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第二章・企て
「あなたに盗んでほしいものがあるの」
夜も更けた頃、唐突に浅井さんが切り出した。五右衛門は目を丸くして俺の方を見て浅井さんを指差し「この女は人の話を聞いてないのか!私は盗賊ではない!」と怒鳴った。
「そうだとしても茶々様の寝所に忍び込めるくらいなら泥棒くらいわけないでしょ」
何を考えてるんだこの人は。あなたは科学者としての興味から、この男を連れてきたんじゃないのか。
俺の方を向いて浅井さんは話を続ける。
「盗んでほしいものはハマイサゴの品種改良研究の資料と改良中のサンプルよ。その資料は紙に手書きの物しかなくて木下教授がいつも持ち歩いてるの。改良中のサンプルは保管倉庫に隠してあるわ。ラボにも少しサンプルがあるけど、それは簡単に持ち出せるわ。あなたが面倒を見てる子達の中にあるの」
面倒を見てる子達とは人ではなく、ラボで管理してる苗のことだ。
「そんなものがあるなんて聞いてませんよ。あれの研究は終わったんじゃないんですか?一体どこにサンプルを隠してるんです?」
「ラボにあるサンプルは培地に星の砂が一つ沈めてあるのがそう」
星の砂って……乙女ですか。
「倉庫にあるものは、保管してるハマイサゴの種籾の中に、一つだけラベルにブラックライトマーカーで目印を付けてるものがあるの。それが改良中のサンプルよ」
「木を隠すなら森の中ですか」
ハマイサゴは、木下研究室で開発した新種の陸稲で、サハラ砂漠と南極以外はどこでも育つと言われるほどの強い生命力を持ち、病虫害にも強く、しかも単位面積あたりの収穫量はブランド米として知られるアキアカネの1.5倍という品種だが、これがとんでもなく不味いのだ。ハマイサゴという名前は、砂を噛むように味気ないという自虐的な意味を込めて木下教授がハママサゴと名付けようとしたのだが、語呂が悪いし泥棒の辞世の句を連想するのでよろしくないという浅井さんの意見でハマイサゴに落ち着いた。この話は五右衛門に聞かせられないな。
ハマイサゴは家畜も食いつきが悪いほど不味いのだが、栽培のしやすさから、もっぱらバイオ燃料用として世界各地で栽培されている。木下研究室では、このハマイサゴの味を改良して食用にしようと研究しようとしていたのだが食料としての国内需要は既存の品種で充分満たされているので研究費が降りずに棚上げになったはずだった。
「教授は不味いとはいえ加工食品にすれば充分食べられるはずのハマイサゴが収益性の高いバイオ燃料にしか使われてないのが口惜しくて、教授と私だけで研究を続けてたの。味さえ改良できれば食用としても収益性が上がり、食用として栽培する農家や企業も増えて飢餓問題も解決できると信じてね」
「その恩師の研究を、なぜあなたは盗もうとするんですか?」
「教授が、ある人と会ってから突然研究をやめると言い出したのよ。資料もサンプルも破棄しようかと。だから教授が処分する前に私の手元に保管して折を見て教授に研究を続けるよう説得するつもり」
「そのある人って?」
「あなたのお義兄さん」
俺の義兄。石田種苗の御曹司で取締役開発本部長。木下ゼミの卒業生で浅井さんの同期。俺が木下ゼミに入ったのも、旦那がいい職に就かせてくれるからという姉の勧めだった。義兄が学部卒業後すぐに石田種苗に入社し、わずか十年余りで開発本部長にまで上り詰めたのは、決して彼が御曹司だからという事だけが理由ではないと教授に聞かされていた。成績優秀とは言えなかったが、人をまとめる能力に長け、そういうことに関しては浅井さんでさえ口を挟まなかったという。教授がなぜ、義兄に会った直後に研究をやめると言い出したのかは浅井さんも聞いていないそうだが、おおかた研究費の援助を断られたとか、そんな所だろうと推測した。
「それで盗み出す計画だけど」
浅井さんが勝手に話を進める。
「ラボのサンプルは私がなんとかする。倉庫からサンプルを持ち出すのは、勝手のわかってる柴田君にやってもらうとして」
ちょっと待て。
「問題は教授が肌身離さず持ってる資料の方よね。これは教授が自宅に持ち帰えるのを見届けて、家の人がみんな寝静まった頃を見計らって五右衛門さんに忍び込んでもらうしかないわね」
「ちょっと待て!」
「ちょっと待ってください!」
五右衛門と俺が同時に叫んだ。
「何?問題は無いでしょ?」
「大有りですよ。五右衛門はともかく、俺にまで泥棒をやれと言うんですか?」
「ともかくとはなんだ!それと呼び捨てにするな小童!」
「あんたから小童と呼ばれるような歳じゃないぞ!」
それからも罵倒し合う俺達の間に浅井さんが割って入る。
「いい加減にしなさいよ!私達はもう引き返せない所まで来てるの!」
いや、まだ一歩も踏み出してませんが……。踏み出したくないです。
「計画は私が立てて準備するから、その間、五右衛門さんはここに居てもらうことになるわね。居候させて貰う代わりに家事を手伝うということでどう?」
浅井さんは、どんどん勝手に話をすすめていく。五右衛門を泊めるのは、とりあえず今日だけと言いませんでした?
「まあ私も行く当てがないので、そうしてもらうと助かる」
納得してるんじゃないよ。
「嫌ですよ、得体の知れない男と同居なんて」
「どうせあなたは、ほとんどラボに泊まり込みでしょ。泊まり込みがないときは私の家に来ればいいわ」
五右衛門が俺と浅井さんの顔を見比べ、そういう事かと納得したように頷き「なるほど問題は無いな」と言いやがった。
翌朝俺が目をさますと、五右衛門はすでに起きて布団を干していた。五右衛門は掃除をするからと、五右衛門が寝ていた部屋から追い出されてキッチンで寝ていた俺をキッチンからも追い出し、俺は寝袋を抱えてラボに向かった。
それからというもの、俺は洗濯物が溜まると部屋に持ち帰り五右衛門に預けて風呂に入ってラボに戻るという生活が始まった。男にパンツを洗ってもらうのは、あまりいい気持ちはしなかったが助かるのは助かるので任せることにした。もうパンツを貸すのは嫌なので何枚か買ってやったが、間違えて俺のを履かないようにと、俺のパンツに全部デカデカと『柴田』と書きやがった。なんで自分のに書かない。
五右衛門は、いたくネットが気に入ったようで手の空いた時には大抵パソコンの前に座ってる。「こちらのほうが速いから」と、いつの間にかキーボードもローマ字入力に変えていた。秀吉のそばに事務方として仕えていただけあって多少の外国語の知識もありアルファベットも問題ないらしい。特にお気に入りはレシピサイトだった。毎日自炊してるようだが、俺が洗濯物を持ち帰る日には必ず手料理を作って出迎えるということまでやり出した。気持ち悪いから、やめてくれ。
ある日「五右衛門が着替えを持って学食で待ってる」と浅井さんが言うので行ってみると五右衛門が着替えと弁当を持って待っていた。弁当を開けてみると事もあろうにキャラ弁だった。
「柴田殿が喜ぶだろうと浅井に言われて作ってみたのだが」
あの女……。
「良ければ毎日作って持ってきてやるぞ」
「丁重にお断りする。あまり、あの人の言うことを真に受けないでくれ」
「そうか残念だな」としまおうとしたが、せっかくなので頂くことにした。
「味は、まあ美味いな」
「そうであろう?遠慮はいらんから毎日持ってきて進ぜよう。キャラ弁でなければ良いのであろう?」
「あのね……。お気持ちだけ頂いておきます。それと今後この時代で生きていくつもりなら、その言葉遣いは直したほうがいいぞ」
「左様か?では、ようつべでこの時代の言葉を覚えるといたそう」
ようつべとか言ってんじゃねぇ。
浅井さんがどんな計画を立てているのか知らないが、時折り五右衛門と二人で出かけていた。男癖の悪い浅井さんと女たらしの五右衛門の組み合わせは最悪のようにも思えたが、磁石の同じ極同士が反発し合うかのごとく互いにそんな気は微塵もないようだ。それでも浅井さんは、五右衛門と一緒に出かけた日の夜には決まって俺を家に呼び、何もなかったと確かめさせるつもりなのか必ず俺を求めてきた。変な気を使わないでください。
一度だけ三人で連れ立って出かけたことがあるが、よせばいいのに浅井さんは俺達を南座に連れて行った。演目はもちろん石川五右衛門が主役の「楼門五三桐」 だ。案の定、五右衛門は帰りに立ち寄った居酒屋でも終始無言のまま苦虫を噛み潰したような顔でジョッキを傾けていた。
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