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祖母のまじない
意識が戻ったばかりのサヤは、未だ思うように動けなかった。ティマは使用人に任せることなく、自らサヤの世話をした。そこには、サヤへ対する罪悪感や哀れみがあったのかもしれない。けれど、それでも、ティマはやさしかった。
日があるうちは、ベッドから動けないサヤが退屈しないようにと屋敷にある本を読み聞かせ、サヤが文字を読めないと知ると、少しずつながら文字を教えてくれた。眠る前には、毛布をサヤの肩までかけて、ティマが母親から教わったという歌をうたってくれた。
さらに、夜が更けるころになると、テトスが窓から部屋を訪れた。人目を忍び、木の枝伝いにやってくる彼は、部屋から出ないよう、タルファに言いつけられているらしかった。というのも、テトスが先日の一件で魔獣と遭遇してしまったため、いくつかのまじないを習っている最中なのだという。
「獣避けのまじないができるようになれば、晴れて自由の身だ。そうしたら、サヤにもまじないを教えてやるよ」
燭台に灯ったろうそくに照らされ、テトスは笑った。
「あんなすげえまじない師と祈祷師の娘なんだ。素質はあるはずだぜ」
両親が使っていたという、まじない。正確には、祈祷師はまじないとは違う力を使うらしいのだが、そんなことはサヤにとってはどうでもよかった。まじないを覚えることで、今はもういない両親とのつながりが深くなるような気がした。
「きっとだよ」
「ああ、約束だ」
「じゃあ指きり」
「なんだそれ」
小指を差し出したサヤに、テトスは首をかしげる。知らないのかと問い返そうとして、サヤはここが異国の地なのだと思い出した。きっと風習も違うから「指きり」なんて約束のしかたも、ないのだろう。
「わたしの生まれたところではね、約束をするときには小指をからめるの」
「へえ」
テトスはサヤの手を見ながら、右手の小指を立てる。どこかぎこちなく、色の違う小指がからまり合った。
「こうすりゃいいのか?」
「うん」
サヤは、うなずいた。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます、ゆびきった――
指をほどくと、テトスは変な顔でサヤを見ていた。けれど、結局は何も言わずに、今度はからめていた小指をしげしげと眺める。
「ま、とにかくこれで約束はできたってことだな」
にやっと笑って、テトスは腰からさげた袋からレテの実を取り出した。
「また採ってきてくれたの?」
「あんた、これ好きだからな」
レテをサヤの手にのせ、テトスが言う。甘い香りが、ふわりとサヤの鼻をくすぐった。
部屋を訪れるたび、テトスは土産だと言ってサヤにレテの実を渡してくれる。そして、サヤがレテの実を食べるのを眺めながら、いくつかの言葉を交わして、窓から部屋を出ていく。
だけれど、サヤだけが食べているのも居心地が悪い。一度、サヤが半分に分けて一緒に食べようと誘ったら、テトスはずいぶんとたまげたような顔をしたことがある。どうかしたのかと聞くと、テトスは何やら言葉を濁すようにうめいて、二度とそういうことはするなと、そう約束させられた。
ただ、サヤの思うところは汲んでくれたようで、それ以来、テトスはレテの実を必ず二つ持ってくるようになった。その日にあったことを話して、ふたりでレテを頬ばる。そんなおだやかな時間が、いくらか続いた。
一方で、現実では祖母との暮らしが始まっていた。
祖母の家は古い日本家屋で、サヤの住んでいた家にはない神棚がある。少し前まではサヤが遊びにくると、祖母は決まって神棚の前に座っていたのだけれど、そこには今、白い半紙が貼られている。ここへきてからのこれまで、祖母が神棚を拝んでいる姿を、サヤは一度も見ていない。不思議に思ったサヤが、布団の中でこれを問うと、祖母はくしゃくしゃの顔にしわを寄せて笑った。
「そういう決まりなんだよ、サっちゃん」
寄せられた幾本ものしわが、なんだか悲しそうに見えたから、サヤはそれ以上のことを聞けなかった。だから、代わりにサヤは祖母の手を握った。祖母は、そっと目を細めるだけだった。
夜更け。同じ部屋で寝ていた祖母がいないことに気づいたサヤは、布団を抜け出した。ひんやりとした板張りの廊下を進むと、ふすまの隙間から明かりがもれている。のぞきこめば、背中を丸める祖母がいた。
「ああ、あんたらは親不孝者だねえ」
写真立てのフレームをしきりに撫でながら、祖母は呟いた。
「本当に、どうしようもない親不孝者だ。あたしより先に逝くなんて、そんな親不孝があってたまるもんかい」
とうとうと流れる祖母の声はひどく小さくて、なんだかその背中まで小さく見える。これが、あの父の頭があがらない相手だったのだと思うと、信じられない気持ちでいっぱいだった。
立ち尽くすサヤの目にも気づかないで、祖母は声をふるわせる。あの子なんてまだあんなにちっちゃいっていうのにかわいそうじゃないか、だってあの子あたしを気づかって手なんか握るんだ、葬式のときだって泣きもしなかったんだ、だからあんたたちは親不孝者でひどい父親と母親なんだ――
だけれど、サヤは知っている。両親は親不孝だったかもしれないけれど、悪い父親でも悪い母親でもなかった。なぜなら、ふたりはサヤを守って死んだのだから。だから、本当にひどいのは、きっと。
イメの世界で大量の魔素を失った身体は、現実でも同じように、サヤを床にしばりつけた。寝ても覚めても床にいるものだから、そのうち背中に布団の痕がついてしまうのではないかと思うほどだった。
あるとき。サヤは祖母が閉め忘れた押し入れの中に、小さなつづらを見つけた。ほこりをかぶったそれは、不思議とサヤの目を奪い、気を引いた。布団を這い出て、手でほこりを払いながら、ふたを開ける。中には、一冊の古い本だけが入っていた。表紙をめくってみれば、ミミズがのたくったような筆文字がつづられている。達筆すぎるそれは、小学生であるサヤには到底読めるようなものではなかった。
ただ何気なく眺めていると、偶然にも祖母が部屋の前を通りがかった。サヤの手にした本を見て、祖母の足が止まる。まるで何かに引き寄せられるみたいに、祖母がサヤのほうへとやってくる。
「ひと、ふた、み、よ」
ぽつりぽつりと、うたうように何事かを呟いた。
「いつ、む、なな、や、ここの、たり」
祖母の目は、どこか遠くを見ているようだった。「おばあちゃん」と、サヤが呼んだ声にも応えない。
「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」
そう言葉をしめくくり、そこで初めて祖母はサヤを見た。「サっちゃん」と、呼ばれる。とても、さびしそうな目だった。
「その本にはね、たくさんの言霊が記されてるんだよ」
「コトダマ?」
「そう。魔法の呪文みたいなものさね」
しゃがみこみ、祖母がサヤの頭を撫でる。
「さっき、ばあちゃんが唱えたのはふるのことと言ってね、その本にも書いてある」
「ふうん」
相づちを打って本に目を戻したけれど、サヤにはどれも見分けがつかない。
「ねえ、おばあちゃん。フルノコトはどんな魔法なの?」
「人ではどうにもできないことを叶えてくれる、とても強い魔法さ」
再び仰ぎ見た祖母は、ほの暗い顔で笑っていた。サっちゃんも困ったことがあったら唱えてみなさい――
それから一週間ほどが経つと、サヤの熱もさがった。朝ごはんを食べ終え、身支度を調えた午前七時半。サヤは祖母に見送られ、学校へ行くために家を出た。
新しい登校班にまざって、慣れない通学路を歩いていく。誰もいない隣を、サヤはぼんやりと見つめた。
登校班は、それぞれ住んでいる場所に合わせて決められている。以前まではサヤカと同じ班だったのだけれど、サヤが祖母に引き取られたことで違う班になってしまった。
同じ班になった子たちは、少なからずサヤの事情を知っていて、それとなく気をつかってくれる。でも、いつも隣にいたサヤカがいないのは、サヤにとってなかなか慣れないことだった。
よくよく考えてみると、サヤとサヤカは赤ん坊のころからの付き合いだった。同じ地区に住んでいたサヤの両親とサヤカの両親はとても仲が良くて、ずっと家族ぐるみの付き合いをしてきた。互いの家に招き合って同じ食卓につくことはしばしばあったし、休みの日にはみんなで遠出をすることもあった。遊ぶときはいつだって一緒で、喧嘩をしても一日と経たずに仲直りできた。
きっと、隣にいることが当たり前のようになっていたのだ。学校へ着けば会えることくらい頭でわかっていても、ふとしたとき、隣にいない姿をさがしてしまう。
でも、サヤカはどうなのだろう。サヤと同じように、違和感を覚えているのだろうか。それとも、いつもどおりの無表情で、いつもどおり学校に登校しているのだろうか――
ふいに、悲鳴が聞こえた。それに続いた大きな音。顔をあげれば、一台の軽トラックが見えた。速度を落とすことも、クラクションを鳴らすこともなかった。ただまっすぐに、乗りあげた歩道を走ってくる。同じ登校班の子どもたちが、次々とはね飛ばされていく。
サヤは、駆け寄ることも逃げることもできなかった。まるで石になったみたいに、足が動かない。頭によみがえる両親の死。作りものめいた死に顔。象牙の温度。よく知っているはずなのに、得体の知れない亡骸。
サヤの中の、なにかが恐れおののいた。心が、身体が、死を拒絶した。
「ひと、ふた、み、よ――」
とっさに口をついて出たのは、祖母が口にしていた「魔法の呪文」だった。
「いつ、む、なな、や、ここの、たり、ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ――」
たすけて。声にならない叫びをあげる。ざわりと、空気がふるえた。
気がつけば、サヤとトラックとの間には、黒い陽炎が立ちはだかっていた。鼓膜をふるわせる、獣のような咆哮。陽炎が、トラックへと飛びかかる。腕が振りあげられ、トラックを叩きつけた。とどろくような音がした。トラックは、おもちゃみたいに吹き飛び、コンクリートの法面にめりこむ。ひしゃげた車体は沈黙し、陽炎は音もなく地に降り立った。
そうして、すらりと立つ陽炎は、呆然と立ち尽くすサヤを振り返る。人の形をした黒い陽炎は常にゆらゆらと揺らめいていて、目も口も鼻もない。だけれど、サヤはその陽炎を知っているような気がした。
「助けて、くれたの?」
問いかけた声に、返事はない。陽炎の黒い腕がサヤへと伸ばされ、そして、
「滅」
聞き覚えのある声とともに、忽然と姿を消した。
知らず、サヤは瞬きをしていた。反射的に陽炎のいた場所へと手を伸ばし、けれども、それは先ほどの声に制された。「サヤ」
いつの間にか、すぐそこに息を切らしたサヤカが立っている。サヤカの登校班はこの道を通らないはずなのに、どうしてここにいるのだろう。不思議になって口を開くのと同時、言葉をかぶせるようにしてサヤカが言った。
「二度と、その言葉を口にするな」
「……サヤカちゃん?」
ひどく、こわい顔をしていた。まなじりがつりあがって、目はすがめられて、かすかに口の端も歪んでいる。
こんな顔をするサヤカを、サヤは知らなかった。いつだって無表情で、たまに見るのも少し不器用な笑みだけだったのに。
わけもわからず、サヤは困惑した。しかし、そんなサヤをよそにサヤカは続ける。
「サヤはあの人から何も聞かされていないだろうが、それは死者をよみがえらせる言霊だ。力をもつ者が気安く口にしていい言葉ではない」
サヤは、ますます混乱するばかりだった。サヤカちゃんは何を言っているの、死んだ人をよみがえらせるなんてそんなことできっこない、だってそれは物語の中だけのことでしょう、だってそうでなくちゃまるで――
サイレンの音が近づいてくるのを聞きながら、サヤの頭に浮かんだのは、暗い笑みを浮かべる祖母の顔だった。
この日、サヤの住む町では、軽トラックの運転手を含めた八人の死傷者が出た。そのうちの一人で同じ登校班だった同級生は、意識不明の重体となった。
一方で、あの黒い陽炎を見たという者は、サヤとサヤカを除いて、ほかに誰一人としていなかった。
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