることもできないトシヒコが問う。心なしか、声が硬い。すると、呆れた顔でハルオミがタバコの煙を吐いた。 「トシヒコ、きみは少し黙っているといい。この僕から盗んだ力を二度も使ったんだ。反動は、ずいぶんな苦痛をともなっているだろう?」  図星をつかれてか、それとも、タバコのにおいがきつくてか。トシヒコは顔をしかめて、口をつぐむ。代わって、キョウヤが口を開いた。 「そちらの方は」 「カザマヨシキ氏だ。トシヒコのお父上に当たる人さ」 「トシヒコの?」  キョウヤは、少したまげて老人とトシヒコとの間で視線を行き来させた。外見だけでいうのなら、その齢は六十後半から七十ほどに見える。トシヒコの父というには、いささか歳を重ねすぎているように思えた。けれど、それ以上に妙なのは、 「今日は貴族院(きぞくいん)から人が訪ねてくると聞きましたが」 「ああ、そうだな」と、ハルオミが普段と変わらぬようすでうなずいた。「その客人がヨシキ氏だ。トシヒコにはそこまで伝えてはいないけれどね」  時間がないかもしれない――ハルオミとチヨコが姿を消したとき、トシヒコはそう言った。この日に探偵社へ人がくると、トシヒコはハルオミから前もって聞かされていたのである。ほかのどこでもなく、この所長室へと移動してきたのだって、何もトシヒコが自由に行き先を選べないというだけではない。事前に得ていた情報から、ここにいる可能性が高いと踏んだからだ。 「僕たちを(たばか)ったのですか」 「謀っただなんて人聞きが悪いなあ。僕は、きみたちのために取りはからってやったというのに」 「弱ったチヨコを巻きこんでまで? それほどまでに、特務隊というものが重要なのですか」  細い肩を抱いたまま、キョウヤはハルオミをねめつける。 「きみはチヨコが絡むと、すぐこれだ」  やれやれといわんばかりに、ハルオミが息をつく。くわえていたタバコを灰皿に押しつけると、ハルオミはヨシキへと視線を投げた。しかし、その視線は相手の指示をうかがわんとするものではない。キョウヤは知っている。これ以上は面倒だと、ハルオミはヨシキに訴えているのだ。ヨシキもまた、ハルオミのひととなりは把握しているのだろう。「ふむ」と声をもらし、椅子から立ちあがった。 「モノベキョウヤくんだったね。ハルオミくんから、トシヒコがいつも世話になっていると聞いている。まずは礼を言わせてもらおう」  かぶっていた山高帽を取り、ヨシキが一礼する。洗練されたその動きは、優雅でありながら隙がない。キョウヤもまた会釈を返したが、それだけに留まった。 「若いな」  ヨシキの顔に笑みが浮かぶ。 「前置きはいい、と?」 「トシヒコもチヨコも消耗しています。僕には、ここで話を長引かせる理由がありません」 「物怖じもしない。なるほど、良い面構えだ」  ひとつうなずき、ヨシキは言った。「では本題へうつるとしよう」  特務隊、その正式名称は「超異能力特務隊(ちょういのうりきとくむたい)」といった。帝国議会が秘密裏に結成させようとしている超異能力者を集めた非軍事部隊であり、帝都の守護と、超異能力者および超異能力の秘匿を目的としているのだという。 「明治に廃止された陰陽寮(おんみょうりょう)を知っているかね」  ヨシキの枯れ枝のような指が、ひげを撫でた。 「超異能力特務隊は、あれに替わるものとして結成されようとしているのだよ」  元来、超異能力は神通力などとして古くからこの国に存在しており、それらは限られた血筋の者にのみ発現するものであった。それゆえ、異能をもつ者たちの多くは陰陽寮などに集められ、異能の力もまた、人々に害をなすことがないよう管理されていたのだという。  明治になると、科学に反するとされた異能の存在は、大衆から否定的な目で見られるようになり、ついには陰陽寮も廃止される。しかし、それ以降、各地で異能の発現事例が多く報告されるようになった。孤立した超異能力者たちは、自身の力を正しく制御する術を知らず、結果として超異能力の暴走事故が頻発した――  チヨコを抱く腕に、力がこもる。ヨシキは目でうなずき、言葉を続けた。 「このような悲劇を繰り返してはならない。だからこそ、我々は超異能力特務隊を結成することで、異能の力を再び管理下に置こうとしている」 「では、僕たちを信じるかどうかというのは?」  ハルオミは言っていた。これでもまだ彼らを信じられませんか、と。あれはたしかに、ヨシキへと向けられた問いかけであった。 「あれは、サガラ家の令嬢に関する話だよ」  そう言って、ヨシキは窓の外へと目を向けた。 「特務隊を結成したとき、彼女の身辺に配するべきなのは、より訓練された超異能力者ではないのか、とね」  チヨコは危険なのだと、ヨシキは語る。ありとあらゆる異能を扱うだけの素質をもちながら、力の制御ができない。そして、制御できていないがゆえ、彼女固有の異能の性質さえもが、厳密には未だ憶測の域を出ていないのだと。 「未知の異能は、対処が非常に難しい。チヨコ嬢に関しては、シルバーバレットを用いても力を封じられないことがあるほどだ。きみたちのように若い超異能力者では、手に負えない可能性が高い」  だが、これに異論を唱える者がいた。ハルオミだった。  ハルオミは隊長にと推される身でありながら、チヨコをキョウヤとトシヒコから離すのであれば、自分は隊長はおろか、特務隊にも属さないと宣言したのである。一部の有力者たちはこれに気色ばんだのだが、ハルオミはどこ吹く風といった風体で、再三の要請にも意見を変えない。そこで、ヨシキは言ったのである。きみがそうまで言うのなら二人の実力を確かめたい―― 「チヨコ嬢の暴走を引き起こすような者に、彼女を任せることはできない。だが、異能の暴走は、ほとんどが超異能力者の精神状態に起因する」  暴走の抑止に適するのは、超異能力者と信頼関係を築いた存在よりほかにない。 「チヨコ嬢のようすを見ればわかる。きみたちは、本当に信頼されているのだね」  振り返ったヨシキが、おだやかに笑った。 「ハルオミくんが、かたくなに首を縦に振らないわけだよ」 「うちの助手たちはまだまだ未熟ではありますがね、潜在的な力量は十分にあるんで」  ハルオミは得意げに笑い、懐へ手を伸ばす。しばらく、ごそごそとやっていたハルオミの口から「おや」と、声がもれた。すかさず、一箱のタバコが放って投げられる。 「一本ほど、事故で紛失していますが」  おぼつかないながらも、自力で立ちあがったトシヒコだった。開封済みのタバコを手にしたハルオミが、にやりとする。「なるほど。手癖が悪いのは、きみだけじゃあないらしい」  キョウヤが黙って目をそらせば、ハルオミは声をあげて笑った。 「正義感はいっとう強くて、気が利き、何より人間らしい。どうしてなかなか、僕はこいつらのことを気に入っているんですよ」  真新しいタバコをくわえたハルオミが、ヨシキを見て、にんまりとした。 「どうしたって特務隊をというのなら、チヨコのそばには僕の部下として、必ずこの二人を置かせていただく。今の僕にできる最大限の譲歩です」    ※  鉛色をした空から、白い粒が降ってくる。足を止めたトシヒコが、トンビから手を出した。はらはらと降る白いそれを受け止めれば、瞬く間に手の上で溶けて水となる。そのようすを横からながめ、キョウヤは思った。雪とは、一体どうしてこうも儚いものなのか。まるで、人の命のようだとさえ思う。 「チヨコがよろこぶだろうな」  白い息を吐きながら、トシヒコが言った。 「今日は雪が降ればいいと、しきりに言っていた」 「ああ」  そういえばそうだったなと、キョウヤは顔をあげる。誕生日には雪が降ってほしい。ここ数日、チヨコが事ある毎に繰り返していた願いだった。 「どうせ、外へ出られはしないというのにね」  目を伏せて呟くと、トシヒコのトンビが衣擦れの音をたてた。意外そうなトシヒコの声が、キョウヤの名前を呼ぶ。 「おまえ、どうしたんだ。チヨコの晴れの日だろうに」 「すまない」と、キョウヤは薄く笑った。「あんまり儚いものを見たものだから、おチヨと重ねてしまったんだ」  数年前の今日この日。望まれて生を受けただろうチヨコは、あとどれだけの時を生きられるのだろう。あと、いくらほどの年を重ねて、大きくなって、ともに過ごせるのだろう。縁起でもないことを考えている。その自覚はあった。キョウヤには知る術のないことだとも、重々に承知していた。だのに、毎年この日がくると、考えずにはおられない。  トシヒコを真似るように、トンビから伸ばした手で雪にふれる。たまゆら、手のひらに冷たさを伝えたそれは、やはり、すぐに溶けて消えてしまう。物悲しい思いが、キョウヤの胸をしめつける。いつだって、終わりというものは、おどろくほどにあっけない。 「だが、それは俺やおまえも同じことだ」  トンビの襟もとへと手をやり、トシヒコは言った。黒い布地の上で光るバッジを取り、開いた自らのこぶしにのせる。キョウヤのトンビにもつけられているそれは、渡されて間もない超異能力特務隊の徽章(きしょう)だった。 「ハルオミさんも言っていたろう。これを手にした以上、俺たちはただの探偵助手ではなくなる。表向きには何も変わらなくとも、命を危険にさらすことを多くしなきゃならない」  チヨコだけではない。ほかの超異能力者の暴走を食い止めることも含め、異能の力を駆使して当たらなければ、にっちもさっちもいかない――そんなような任務が、ハルオミからくだるようになるのだ。助手としての、足を使った聞きこみや小間使(こまづか)いじみた手伝いとは違う。帝都を守るため、文字通り、命がけで向き合わなければならない場面もあるだろう。けれど、キョウヤはチヨコのそばにいてやりたいと願ったし、トシヒコとて同じような思いがあったからこそ、この徽章を身につけることを選んだのだ。 「明日を憂うばかりで、今を生きないのは損だぞ」  徽章を襟に留め直すトシヒコを見て、キョウヤはしばし口を閉ざした。出会ったころから、トシヒコはそうだった。いつでも達観したような物の見方をして先を読み、キョウヤに忠告をする。同じ学校の同じ学年に属しているはずだというのに、その言動からは、しばしば年不相応なものを感じる。そんなとき、決まってキョウヤは思うのだ。このカザマトシヒコという友は、これまでどんな道を歩んできたのだろうかと。  トシヒコが自ずと過去を語ることはない。キョウヤもまた詮索することをしない。そして、それがゆえに、今の関係が保たれているのだということも、キョウヤは誰に言われずとも感じ取っていた。 「なあトシヒコ、少し寄り道をしてもいいかい」 「かまわないが、贈るものは用意しただろう」 「そうだけれど」  キョウヤは空を仰いでから、再びトシヒコへと目をやった。 「せっかく、おチヨの願いを聞き届けてくれたんだ。空からの贈りものも、きちんと届けてやらないと」  すると、トシヒコが笑った。それでこそキョウヤだ――  モノベ邸では、仕えている女中や家令よりも早く、チヨコが玄関へと姿を見せた。淡い色合いの生地であつらえられた夜会服(やかいふく)のすそを揺らしながら、小走りに駆けてくる。その姿に、キョウヤもトシヒコもぎょっとした。けれど、チヨコはすぐに足をもつれさせる。 「チヨコ!」  真っ先に、トシヒコが飛び出した。トシヒコがチヨコの身体を抱きとめ、キョウヤも、すぐに駆け寄る。「怪我はないか」気遣うように問いかけたトシヒコに対し、何度か瞬きを繰り返したチヨコは、くすくすと笑った。 「みんなみたいに走るのは、やっぱりむずかしいね」  よく見ると、チヨコの額には汗の玉が浮かび、頬も赤く上気している。ここまで無理をして走ってきたのだろう。キョウヤはチヨコの顔をのぞきこんで、眉を寄せた。 「だめだろう、そんな無理をしては」  チヨコが走りたがっていたことはもう重々にわかっているし、欲しいと望んでいた自転車を買ってやることも、結局キョウヤにはできなかった。しかし、だからといって、チヨコの身体に負担がかかるようなことを、黙って見過ごすわけにはいかない。言葉にこそ出さないが、トシヒコの表情もチヨコを咎めるものへと変わっている。トシヒコの腕の中で、チヨコが身じろぎをした。 「違うよ」 「違わないだろう」  わずか、トシヒコの口調がきつくなる。ふいに、奇妙な感覚がキョウヤを襲った。この光景を、やりとりを、キョウヤは知っている。 「あなたは本当に身体が弱いのだから、部屋で大人しくしているべきだ」  トシヒコがチヨコの手を引き、その場に立たせる。チヨコは何も言わなかった。口を閉ざし、ただうつむくだけだ。けれど、チヨコのその姿を見つめて、キョウヤは口を開く。 「トシヒコ、少し待ってくれないか」 「キョウヤ?」  意外な言葉だったのだろう。おどろいたふうのトシヒコが振り返る。それをよそに、キョウヤはゆっくりと膝をついた。チヨコと目線を合わせ、つぶさに顔色をうかがう。汗をかき、頬もすっかり赤くなってはいるけれど、そこに疲弊の色はない。そして、周囲をかすかに漂う、チヨコからはするはずのない知ったにおい。 「おチヨ。もしかして、ハルオミさんに会ったのかい?」  チヨコは、これにおずおずとうなずいた。 「どういうことだ?」トシヒコが怪訝な声をあげた。「ハルオミさんは、今日の夜会(やかい)には来ないと言っていたはず」  この時期、モノベ邸で開かれる夜会。チヨコの誕生を祝うそれは、夜会と呼ぶにはあまりにも小さく、ささやかなものだ。異能の力を生まれもっただけならまだしも、身体が弱く、肉親さえも亡くしているチヨコ。外界から隔絶された世界に生きるしかないチヨコの存在を知る者など、数えるほどしかいない。ましてや、夜会に招くことのできる人物となれば、さらに少なくなる。トシヒコやハルオミは、その数少ない招待客だった。  いくらささやかであるとはいえ、名家の夜会である。事ある毎にミルクホールやフルーツパーラー、カフェーへと出かけてゆくハルオミが、望んで招待を断るはずもなかった。事実、ハルオミが夜会の招待を断ったことなど、これまで一度もない。ところが、今回に限っては、どうにもハルオミの都合が悪い――少なくとも、キョウヤとトシヒコはハルオミ自身から、そう聞かされていた。  それだというのに、屋敷にいたはずのチヨコは、ハルオミに会っているという。どういうことなのだとキョウヤたちが困惑していれば、チヨコはぽつぽつと説明を始めた。  先日、チヨコが異能の力を暴走させた日。ハルオミは、キョウヤたちをおびき寄せるため、チヨコをさらった。このとき、ハルオミは負の感情が部屋に残留するようにと、チヨコをわざと脅かしていたのである。  意外なことにも、ハルオミはこのことを気に病んでいたらしい。得意とする瞬間移動でモノベ邸を訪れたハルオミは、手土産をたずさえていた。貴族院を納得させるためとはいえ、チヨコ嬢には怖い思いをさせてしまったからなあ、詫びも兼ねてきみの願いを叶えてあげようと思ってね――  首にさげていた巾着袋を服の下から引っぱり出して、チヨコは言った。 「特別な、お薬なんだって。飲んだらね、とっても身体が楽になるの」  頻繁に外へ出るのはまだ難しいだろうけれど、少しずつ体力をつければ、それも無理なことではない。小学校へだって、きっと自分の足で通えるようになる。 「それに、キョウヤとトシヒコが自転車を買うのは、まだむずかしいからって」 「あの人は、また余計なことを」  ぼやいたキョウヤを見つめ、チヨコは首をかしげた。 「でも、本当のことなのでしょ」 「そうなのだけれどね」 「キョウヤは自分の口から、きちんとチヨコに説明したかったんだ」  チヨコの頭を撫でて、トシヒコも身をかがめた。 「そのために、今日は一風変わったものを用意していた。なあ、そうだろう?」  にやりとしたトシヒコにうながされ、キョウヤはじっとトンビの中に隠していた両の手を見せた。かじかみ、赤くなった手の上にあるのは、白く丸みをおびたもの。庭木の葉でこしらえた耳の根もとで、赤い瞳がきらりと光る。 「雪ウサギ!」  チヨコが明るい声をあげた。 「これ、キョウヤが作ったの?」 「おおよそはね。耳と目は位置が悪いと、トシヒコに直された」 「しかたがない。おまえが不器用だから」 「そんなことあるものか」  むっとしてトシヒコに言い返せば、鈴を転がすようにチヨコは笑った。 「楽しそう」  走ることや、雪で遊ぶだけではない。キョウヤとトシヒコの他愛のないやりとりさえもが、チヨコにとってはあこがれなのだろう。キョウヤが留守にしている間のチヨコは、ほとんど部屋に一人きりなのだから、無理もない。哀れに思うと同時、キョウヤの胸には慈しみの情が湧く。努めておだやかに笑い、キョウヤは言った。 「さ、手を出してごらん」  ぎこちなく差し出されたチヨコの手のひらに、雪でできたウサギをそっと移してやる。「冷たい」と、チヨコはうれしそうに言葉をこぼした。瞳をかがやかせながら雪ウサギを見つめ、かわいい、かわいいと、しきりに呟く。キョウヤは、チヨコには気づかれないよう、冷えきった両手をポケットに押しこんだ。異能の火で温めることもできなくはないのだが、チヨコは異能の力に敏感だ。気取られてしまうくらいならば、時間はかかっても自身の体温でぬくめることをキョウヤは選んだ。  トシヒコとそろって立ちあがり、チヨコのようすを微笑んで見守る。夢中になって雪ウサギと目を合わせていたチヨコは、やがて、ふと表情を変えた。 「ねえキョウヤ、トシヒコ。この子の目って」  キョウヤはトシヒコと顔を見合わせ、にやりとする。「きれいだろう」と、目を細めた。「耳飾りだよ」  この耳飾りの存在を、キョウヤが知ったのは偶然。タバコ屋のハナコから、どこそこで売られている耳飾りがきれいなのだと、聞かされたためだった。空いた時間で、ふらりと見に行けば、なるほど澄んだ紅色がうつくしい耳飾りだった。  しかし、自転車ほどではないにしろ、それなりに値が張る。そこで、キョウヤはトシヒコに相談をもちかけた。すると、トシヒコもちょうどチヨコへの贈りものに悩んでいたらしい。学生の身分では自転車に代わるようなものなど、そう容易く都合できはしないのだから、無理もない。結果、キョウヤとトシヒコは互いの持ち合わせを出し合い、この一対の耳飾りを買ったのである。  もっとも、思いつきでこれを雪ウサギの目にすると言ったときは、トシヒコも大層おどろいたようだった。だけれど、雪は溶けるものだ。チヨコに届けたところで、きっと翌日には跡形もなくなっているだろう。それは、あまりにもさみしいことだと、キョウヤは思う。いかに自然の摂理であろうとも、刹那の思い出にしてしまうことが、キョウヤはおそろしいと感じる。だからこそ、雪でウサギを作ったのだ。その身のほとんどが溶けようとも、瞳に埋めこまれた耳飾りだけは、カタチとして残るようにと。  ようやく、手がぬくまってきた。雪ウサギを手にしたまま、目を丸くしているチヨコの頬へ、キョウヤは手を伸ばす。誕生日おめでとう――  帝国議会により結成された、超異能力特務隊。その存在は、決して一般大衆に知らされることはなかったが、以降、帝都トウキョウでは集められた超異能力者たちが暗躍するようになる。  これは大正二十七年、細雪(ささめゆき)がちらつく二月某日のことであった。
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