道で拾った手首と僕の幸せな生活

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道で拾った手首と僕の幸せな生活

 いつもの通学路に、手首が落ちていた。  最初、白い花が咲いているかと思った。だが近づいてみると、それは確かに人の手である。仰向け……と言っていいんだろうか。手のひら側を空に向けて、ただそこに落ちている。手首の関節あたりでちょうど千切れ、黒いアスファルトにぽつんと放置されていた。  交通事故でもあったのか? 首を巡らせたが、それらしい痕跡はない。手首のほかに肉片などなく、血痕すらない。住宅地で何の騒ぎにもなっていない。  僕はさらに近づいた。真上から見下ろしてみる。うん、やはり人の手だ。そしてやはり花のようだった。五本の指が空に伸び、真っ白で、とても綺麗だ。  初夏の夕方、アスファルトはそれなりの熱さだろう。黒い地面に綺麗な手首。  あたりを見回してみる。閑静な住宅地に、通行人はいない。僕はそれを拾い上げた。ハンカチで丁寧に包み、カバンにそっと忍ばせて、五分歩いた先の自宅へと持ち帰った。  家族にタダイマの挨拶をしすぐに自室へこもった。ハンカチを、机に、広げる。  何度見ても人の手だ。すんなりと長い指にしなやかな爪先。女性的で美しいが、そばで見ると意外に大きい。  僕は自分の手をあわせてみた。やはり大きい。指は関節一つ長く、そのぶん太さがある。たぶん持ち主は、165センチの僕よりも大きなひとだ。男性かもしれない。年は若いだろう。少し骨ばった甲に対し、ふっくら肉付きがよい掌。ぎゅっと、握ってみる。柔らかい。そしてあたかかった。  ふと、今更ながらくるりとひっくり返してみる。断面はなんともスッキリしたものだった。つるりとしたピンクの肉壁である。スーパーで売ってるブツギリ肉よりよほど綺麗。これだけ新鮮ならばまだ出血しているはずだし、そうでなくてもジワジワにじみ出てくるだろうに。僕はそこを指で押し、さらに白い紙に判を捺してみた。指も紙も、まったく汚れなかった。  手のひらに顔を寄せてみる。スンスンと音を立てて嗅ぐ。腐敗臭も血の匂いもなかった。当たり前に体臭がある。清潔な人肌のにおいと、遠くに若花のような香りがした。端的に言えば、いい匂いだった。  僕はこの手首が好きになった。もしかしたら一目惚れだったのかもしれないけど。  手首といっしょに暮らし始めて、二ヶ月が経った。手首はやはり腐敗などせず、相変わらず白く美しかった。時々濡らした布で拭いてみたが、垢などは全く出てこない。  しかし不思議と、爪が伸びる。伸びる速さが指によって違うのか、放っておくとバランスが悪い感じになった。しかし僕には爪切りを当てられない。恐ろしかったのだ。人の爪を切るなんて、もしケガをさせたらどうしようかと。  僕はドラッグストアで女性用のネイルケアセットを買ってきた。説明書を熟読し、おっかなびっくり二段階のヤスリで削る。コンパウンドクリームをつけ、さらに布でゴシゴシ磨く。オイルで仕上げ。手首の爪は、びっくりするほどピカピカになった。つるつるでつやつや。本当に美しい。僕は手首をくるくる回したり角度をつけたりして、光の反射を楽しんだ。  マニキュアも塗ってみようかな。いや、こういうのって個人の趣味嗜好があるだろう。手首の声が聞けないのに、勝手に僕の好きな色を塗るわけにはいかない。その代わり、爪の長さは僕の好みにさせてもらった。深爪とまではいかないが、清潔感のある長さと丸み。清純な大人っていうかんじかな。このくらいが手首によく似合ってるように思えたんだ。  さらに三ヶ月がたった。冬に差し掛かると、手首はどうやら乾燥しがちらしい。親指の付け根がすこし白っぽくなっていた。  僕はタライにお湯をはり、ミルク色の入溶剤を入れて、ゆっくりと手首を沈めた。掌からつま先まで、やさしくじっくりマッサージしてみる。湯上がりにはさらにクリームを。これでとりあえず、手首は美肌を取りもどした。僕はホッとして、ふと、自分自身の手を見下ろした。うわっ、なんだ、ガサガサじゃないか。こんなので摩擦したら手首の肌によくないだろう。僕は自分もしっかり手浴し、爪を磨き、たっぷりのハンドクリームと手袋をつけて就寝した。二週間もすれば生まれて初めての美肌になった。そうしてやっと、手首を撫でた。  春が来た。  手首は春が好きらしい。肌艶もよくなり、桃色がかった掌は湿って温かく、素敵な香りがした。僕は初めて、手首といっしょに眠った。僕と同じ枕に並べる。横を向けば手首、百合のように指を開いてそこにいる。綺麗だ。なんて綺麗な手首、本当に可愛い手首。  好きだよ。と、僕は囁いた。  好きだよ。  大好きだよ。  愛してるよ。  僕は手首に顔を埋め、深呼吸した。顔いっぱいに手首の体温、胸いっぱいに手首のにおい。  僕はその夜、初めて手首にキスをした。  初夏の日曜日。僕たちはピクニックにでかけた。手首は可愛いバンダナに包み、人差し指だけを覗かせて、バスケットに入れて連れて行った。  さくらがおか公園は、家族連れやカップルで賑わっている。いつもと何も変わらない平和な光景。なんだか幸せの象徴みたいだよね。  僕たちも腰を下ろし、お弁当を食べ、お茶を飲んで、木陰から空を見上げ、あの白い雲は君の姿に似ているねなどと談笑を楽しんだ。  ふと鼻腔を、覚えのある香りがくすぐった。若葉の香り……桜の青葉だった。そしてこれは、初めて手首に出会った日の…… 。  そうか、あの時の君の香りは桜の葉だったんだね。今度この香りを探してみようか。さくらの青葉のフレーバー、オイルでも石鹸でもハンドクリームでも、一生懸命さがせば見つかるんじゃないかな。今日はもう日が暮れるから、来週に……。  まずは地元の商店街。それで見つからなければ、ちょっと遠出してみよう。  僕はときめきながら、手首をバスケットに戻し、立ち上がった。  楽しかったけどすこし疲れたね。今日はいっしょにお風呂に入ろうか。大丈夫、むやみにひっくり返して断面を凝視したりしないよ。  いつもの通学路を横断し、手首と一緒に帰宅する。  家の門の前に、人間が立っていた。  年若く、背の高い人だった。白い肌をしていた。片手が無い。  その人は僕に顔を向けた。目と唇の形を、真横へ細く広げていた。 「拾ってくれて、ありがとう。大事にしてもらえて嬉しかった……」  ふわりと、桜の葉の匂いがした。  僕はそのひとに背を向けて全力で駆けだした。どこまでもどこまでも遠くへ、誰にも追いつかれない遠いところへ、手首を抱いて逃げていった。
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