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繁華街が賑わう金曜の夜。とある雑居ビル地下一階に、その店はひっそりと営業中の看板を掲げていた。
BAR『Coffin』
営業時間:20時~翌4時
手首を返すと細いベルトの腕時計はPM8:12を表示している。カツンカツンと少しおぼつかないヒール音が、店へと続く階段を響かせる。階下のダークブラウンの扉を開ければ、暗い店内を照らす間接照明の柔らかな光と、静かに流れるジャズミュージックが客を出迎えた。
「やぁ、いらっしゃい。要ちゃん」
カウンター越しにマスターがいつもの糸目で優しく微笑む。その笑顔にホッと頬を緩ませたパンツスーツ姿の彼女は、カウンターに六つ並んだ席の奥から二番目へ吸い込まれるように座った。
この店はマスターひとりとカウンター席だけで営業するとても小さなBARで、この席が毎週末やってくる彼女の特等席となっている。着席すると目の前にはもう、コルクのコースターが一つ置かれていた。
「いつもので?」
「あ、うん。お願い」
壁一面に並ぶ酒瓶を背景に、マスターがタンブラーグラスへウォッカを注いだ。
初めて彼女がこの店を訪れた二年前から、一杯目は『ブラッディ・マリー』と決まっている。ウォッカベースのトマトジュースを用いたカクテルで、「食生活に野菜が足りない」と、最近体に気を遣い始めた彼女のお気に入りだ。
なみなみと注がれたトマトジュースで赤く染まったグラスをバースプーンで掻き混ぜれば、カランカランと小気味の良い音がカウンターに響いた。
「はいどうぞ」
「いただきま~す」
ひんやりとしたグラスに口をつけ、真っ赤な液体を流し込む。
「あれ? マスターこのトマト大丈夫? いつもより変な味するけど……」
そう言われ、再びグラスを受け取り一口すすると、マスターの切れ長の瞳はカッと見開かれた。確かにトマトの新鮮さは無く、生臭い味が口に広がる。
「ゴメン! すぐ取り換えるね。お詫びに一杯目はサービスさせて」
「マジ? やったー。マスター間違えてくれてありがとー」
苦笑しながらもマスターはカクテルを作り直す。再び置かれたグラスを口にすると、「これこれ~」と言って要は満足そうにそれを飲み下した。
「そう言えば要ちゃん、今日は一段と疲れてる?」
「それが聞いてよマスター」
彼女の『聞いてよマスター』は、この二年間幾度となく聞かされた常套句だ。この言葉が出るのは、彼女が精神的に参っている時と決まっている。それをただただ黙って聞いてあげるのが、この店のマスターの役目だった。
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