友達以上○○未満 ~二種のサンドイッチに紅茶を添えて~

1/1
80人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 ヴ、壁の向こうで音がする。さっきからひっきりなしに鳴っているけど、いいかげん用件を済ませたらどうかな。週末だというのに珍しく同居人がいて、いつもなら気にならない通知の短いバイブ音、小さな咳払い、それに、音ともつかない気配までがちくちくと皮膚に障る。  今日が返却期限のDVDもまだ見ていない。テレビとゲーム機、冬は炬燵になるテーブルはダイニングで共有していて、今まで一度も不便や不満を感じたことのなかったそのことが、今はとても億劫に感じる。  ヴ、と、また音。  ケーブルに繋ぎっぱなしの自分のスマホは暗く沈黙したままで、意味もなく通知ゼロを確かめてもため息が出るばかり。  熱帯夜の寝苦しさような奇妙な苛立ちが、もう何日も続いている。  きっかけは同居人の一言だった。  初めはただ気まずかった。そのうちに、そんな気持ちにさせた彼に腹が立ってきて、そうしたらあっちまでなぜだか不機嫌になって。言い合いを最後に、口をきいていない。  何度目かのため息を吐く。そうするたびに、体内のもどかしい気持ちばかりが濃くなっていくような気がする。寧人(やすと)は掛け布団を抱きしめて、ごろりと寝返りを打った。  啓(ひらく)とは元々、学生寮のルームメイトだった。一部屋四人の自治寮は、プライバシーはないし行事は多いしあちこちでトラブルが起きるしで、自分には合わないと入ってすぐに痛感した。同室の彼も同じように感じていたらしく、社交的と内向的、文系と理系、イケてるほうの鈴木とイケてないほうの鈴木etc……タイプはずいぶん違ったが不思議と馬の合った自分たちは、なにかとつるむようになった。そして翌年には、寮の更新手続きをせずに、二間のアパートを探して同居を始めたのだ。ありふれた鈴木姓に生まれると、同居人と表札の苗字を分かち合うことになったりもするらしい。まるで結婚したみたいだなんて言って笑ったっけ。  学部が違うから大学では滅多に会わないし、週二日の家庭教師でじゅうぶんな寧人と違って、バイトと遊びで多忙を極める彼はあまり家にいなかったが、せっかく寮を出たというのに結局リビングで一緒にいることのほうが多い自分たちは、何もかも違うのに、どこか似た者どうしだった。  今朝、彼のノックを寝たふりで無視した。  喧嘩どころか言い争いすらほとんどしたことがなかった自分は、いつまで意地を張ったらいいのかすっかりわからなくなっている。休日の立てこもりはもうとっくに限界で、気づけば彼の気配を追ってばかりいるし、こうするうちにもDVDの返却期限は迫っているし、空腹で切ないし。  腹の虫がきゅるると鳴く。寧人はベッドを降りて部屋を出ると、斜め向かいのドアをわざとノックなしに勢いよく開けた。  細長い身体をクッションに預けてスマホを弄っていた啓が、驚いたように顔を上げる。 「……なに」  咳をしていたせいか、少しいがらっぽい声。 「腹減った」 「あ、うん、そう」 「啓は?」  ボストン眼鏡の奥で、血統の良い猫のような形の目が瞬く。 「……減ったな」  啓は唇だけで笑い、ゆっくりと立ち上がった。 「なんにする?」  こちらを見ずに、冷蔵庫の中に向かって問いかける。取り澄ました頬にはほんのわずかに戸惑ったような色が浮かんでいて、そうやって彼がおずおずと醸すはっきりとはわからない感情を探ろうとすれば、コピー&ペーストのようにそれが伝染してしまい、ざわついた気持ちのまま同じように自分も彼の顔を見られなくなる。 「……サンドイッチがいい」 「食パンあったっけ」 「うん」  キャビネットの上には、六枚切りの食パンが四枚残っている。 「なに挟む?」 「卵ある?」 「ある」 「じゃあ卵と……ツナ缶ないや」 「ハムならある。あ、きゅうりも」 「いつの?」 「だいじょぶでしょ、たぶん」  言いながら彼は卵を二つ小鍋に入れ、水道の蛇口を捻り、コンロのスイッチを押した。  啓は格好いい。手脚が長くてスタイルが良く、猫背気味だがそんなところもなんとなく彼らしい。いつもおしゃれな服を着て、髪型にも気を遣っていて、大きなボストン眼鏡もよく似合っている。それに――いや、それなのに、かな。ファッションサイトのストリートスナップに混じっていたっておかしくないような洒落者なのに、頭のてっぺんからつま先まで洗いざらしの寧人には何も口を出してこないところが好きだった。  啓がふとこちらを見る。食パンの袋を開けながら横顔をぼんやり眺めていた寧人の目を、眼鏡の奥の形のよい目で捕らえ、わずかに細める。 「俺、お前に振り回されてるよな」  寧人はその眩しい表情から逃げるように、彼に背を向けた。 「……振り回されてるのは俺だよ。啓のせいで、こんなことにさ」  瞬間、真後ろで制するように声が上がる。 「そんなふうに言うな」  鋭く、静かな声だった。 「俺の、お前への気持ちを、お前がさ、そんなふうに」  心臓がぎゅっと締めつけられるのと当時に、とくとくと走り出す。せっかくお互い、なんでもない顔で元に戻ろうとしていたのに。なぜお互い、気持ちがこぼれてしまうのだろう。このままじゃまた、喧嘩になる。そう思うのに。 「……啓は、ひどいよ」 「なんで、ひどいの」 「俺の気持ちはどうなるわけ。答えはいらないって、なんだよ一方的に」 「それは」 「けじめつけたいだけって言ったけど、お前はそれですっきりして、はい終了でいいかもしれないけどさ」 「だって、お前、困るでしょ」 「そうだよ、困ってる。その後ずっと気まずいし」 「だからって無視するな」 「腹立つし」 「俺だって腹立つよ」 「ほら、そういうとこ」  小鍋の水より先に沸騰してしまった感情に任せて彼を振り向き、見上げると、しかしなぜか彼は眉を下げて笑っていた。そして、あの時のように、まっすぐに言うのだ。 「好きだ」  寧人はやはりあの時のように、怒り出したいような泣き出したいような気持になって、彼をなじることしかできない。 「聞きたくなかった、バカ」 「でも好き。以上」  Q.E.D.(証明終わり)、とでもいうように冷たく言って、啓は寧人の頭をそっと小突いた。それからボストン眼鏡をくいっと上げて、たぶん、少し照れたのだろう。黙ってコンロに向き直った啓の隣りで、寧人も食パンの用意を始める。サンドイッチを二人で作る時、話し合うわけでもなく、なんとなく役割が分かれるようになった。マーガリンをスプーンの背で削りながら、啓が寮を出たいと思った一番のきっかけは冷蔵庫のマーガリンを勝手に使われたことだと言っていたことを急に思い出し、ふっと吹き出しそうになるのを堪える。  かたゆで卵は十三分。啓は粗め、自分ならペーストになるくらい細かくする。今日は啓が荒めに潰したやつだ。きゅうりは斜めに薄く切って、塩を振ってしばらく置いてから水気を取って使うのが二人の定番で、前に寧人が小説で読んだのを真似してやるようになった。  ありったけハムときゅうりを重ねたのと、それより分厚い卵サンド。二種類のサンドイッチをそれぞれ半分に切って、二枚の皿に乗せる。  やはり小説の影響で、サンドイッチの時は紅茶を飲みたくなる。ティーバッグを浮かべたマグカップを一つ差し出すと、啓が顔を上げた。 「これ見なくていいの?今日まででしょ」  眺めていた準新作の映画のパッケージをこちらに向けて言うので、少しばかり恨めしく思いながらも頷く。 「うん。一緒に見る?」 「面白いの?」 「そんなの、見なきゃわかんないよ」 「だな」  向かい合って座り、いただきますと口の中で呟く。啓はハムきゅうりサンドに、寧人は卵サンドに齧りつくと、しばし無言の咀嚼がリビングに満ちる。卵サンドって、潰したゆで卵を塩こしょうとマヨネーズで和えたのを食パンに挟んだだけなのに、なんでこんなにおいしいんだろう、などと、空腹に沁みるのは感傷に近い。 「寧人は、俺らが始めて一緒に食べたものおぼえてる?」 「向かい合って?」 「向かい合ってはいなかったな」 「なにそれ」 「隣り合ってたから」 「もしかして、サンドイッチとか言う?」 「さあ。おぼえてないなら、いいよ」  このタイミングで、この口ぶりということは、たぶん正解なのだろう。とかいう推理はあまりにつまらない。出題したほうは既に関心の消えたような顔で、またサンドイッチを齧っている。  つん、と糸を引いてティーバッグを泳がせてから、熱々の紅茶をちびりと啜る。 「あの、さ、啓」 「んん?」  咀嚼の合間からの不明瞭な返事に思わず笑って、寧人は一度、唇を結んだ。 「あのさ。終わりにしないでよ」 「……なに?」 「まだ、一緒にいたい」  最後の一口を残したハムきゅうりサンドが、皿に戻される。テーブルのへりを彷徨う長い指をじっと目で追いながら、そのきれいな爪に向かって言う。 「啓、いっつも、俺には言わずに女の子と付き合ってたよね」 「あ、うん」 「しかも、別れたあとで俺に教えるし」 「まあ、うん、そうだね」 「別れたあと、会ったりする?」 「二人っきりでとかは、ないな」 「……俺は、そういうふうになるの、やだ、から、さ」  彼の恋愛にはいつも、終わりがある。  自分が知っているのはそのことだけで、一番耐えられないのもたぶん、そのことなんだと思う。  彼との二人暮らしは本当に心地よい。靴の揃え方、洗面所の使い方、食事の作法、ひとつくらい気に入らないことがあるはずだと思っていたのに、いつまで経っても笑ってしまうくらい見つからない。この関係がなくなってしまうのは嫌だ。けじめをつけるなんて言って、勝手に諦めて終わりされてしまったら、自分だけ残されるのじゃないかって。 「変なこと言ってるかもしれないけど……でもさ……やだよ」  まるで告白みたいだとわかっているから、頬が熱くなる。  不意に紅茶の水面が揺れる。ああ、違う、泣きそうなんだ。 「……ごめん」  声が裏返りそうになるのを、ごまかすように鼻を鳴らす。 「寧人、それやばい」 「……なに?」  恐る恐る上げた寧人の視線を避けるように俯いた啓は、口元を手覆って、指の隙間からくぐもった声を漏らした。 「にやける……」  ちりりと焼け焦げそうなほどの熱が、耳まで広がった。  100分と少しの映画を見て、満足と不満を半々くらい抱えたまま連れ立ってレンタルショップへ行った。なかなか決まらないでいたらしい明日の予定から一抜けした彼と夜通しドラマを見る計画が急に持ち上がり、ずっと気になっていたシリーズを五本借りて、帰りにコンビニでしこたまスナックを買い込んだ。川沿いの遊歩道をまわっていこうと提案すると、ビニール袋の取っ手を片方さらわれて、反動でよろめきながら二人で歩き出した。 終わり
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!