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第一章・過去からの来訪者
鴨川の土手に等間隔でアベックが並ぶ光景は京都名物の一つになっている。大学に入学したての頃は恋人と共に、その中の一組となるのに憧れていた。そして俺は今、三条大橋からほど近い先斗町歌舞練場の裏手辺りで、かなり歳上とは言え、そう滅多には、お目にかかれないほどの美人と共にその一組となった。
本来なら夢が叶ったと喜ぶべきところだろう、鴨川の土手に並ぶ恋人達の一組となり、隣の美人は心を許した恋人に寄り添うように俺の肩に身を任せてくれているのだ。まだ午前中だと言うのに、夏の京都ならではの身にまとわりつくような暑さの中では、肌と肌が触れ合うのは決して心地いいものではないが、たとえそうだとしても、その寄り添う人が美しく可愛らしい女性なら、きっと幸せな気分になれただろう、その美しい女性が、この浅井さんでさえなければ。
浅井さんは俺が修士課程の院生として在籍してる研究室の木下教授から全幅の信頼を得ている助教だが、男子院生に片っ端から手を付けるという素行の悪さ故に昇進できず、しかしながらその優秀さ故に馘首にもならず、博士課程修了後十年に渡り、彼女自身の研究で成果を上げると共に、教授の第一助手のような立場で研究室に在籍している。
しかし意外な事にと言うべきか、教授と浅井さんの間には男女関係がないばかりか互いに男女であることを意識さえしてないようだというのは研究室全員の共通認識だ。浅井さんは純粋に師匠として教授を尊敬し、教授は優秀な愛弟子として浅井さんを寵愛している。寵愛と言っていいだろう、いくら優秀とはいえ浅井さんの素行の悪さは懲戒ものだが、教授会でその話が出る度に、いかに浅井さんが優秀か、研究者に求められるのは素行の良さではなく優秀さであるという木下教授の演説が始まってしまうので、もう誰もその話題を口にしなくなったという。
その浅井さんがなぜ俺を気に入ってるのかわからないし聞く勇気もないのだが、木下研究室で浅井さんに気に入られて損はないし、浅井さんをよく知る研究室の他のメンバーから妬まれることもないので、俺は浅井さんの彼氏らしきポジションに収まっているのも悪くないかと思っている。悪くないかとは思っているが、浅井さんが今、俺の肩に身を任せているのは徹夜続きで疲れて寝崩れてしまっただけだと心得ているのが哀しい。
ふいに浅井さんが目を覚まし俺の顔を覗き込む。なにか聞きたいことがあるといった風だ。こんな風にじっと見つめられると未だにドキドキしてしまう。困った人ではあるが美人でもある。三十路はとうに過ぎて四十路も近いというのに、こんなにも肌が綺麗なのは、教授のお供で人前に出るとき以外は一切化粧をしないからだろうか、などと考えていると浅井さんが俺の目を見つめたまま口を開く。
「柴田君、彼女作らないの?石田君ちのラボに入ったら今より出会いがなくなるから今のうちに彼女作りなさい」
哀しい。目がうるうるするのを、しっかり見られた。
その時突然、鴨川の水面に爆音とともに巨大な水柱がたった。土手に並ぶアベックや三条大橋を歩く人達が一斉に水柱を見上げていた。俺も同様に水柱を見上げていたが、浅井さんを見ると彼女の視線は下の方に向いていた。俺もそちらに目を移すと、そこにはヒゲ面の男が一人立っていた。
「白装束……。チョンマゲ……」
俺があっけにとられているのをよそに浅井さんは土手を下り、水しぶきを上げながら、その男に向かって走り出したので俺も彼女の後に続いた。浅井さんは男の腕を掴み「こっちよ!」と対岸に向かって再び走り出した。何を考えてるんだこの人は、なにが「こっち」だ、どこへ連れて行くつもりだ。
「警察が来る前にタクシーで逃げるわよ。さっきのを見た運転手だと怪しまれるから東山まで走るわよ」
なんで逃げる。
俺達は鴨川を突っ切り、川端通り側の土手を上り、そのまま三条通を東に走った。浅井さんに言われるまま俺は東山三条でタクシーを捕まえると、浅井さんが先に後部座席に乗り込んで、持っていたトートバッグの中身を全部取り出してバッグをシートに置き、男をその上に座らせた。
「一乗寺までお願いします」浅井さんが運転手に告げる。俺の部屋に連れて行くつもりだ。
「なんで俺の部屋なんですか」浅井さんに耳打ちすると「私の家に男物の服がないからよ」という答えが帰ってきた。俺の服に着替えさせるつもりか。一応納得できる理由だが、ホントにそれだけですか浅井さん……。
男は終始無言のまま車の中や外、そして俺達をキョロキョロと見回してる。運転手が男の頭と身なりを見て「なんですか?時代劇の撮影ですか?」と尋ねたので「そうなんですCGの予算がなくて」と意味不明の返答をしてしまった俺の顔を見て呆れながらも、適当に話を合わせて浅井さんは運転手を言いくるめた。
「ここで止めてください」と浅井さんは俺の部屋から少し離れたところで車を止めさせ、俺と白装束の男を車から降ろすと「先に行ってなさい」と言って、そのまま車を走らせた。
「逃げられた……」
そう思ったが途方に暮れてもいられないので男を部屋に連れ帰り、そして何も言わないのもなんなので、なぜか「ろくにおもてなしもできませんが」と言ってしまってコップに水を入れて男に手渡した。男は終始面食らった様子で一言も喋らなかったが、恐る恐る口をつけたコップの中身が、ただの水らしいとわかると一気に飲み干し「すまんがもう一杯」と言ってコップを差し出したので、今度は氷を入れて男に渡したが、これは失敗だった。
「なんだこれは?」と訝ったので俺も同じものを飲んで見せると男も飲んだのだが、素っ頓狂な声で「これは氷か!夏に氷が、あ、あの箱はなんだ!貴様何者だ!」と冷蔵庫を指差しコップを落とし、敷きっぱなしの俺の布団を水浸しにした。氷を知らないわけではなさそうだが、冷蔵庫を見るのは初めてのようだ。「何者だ」は、こっちのセリフだと思いながら、俺は布団の上のコップと氷を片付けた。
20分ほどするとチャイムが鳴ったので扉を開けると浅井さんが何やら袋を二つ持って立っていた。俺の顔を見て「なに情けない顔してんのよ、逃げないわよ」と言うとドアに鍵をかけチェーンまでおろした。
「着替え用意しといて」と言うと、浅井さんは男をユニットバスに押し込め、袋の中身を取り出して自分も入っていった。袋の中身は理髪用のハサミと櫛、それに理髪用のケープだった。
「あの、せっかくの所、申し上げにくいんですが、ハサミと櫛くらいはうちにもありますよ」とドア越しに言うと、ちょっと間を置いて「ハサミは理髪用じゃないでしょ!こういうことは形が大事なの!」と怒鳴られた。
「負け惜しみだ」
そう呟いたが中に聞こえたらしく、ユニットバスの戸を蹴られた。
しばらくすると「なんだこれは!」と、また男が叫んだ。どうやら浅井さんがシャワーの使い方を教えてるらしい。浅井さんが男をユニットバスに残して出てくると、俺は男のために用意した着替えを浅井さんに見せたが、浅井さんが「下着は?」と聞くので「服を貸すのはやぶさかでないですけど、パンツを貸すのはちょっと……」と言うと、浅井さんは俺を押しのけて「つべこべ言わない」と勝手に箪笥の引き出しを開けて俺のパンツを取り出し俺に渡した。
「なんで俺に渡すんですか?」と尋ねると「多分履き方を知らないから履かせてやって」と、ご無体な事をおっしゃる。そこは履き方を教えるだけで勘弁してもらう事を承服してもらった。
「それで、なんであの男がパンツの履き方を知らないと思うんです?」
「三条河原に突然水柱が立って、中から白装束でチョンマゲの男が現れた。これは過去からタイムスリップしてきた罪人に決まってるでしょ」
なにが決まってるんだか、ホントに科学者か、この人は。
程なくシャワーを終えて出てきた男にバスタオルを渡し体を拭かせたあとパンツの履き方を教えてやったが、男はTシャツの着方を教えても自分で着ることができなかったので、俺は不承不承、子供に着せる時のようにバンザイをさせてTシャツを着せてやった。髷を落として髪を整えヒゲを剃り俺の服を着た男は、どこにでも居そうな普通の青年に見えた。俺より若いかもしれない。
浅井さんはというと俺の布団に座って理髪用具と一緒に買ってきたらしい缶ビールを開けて飲んでいて、俺にも一本缶ビールを、そして男には蓋を開けてやったものを一本手渡した。
「無茶ですよ!」俺は叫んだが、ビールを口にした男は案の定「なんだこれは!」と叫んで缶を落とし俺の布団にビールをぶちまけた。
やれやれと布団を干している俺にはお構いなしに浅井さんは二本目のビールを開け、男に持たせたコップに注いでやり自分はラッパ飲みでその残りを飲んでいる。
「これはビール。麦から作ったお酒よ。この苦味と泡が、そのうち癖になるから、まあ飲んでみて」
男はそれこそ苦々しい顔ですするようにビールを飲んでいたが、グビグビと一気に飲み干す浅井さんに負けまいとしたのか、やおらコップの底を持ち上げてビールを喉に流し込み、むせ返っていた。
「私は浅井、彼は柴田君。同じ大学……、同じ師匠のもとで学問をしているの。あなた名前は?」
男はむせ返りながら「五右衛門と申す」と答えた。布団を干しながら俺は振り返り「五右衛門……。石川五右衛門?」と男に尋ねると、なぜ知ってるという顔で「如何にも。私をご存知か」と男が答えた。
「あんた実在したんだ。あんたの事は芝居にもなってる。三条河原で秀吉に釜茹でにされた大泥棒で」と言ったところで五右衛門と名乗る男は大いに憤慨した。なんでも去るやんごとなきお方のご落胤の、そのまた娘が自分の母だと、やんごとないんだかどうだかよくわからない家柄の出で、秀吉の元で事務方のような仕事をしていたらしい。石川五右衛門というのも本名ではなく、処刑されるに当たり出自を隠すために勝手に付けられた偽名だそうだが、彼自身が縁者に迷惑がかからぬようにと、その名を付けられて以来は人に名前を尋ねられるとそう名乗ったそうだ。
「泥棒でないなら、なんで釜茹でにされるほど秀吉の怒りを買ったの?」
浅井さんがそう尋ねると五右衛門はこう答えた。
「茶々は生娘だった」
なんてやつだ。本来なら一族郎党、火炙りにされても不思議ではないくらいだが、やんごとないお方の血筋を尽く火炙りにするわけにもいかず、素性の知れない大泥棒という事にされて釜茹でになったのだという。
「私は盗賊ではない!」
盗賊の汚名を着せられ盗賊として名前を残したのは気の毒だが、あんた釜茹でにされても仕方のないことはしてるだろ。
ともかく三条河原で釜茹でにされることになり釜に入れられ火をつけられ炎が立ち上ったところで目の前が真っ白になり「ああ、炎が冷たい。これで私も終わりか」と思ったところが水柱の中に居たということらしい。
「それがなんで現代にタイムスリップすることになったかは後で考えるとして、この人が本当に過去から来たというエビデンスが欲しいわね」
そう言うと浅井さんは五右衛門が着ていた白装束を理髪道具が入っていた袋に詰めて部屋を出て行こうとする。炭素年代測定をやらせるつもりか。私費でやらせるにしても、どう説明してやらせるつもりだろう。
「とりあえず今日は、あなたの部屋に泊まってもらいなさい」
「布団がありませんよ」
「あなたは寝袋があるでしょ。今から大学に行くから持ってきてあげる。こんな天気だから布団もまあ乾くでしょう。問題はないでしょ?」と言うと、俺の返事も待たずに出ていった。
五右衛門と部屋に残された俺は、とりあえず彼が今置かれている状況をネットも使いながら説明しようとした。彼が釜茹でにされたとされる時から四百年以上も経っていること、秀吉が亡くなり家康の天下になったこと、江戸幕府は二百年以上続いたが、外様大名の若手家臣達を中心にした勢力が帝を擁うして徳川を倒し立憲君主国家が生まれたところまでは俺のおぼつかない歴史の知識でも説明できたが、大戦を経て今の象徴天皇制に至る経緯については五右衛門を納得させることができなかった。そりゃそうだ俺にもよくわからない。民主主義や選挙制度も理解したが、資本主義については、いまひとつ理解できないようだ。
「要するに金持ちの商人が天下を握ってるということか?」と言うので「まあ、そんなとこだ」とお茶を濁した。
五右衛門がインターネットにさほど驚かなかったのは、タクシーやら冷蔵庫やらシャワーやらビールやらでさんざん驚いたので、もうなにがあっても不思議はないと達観してしまったからだろう。キーボードをかな入力にしてやると自分でも何やら調べ始めた。やはり秀吉のことは気になるようでウィキペディアを一通り読んでいた。
「この鶴松というのは私の子か?」
知るか。
「あれから関白殿下も色々大変だったようだな。結局家康に天下を取られて世継ぎまで殺されるとは」
自分を釜茹でにした男でも殿下と呼んでしまうのは、どういう心理なのだろうと考えていると、五右衛門が空を見上げるようにして呟いた。
「茶々は今際の際に私のことを思ってくれただろうか……」
だから知るか!
二時間ほどして浅井さんが帰ってきた。
「この人の言うことが本当かどうかも、あの白装束が本当に四百年以上前のものかも、まだわからないけど、あの白装束から微量の放射線が検出されたわ」
放射線のことは考えてなかった。浅井さんは最初からそのリスクに気付いていたと思うのだが、よく素手で持ったりしたな。目の前で見たことのない現象が起きれば追求せずにはいられず、身の危険にさらされるのも厭わないという科学者の性なのか。俺には真似できない。修士課程が終わったら、おとなしく就職しよう。
それからしばらくの間、俺達は浅井さんが追加で買ってきたビールを飲みながら互いの時代のことを取り留めもなく話し続けた。
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