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変化
両親が突然の死を迎え、暴走車に巻きこまれながらも、一人無傷だったサヤ。これまで気づかうようだった周囲の目は、事故をきっかけに一転した。サヤの下駄箱には、毎日のように「帰れ」と書かれた紙が貼られ、登下校中にすれ違う人たちは、それとなくサヤから距離を置く。遠巻きにサヤを見て、ひそひそ話をする彼らは、いつも同じことを口にした。呪われた子だ、祟られる――
けれど、事故をきっかけに変わったのは、サヤの周りだけではなかった。「ふるのこと」を唱えてからというもの、サヤの具合はまた悪くなっていた。寝こむほどではないものの、微熱が続き、たびたび立ちくらみを起こした。そんな不調を察してか。サヤカは決められた登校班を抜け出して、サヤの登下校に付き添うようになった。
周囲の変化に反して、サヤへ対するサヤカの態度は、何ひとつとして変わらなかった。以前のように、当たり前のように、肩を並べるサヤカの存在は、ひどくサヤを勇気づけた。反して、サヤは不安な気持ちにもなる。
「わたしと一緒にいたら、サヤカちゃんまで悪く言われちゃうよ」
学校へと向かう道すがら。ぽつりとサヤが呟くと、サヤカは目を瞬かせた。
「悪く言われる? 誰にだ」
「誰というわけじゃないけど、いろんな人」
「そうか」
淡泊に、サヤカは相づちを打った。
「サヤは俺が一緒にいるのは嫌か」
「そんなことないよ」
あわてて、サヤはかぶりを振った。「でも、わたしのせいでサヤカちゃんが悪く言われるのは違うよ」
サヤにとって、サヤカは一番の友達だ。大好きで、大切で、自慢の友達だ。だのに、そのサヤカが、サヤのせいで悪く言われてしまったら。
うつむいて唇を引き結んだサヤの耳を、ため息の音がふるわせた。
「別に今さらだ。サヤが俺をちゃん付けで呼ぶから女男と呼ばれている」
「えっ」
初耳だった。弾かれたみたいに顔をあげる。
物心ついたころには、サヤはとうにサヤカを「サヤカちゃん」と呼んでいた。つまりはサヤが知らなかっただけで、もうずっと昔からサヤカは――
自然と、サヤの眉尻はさがっていく。慰めるみたいに、サヤカの手が頭にふれた。
「サヤは気にしなくていい。俺にとってはどうでもいいことだ」
「だけど」
そう食いさがったとき、突然の痛みが頬に走った。
「サヤ!」
何が起きたのか、わからない。思わず、頬を押さえたサヤの足もとに、石が転がった。サヤカの手が宙をさまよい、きつくこぶしを握る。鋭くなった視線の先には、サヤと同じクラスの男子生徒が立っている。
「学校にくるなって言ってるだろ! 帰れ!」
言葉とともに投げつけられる、つぶて。サヤカが素早くそれをはたき落とすのを見つめながら、サヤは自分の頬を打ちつけたものがなんだったのかを理解した。頬を押さえた手が、生温かくぬめっている。痛いはずなのに、どうしてか何も感じない。頭も、胸も、内側がぽっかりとしている。
サヤは「ここ」にいてはいけないのだ――漠然と思った。
のろのろと男子生徒に背中を向け、道をひき返す。すぐに、サヤカが追いかけてきた。
「サヤ、傷は」
問いかけてくる声が、とても遠く感じる。ぼんやりと、サヤは首を横に振った。後ろのほうで、威勢のいい声がする。二度とくるなよ人殺し――
サヤカが、きびすを返した。鈍い音がした。はっとして振り返った。男子生徒が、道路に転がっている。
「いってーな、何すんだよ女男!」
「サヤのほうが、おまえより何倍も痛い」
淡々としたサヤカの声には、怒りがにじんでいた。
「また同じようなことをしてみろ。次は手加減しない」
冷たい一瞥を投げ、サヤカはサヤの手を取って足早に歩きだした。
学校に背を向けながら、来た道を戻りながら、二人は無言だった。少し前まで、学校へと向かう児童で賑わっていただろう道は、今や誰もいない。耳鳴りがしそうなほどの、静けさだった。がらんどうの世界を、手を繋いだサヤとサヤカだけが歩いていく。
「俺は、サヤの味方だ」
サヤの手を握るサヤカの手には、痛いくらいの力がこめられていた。
「誰に何を言われようと、何が起ころうと、俺はずっとサヤの味方だ。だから」
もう泣かなくていい――
言われて初めて、サヤは自分が泣いていたことを知った。
足が止まる。無意識に押しとどめていたものが、一気にふくらんでいく。閉ざしていた心の扉が、内側から壊れていく。涙に押し流されるみたいにして、サヤの口からは、ぽろぽろと言葉がこぼれ落ちた。
「おとうさんとおかあさんは、わたしのせいで死んじゃったの。あのトラックを運転してた人も、そう――そうなんだ。きっと、わたしが殺したんだ」
祖母にも打ち明けられなかった罪の意識が、とめどなくあふれる。夜中に両親の写真を見つめて親不孝者だと口にしていた祖母、同じ事故に巻きこまれた子どもたちの家族――誰も何も言わないけれど、サヤはときどき、その目がおそろしくてたまらなくなる。オマエハイキテイルノニドウシテ――
サヤは、頭を抱えてうずくまった。
「あの子が――あの子が言ってたとおりで、わたしは、人殺しなんだ――わたしが、わたしが――」
「違う」
同じようにしゃがんだサヤカの手が、きつくサヤの両手首をつかんだ。「サヤは人殺しではない」
目と鼻の先に、サヤカの顔があった。まっすぐな目が、サヤの両目をとらえる。
「あれは事故だ」と、サヤカが繰り返す。「サヤは何も悪くない」
顔をそらすこともできなくて、サヤは目の前の瞳を見つめたまま、唇を噛みしめた。いくつもの言葉が頭の中に浮かんでは、口にできないまま消えていく。
「……でも、わたしが言霊を唱えなければ、あの人は死ななかったかもしれない」
やっとの思いで口にした声は、情けなくなるくらいにふるえていた。手首をつかむ力が、強くなる。それでも、サヤの言葉は止まらない。
「なのに、なのにね、わたし、死ぬのがこわいの。おとうさんやおかあさんみたいに、あんなふうに、なりたくないの。こわいの」
ひどいよね、悪い子だよね――泣きながら笑った顔は、きっとどうしようもないくらいにブサイクだった。だけど、サヤカは笑わなかった。ひどいとも、悪いとも言わなかった。それどころか、自分が痛そうな顔をする。
「サヤが死ぬ必要はない。サヤは俺が死なせない。約束だ」
差し出されたのは、小指だった。
「指きりだ。サヤは俺が守る。必ず、生かしてみせる」
「わたしにそんな価値ないよ」
「それは俺が決めることだ」
強い口調で言いきって、サヤカは半ば強引に小指をからめた。そのまま、サヤカが歌を口ずさむのに合わせて、サヤもか細い声をしぼり出す。ゆびきりげんまん、うそついたら――
「嘘はつかない」
またひとつ、サヤの頬を涙が伝った。
こうして、サヤは学校へ行かないようになった。
事の発端から三日後。事情を知った担任の先生が家を訪ねてきた。先生は、もうこんなことがないようにするとかなんとか、たぶん、そんなことを言っていた。だけど、サヤは外へ出るのがこわかったし、祖母は今回のことに対して、ひどく憤慨していた。
「馬鹿いうんじゃないよ! そんな物騒な場所にあの子はやれないよ!」
玄関先で怒鳴り散らして、祖母は先生を家にあげることなく追い返した。サヤは部屋にこもっていて、実際にやりとりを見ていたわけではなかったけれど、声は部屋まで届くほどだった。
もともと、サヤは外で活発に遊ぶ性質ではない。祖母や、学校帰りに立ち寄ってくれるサヤカと過ごす以外は、部屋で本を読んだり、考えごとをしたり、眠ったりしていることが多かった。
ただひとつ。ひとつだけ、違うことがあるとすれば、それはサヤが眠って目覚めた先にある「イメ」での暮らしだった。
ティルノグの屋敷で過ごす時間は、サヤにとって特別だった。なぜなら、そこにいるサヤは「人殺し」ではない。呪いじみた運命を背負ってはいたけれど、それはテトスだって同じこと。後ろ指をさして、「呪われた子」と、そう囁く人はいない。サヤが傷つけられることも、責められることも、ない。
手つかずの自然であふれ返ったうつくしい景色、数えきれないほどある不思議なしきたりや風習、食べ方さえわからないような未知の食べもの――ティルノグに存在する何もかもが、ふさぎこむサヤの気をまぎらわせてくれた。
サヤから両親を奪った夢の世界は、いつしか、現実よりもやさしい世界へと姿を変えていた。サヤが逃げこむことのできる、数少ない場所になっていた。
「そういや、サヤの言葉は祈祷師たちの言祝ぎに似てるな」
獣避けのまじないを唱え終え、ふとテトスがそんなことを言った。
「ユビキリ、だったか――あのとき、あんた変なこと言ってただろう。嘘ついたら針を千本も飲ますだとかなんとか」
森を探索するというテトスについてきていたサヤは、これに目を細める。
「あれはただの歌だよ。オヤクソクというか、そういうの」
だから、まじないとは違うし、本当のことでもない。ましてや、ティルノグでは、針はとても高価なものなのだ。大人の女性は一人一本の針を針入れに入れて、いつも身につけているくらいに。それを千本だなんてとても用意できっこない――そう言ったら、テトスはゆるりとかぶりを振った。
「いや。あれは、たしかに『本当』だった」
いわく、
「祈祷師が口にする言葉ってのは、それだけで力があるんだ。わかりやすく説明すりゃあ、痛くないと唱えただけで本当に痛みを感じなくなる。まじないの呪文とはわけが違うんだ」
「じゃあ、嘘を言っても本当になるの?」
「場合にもよるらしいけどな」
道をふさいでいた倒木の上に飛び乗りながら、テトスが答えた。振り返りざまに差し伸べられた手を借りて、サヤも木によじ登ろうとする。けれど、苔むした幹の表面は、やたらつるつるとすべる。苦戦するサヤを見おろして、テトスは苦笑した。
「本当に鈍くさいよな、サヤは」
「どうせ、わたしは鈍くさいよ」
むすっとして言い返したとたん、テトスが言った。「それだ」
「それって、どれ?」
「あんた今、自分が鈍くさいって言ったろ」
「テトスが最初に言ったんだよ」
「そりゃあそうだが。あんた、俺の話ちゃんと聞いてたか?」
やっとこ木の上に立って、サヤは頭をひねった。テトスとの会話を思い返す。サヤが鈍くさいという話の前、場合によっては嘘も本当になる、祈祷師が口にする言葉はそれだけで――
「あ」
思わず、声がもれた。
「わたしが悪いことを言ったら、それも本当になるかもしれないの?」
「可能性としちゃあ十分に考えられると思うぜ。あんたの言葉には力がある」
今はここにいない、サヤカの言葉がよみがえった。力をもつ者が気安く口にしていい言葉ではない――
現実では、たしかに不思議なことが起こった。黒い陽炎はもちろんのこと、両親の死だって、その中に入るだろう。
なんとなくだけれど、サヤはイメで不思議なことが起こることは「不思議」ではないと思っていた。でも、もしも、サヤカやテトスの言うように、サヤの言葉に不思議な力があるのだとしたら。そうだとしたら、イメもウツツも、本当は違いなんてないのではないだろうか。両親の身に起こったことも、サヤの身に起こっていることも、すべてが「不思議」ではないとしたら――
「ちったあ口には気をつけるこったな」
指で額をこづかれて、サヤは我に返った。
「ま、安心していいぜ。多少の尻ぬぐいくらいは俺がしてやるからよ」
テトスが、八重歯を見せて笑う。
「……セクハラ」
「あ? なんだそれ」
ああ、そうだ。ここには、そんな言葉はないのだった。
だけど、わざわざ意味を説明するのも恥ずかしい。
「なんでもないよ」
結局、サヤはそっぽを向いてはぐらかした。
柔らかい土を踏みしめ、白い木立の間を、二人して、じゃれあうように駆け回る。テトスが唱えたまじないのおかげか、木漏れ日の踊る森の中は静かで、互いの声がよくとおった。
サヤは、見たことのない植物や虫などを見つけては、テトスを呼んだ。父親のタルファが、かつて木こりだったこともあるのだろう。テトスは森にあるもののことを、よく知っていた。サヤがなにかひとつでも問いかければ、タルファや自身の経験を交えて、おもしろおかしく語って聞かせてくれた。
テトスは、何も知らないサヤのことを、決して馬鹿にはしなかった。度重なる問いにも、嫌な顔ひとつしない。だから、サヤも安心してテトスに話しかけることができた。
けれど、テトスにも知らないことはある。こと、花の名前に関して、テトスはめっぽう疎かった。
「たしかに、この時期になると、しょっちゅう見かけるんだが、なんつー名前だったか」
片眉をあげたテトスが、しげしげと足もとの花を眺める。この日、サヤが見つけたのは、袋状の黄色い花弁を無数につけた花だった。
サヤは花のかたわらへとしゃがみこみ、そっと顔を近づけてみた。キンモクセイのような、甘い香りがする。
「わあ」
自然と、サヤの声は弾んだ。
「このお花、とってもいいにおいがするんだね」
「サヤはその花のにおいが気に入ったのか」
「うん。わたし、こういうにおい好き」
笑顔で振り返ると、テトスは「へえ」と呟いた。かと思うと、サヤの隣に並んで片膝をつく。目をつむって胸の前で組まれた印に、サヤは見覚えがあった。祈りだ。テトスが、花に祈りを捧げている。
ティルノグでは、サヤは決して「自然のものに手をだしてはいけない」と言いつけられている。草も、花も、果実も、水も、自然の中にあるものは、決して勝手にしてはならないと。
というのも、この地の自然には妖精や精霊が宿っていて、その恩恵にあずかるには彼らに祈りを捧げる必要があった。それも、ただ祈りを捧げればいいわけではない。宿る妖精や精霊の機嫌を損ねず、捧げた祈りを受けとってもらう必要があるのだ。
これにはちょっとしたコツがあるらしく、下手をすれば手痛いしっぺ返しをくらう。かつての過ちから、妖精の呪いをおそれているタルファは、未だ、サヤには祈り方を教えてはくれない。庭のレテを採るときだって、サヤは必ず別の誰かに頼んでいる。
祈りを終え、再びテトスの碧い目が開かれる。伸ばした手は、ためらいなく花を摘み取った。
「ほらよ」
何気ないようすで、花が差し出される。反して、サヤは手を伸ばすことをためらった。
「これ、もらってもいいの?」
「あ? 俺が持ってくレテは食うくせに、花だと遠慮すんのか」
「ううん。そうじゃなくて」
心底怪訝そうにされ、サヤはもごもごと口を動かした。
「レテの実は、木になっているひとつかふたつでしょ。だけど、このお花は一輪だけだから、もともと宿っていた妖精さんはどうなっちゃうのかなって」
宿る場所をなくしてしまったら、妖精はどうするのだろう。消えてしまうのだろうか。それとも、また別の場所をさがすのだろうか。だけど、そこにもきっと妖精はいるはずだから、場所の取り合いにならないだろうか。帰る場所を、なくしてしまわないだろうか――
これに、けれども、テトスは笑った。
「そんなこと心配してたのか。まあ、あんたらしいっちゃあらしいか」
「笑うことないでしょ。真面目に考えてるのに」
「ああ、悪い悪い」
謝りながらも、テトスは笑いをこらえきれないようすだった。
たしかに、サヤはティルノグの常識なんてほとんど知らないけれど、馬鹿にされているみたいで、なんだかおもしろくない。ぶすくれるサヤを見て、テトスは「悪かったって」と繰り返した。
「何も花を摘んだから、宿る場所がなくなるわけじゃねえよ。そのまま、花が枯れるまで宿ってることだってある」
「じゃあ、お花が枯れてしまったら?」
「魔に還る。妖精や精霊ってのも、もともとは魔獣なんかと同じようなもんで、ティルノグとは別のところからきてるんだとよ。所詮、こっちは仮宿みたいなもんだ」
「ふうん」
なんだか少しだけ、サヤの置かれた状況に似ている。そう思った。
「とにかく、あんたが気にするようなことはねえよ」
少しじっとしているように言われ、サヤは大人しく従った。橙を帯びた黄色い花が、テトスの手によって、髪に差しこまれる。ふわりと、花が風に香った。サヤのぐるりを、甘い香りが包んでいく。
花の咲いていた場所に向かい、サヤは見よう見まねの印を組んだ。目を閉じれば、森のこずえが音をたてる。遠くで、小鳥のさえずる声がしている。ゆっくりと、テトスの立ちあがる気配がした。
「そろそろ帰るか。まじないの効果も薄れてきたみてえだしな」
「うん」
うなずいて、サヤも立ちあがる。辺りには、いつしか、ちらほらと小動物の姿が見えるようになっていた。花の香りを肺いっぱいに吸いこんで、テトスの後を追いかける。
「お花、ありがとう。大事にするね」
振り返ったテトスは、にかりと歯を見せて、「おう」と、いつものように笑った。
そのとき、向けられていた表情が一変する。強い力で腕を引かれ、サヤはたたらを踏んだ。テトスの後ろへと追いやられ、既視感を覚える。陽光であふれていた森に、影が差す。ひやりとした空気が肌を撫で、白い靄が立ちこめる――
「しつけえやつだな」と、テトスが低く言った。
まさか。サヤははっとして耳を澄ませた。白く煙った森の奥から、獣の足音が聞こえてくる。霧に映るその影を目にして、サヤは瞠目した。
二本の角を掲げ、毒々しいほどに赤い瞳をもつ馬のような獣。サヤから魔素と呼ばれる力を奪い、この森に縛りつけようとした魔獣。
「なんで。だって、獣避けのまじないは」
「あっちの呪いが勝ったんだ。薄れたまじないで、避けられる相手じゃあないらしい」
返事は、おどろくほどに冷静だった。張りつめてゆく空気に、サヤは唾をのんだ。
「呪いって、勝ったって、どういうこと」
「こいつはずっと、あんたを狙ってんだよ」
事もなげに、テトスが言う。前にも言っただろ、この魔獣は気に入った獲物を手もとに置こうとする――
背にかばわれながら、サヤは魔獣を見る。そうして、気づいた。どうにも、ようすがおかしい。
「魔素の消耗具合からして、あれからずっと、呪いであんたを引き寄せようとしてたんだろうな。ご苦労なこった」
「あれから、ずっと」
小さな声で、繰り返した。サヤの目に映る魔獣は、明らかに弱っている。踏みだす足はおぼつかなく、ふるえ、まるで、テレビで見た生まれたての小鹿のようだった。立ちこめる霧も、以前ほど濃くはない。ふいに、テトスが言った。
「サヤ、あんたは逃げろ」
「テトスは?」
「足止めする」
短く返された言葉に、サヤは血の気がひいた。かぶりを振る。
「だめだよ、一緒に」
「いいから行け!」
ぴしゃりと、跳ねのけるような言い方だった。
「あいつの目的はサヤだ。俺になんざ興味ねえ。わかんだろ、あんたがいるから追われるんだ」
「そうかもしれないけど」
テトスをおいて逃げるなんて、そんなことはしたくない。唇を引き結んで、サヤはうつむいた。それに、どうにも、サヤには気になることがある。
――悲しいことがあったの。ねえ、あなたは泣いてくれる?
あの日。両親の、二度目の葬儀があった日。そう問いかけたサヤに応えたのは、かすかな雨音だった。サヤは、それをなぐさめだと感じた。一緒に泣いてくれているのだと、そう思った。だから、言ったのだ。アリガトウ、ヤサシインダネ――
顔をあげ、テトスの肩越しに魔獣を見る。どうして、この魔獣はこんなに弱ってまで、サヤを呪いで引き寄せようとし続けたのだろう。テトスが言うように、サヤを手もとにおいて魔素をしぼりとるためだとしても、これでは本末転倒になりかねない。だって、魔素が尽きれば、人も、魔獣も、妖精も精霊も、みんな死んでしまうのだから。
サヤの頭によみがえるのは、サヤカが言っていた言葉と、テトスが教えてくれたこと。かばう背から抜け出すように、一歩を踏みだした。
「おい馬鹿、何やって」
「大丈夫」
止めようとする声をさえぎって、サヤは紡いだ。「大丈夫、なにもこわくないよ」
はっとしたように、テトスが息をのむ。胸の前で手を握り、サヤはテトスの前に出る。そして、魔獣のもとへと足を進める。
「あなたは、わたしを、心配してくれた。もう泣かないでいいように、ここで、守ろうとしてくれた」
ひと言ひと言を、かみしめて言葉にする。魔獣は身体をふらつかせて、なおも懸命に足を動かしている。サヤは、繰り返した。「ありがとう、やさしいんだね」
伸ばした腕で、たくましい獣の首を抱く。とたんに、魔獣は崩れ落ちた。引きずられるように、サヤも地べたに倒れこむ。けれど、決して、その身体からは離れなかった。転げた半身を起こして、獣の頭を膝にのせる。
「でも、もう大丈夫なの。悲しいことは、終わったから」
魔獣の頬をそっと撫でて、サヤは笑った。ありがとう、やさしい魔獣さん――
獣の赤い瞳に、おだやかな光が見える。辺りを覆っていた霧が、晴れていく。
「そうか、これが」
言祝ぎなのか。かすかなテトスの呟きを耳にしながら、サヤは魔獣の頭を撫で続けていた。
古い、紙のにおいがする。
サヤが目を開けると、そこはぐるりを本棚に囲まれた部屋だった。吹き抜けになっているそこからは上の階のようすもうかがえて、壁沿いに並び立つ本棚は見あげただけで首が痛くなった。遠い円形の天井には、青空と夜空が渦を巻いて混ざり合っているような、そんな不思議な絵が描かれている。
「ようこそ、イメとウツツの狭間へ」
よく通る男の声だった。首を巡らせれば、繰り返し夢でみた男が、階段の中ほどに足を組んで座っている。
「あなたは」
サヤの言葉に、男は金色の瞳を細めた。
「どうやら、ようやく言葉を交わすことができるようになられたようだ」
立ちあがり、靴音を響かせながら、男が階段を降りてくる。サヤの前までやってきた男は、うやうやしく一礼をした。
「私は狭間に住まう者。この館を管理し、人々に可能性を与える存在。ゆえに名などは持ち合わせておりませんが、必要とあらば、ハザマと、そのようにお呼びください」
「ハザマ?」
オウム返しに名前を口にする。男は笑みを深くし、宙に手をかざした。たちまち、何もなかったそこに一冊の本が現れる。以前、サヤが男から渡された表題のない古びた本だった。
本は独りでに開き、ページが走る。白き枝角の伝承を駆け抜け、誰の足あとも残らない白紙の地で立ち止まる。
「此度、きみはまたひとつ、自身の力で新しい縁をつかみ取られました」
物語るかのような口調で、男――ハザマは言った。
「それは、迷いの森に住まう魔境の獣。古くは人々に恐れられた霧の魔獣。名を、フィアーラフカといいます」
内側からインクがにじみ出るみたいに、開かれた白紙のページに、光り輝く文字が浮かびあがる。金色の光が、辺りを照らした。
浮かびあがった文字はひとつ、またひとつと光りを失い、やがて、そこに「霧の魔獣の伝承」と題されたおとぎ話を記しあげる。ハザマに手でうながされ、サヤは宙に浮いた本を手に取った。
「これが、あの魔獣さんの物語なの?」
「いいえ」
ハザマは、ゆるくかぶりを振った。
「これはあくまで、フィアーラフカという種にまつわる伝承にございます。きみが縁をつかみ取った個体のたどる旅路とは、また異なるもの。彼の魔獣には確定された未来の記述が存在しないのでございます」
「よくわからないけど……あの子は、誰かを傷つけなくても生きられるの?」
「結論のみをいうのであれば、可能です。それによって、きみが運命に食らわれることはございません」
「そっか、よかった」
小さく笑みをこぼすと同時、サヤの胸は少しだけ、ちくりと痛んだ。サヤは、サヤが生きるためには、テトスの呪われた運命を変えてはいけない。テトスは呪いなんて恐くないと言っていたけれど、サヤはやっぱり自分が消えてしまうのがこわい。でも、裏切られながら生きていくことになるだろうテトスを思うと、それもまた、つらいのだ。
「決して、在るべき運命を違えてはなりませぬ」
サヤの胸のうちを見透かしたように、ハザマが言った。金色の瞳が、まっすぐにサヤを見つめている。それが、どうしてかとてもこわくて、サヤは黙ってうなずくことしかできなかった。
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