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目の前でゆっくりと閉まる扉を見守っていたマスターは、カウンターで寝ている彼女へと視線を移す。彼女のゆるふわな髪が一つに束ねられ、そこには真っ白な首筋が露わになっていた。
静かにカウンターを出て要の背後に回り、その白い首筋を間近で眺める。マスターの心臓はドクリドクリと音をたて、喉がゴクリッと鳴った。彼の口がゆっくり開くと、そこには異様に長い犬歯がギラリと怪しい光を放つ。
…が、その時、
「やっぱカナ送ってくわ。俺もタクシー乗って帰ろうかと思って」
帰ったはずの博樹が再び店の扉を開けた。彼女を心配して戻って来たようだ。まるで何事も無かったかのようにマスターは、「そうしてくれるとありがたいよ」と笑顔で振り返る。博樹は「いえいえ」と返して要の隣の席に座り直し、要を挟んで反対側の席にマスターは軽く腰かけた。
「確か一年前にもあったよね……先に寝ちゃった要ちゃんを博樹君が送ったこと」
「そういやあったな……マスターよく覚えてるね?」
「僕はてっきりあの時、博樹君が送り狼になったんだと思ってたけど」
ギョッとして博樹の呼吸が一旦停止する。マスターは変らない糸目で微笑んでいた。
「バレてたのか……」
「だってあの日から君ら、お互い呼び捨てになったからね」
「あちゃ、いっけね! でもあれ以来カナとは寝てねーよ? 今はただのダチだよダチ。だから狙うなら今だぜ?」
そう言って博樹はマスターにウインクして見せる。そんな彼に嘆息すると、店の外からプッという車のクラクション音が響いた。
「博樹君、要ちゃんにも意思はあるんだよ? モノじゃないんだから……」
「そうだった。この粗大ゴミ、家まで届けねーとな」
「こらこら」
憎まれ口を叩きながらも博樹がカナを背負おうとして、マスターはそれを手伝った。未だ起きる気配の無い彼女を背に、博樹は店外で待つタクシーへと向かう。一歩、また一歩と階段を昇る二人の背中を、店の扉に寄りかかりマスターはじっと見守っていた。
タクシーヘ乗り込み運転手に行先を告げた博樹は、一度店を振り返って店長と目を合わせると、口だけを「また来るね」と動かして片手をヒラヒラと振ってみせる。二人を乗せたタクシーは、ゆっくりと滑り出すように発車した。タクシーが消えて行ったその先のビルの谷間から、鮮やかな満月がこちらをじっと覗いていた。
二人を見送り、急に喉の渇きを感じたマスターは、急いでカウンターへと戻って、そこに置いてあったブラッディ・マリーをゴクリゴクリと勢い良く飲み干す。要が「変な味がする」と言った一杯目のカクテルだ。口元に付いた赤い汁を手の甲で拭うと、それさえも長い舌でペロリと舐めとった。
「はぁ……渇くなぁ……」
要の美味しそうな首筋を思い出し、それを打ち消すように頭を左右に振る。そしてカウンターの空の箱を手に取る。このチョコを贈った女性は看護師をしていて、今マスターが飲み干したカクテルの赤い液体の提供者でもあった。
「片想い……か」
この店を始めたのは、マスター自身の喉の渇きを潤す為であった。営業は細々ではあったが、いろんな人間が訪れる。勿論最初は、その都度自身の喉を潤すことを忘れてはいなかった。しかし二年前から二人が訪れるようになり、いつしか週末の夜が待ち遠しくなっていた。彼らと過ごす時間は、ついつい喉の渇きも忘れる程に。
壁掛け時計を見上げると、時刻はAM3:52、もうすぐ閉店時間だ。閉店時間を過ぎればじきに、マスターにとっては忌々しい朝がやってくる。
(朝は嫌いだ。それに本能を思い起こされる丸々と太った月も……)
それさえ無ければ彼らと何も変わらないのに……そう思いながらマスターは、赤い筋が僅かに残る空のグラスを、丹念に丹念に洗うのだった――
<完>
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