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第三章・決意
五右衛門が現れて俺の部屋に居候を始めてから一月半ばを過ぎた頃、五右衛門は山科に引っ越すと言って僅かな荷物をまとめて俺が部屋に帰るのを着物姿で待っていた。流石に着物姿が板についてる。
「柴田はん、えろうお世話になりましたな。浅井姉さんが、ワテを従兄弟やいうことにして、お華の師匠に紹介しとおくれやしたんどすが、その師匠に弟子入りさせていただいた上に、師匠が持っとおいやすアパートの部屋まで貸していただけることになりましたさかいに、そちらへ移らせていただきます」
お前You Tubeで何を観た。
「姉さんが、これからあんたはんも、なんとかして食べていかなあかんが、なんか特技は、おへんかと聞いとおくれやしたんどすが、利休さんに手ほどきを受けたことがおますと言いましたら、そらよろしおすわ、お茶の師匠を紹介してあげますさかい一緒に行きまひょ、と連れて行っとおくれやしたんどすが、今のお茶は利休さんのお茶と全然違いましてな、ワテこんなん嫌どすわとお断りしましたんどすが、ほな、お華はどないだす、と聞いとおくれやして、お華も心得がおましたさかい師匠のとこに連れて行っとおくれやしてな、その師匠がいきなり『いっぺんいけてみなはれ』と言わはったんで、いけてみましたところ、その師匠が『まあ、なんと雅な。ええ筋しとおいやすなぁ。明日からでも来とおくれやす』と言うとおくれやしたんどすが、姉さんが私の事情をその師匠にあんじょう話しとおくれやしたら『まあまあ、それは難儀なことどすなぁ。そしたら丁度私が持っとりますアパートのお部屋が一つ空いてますさかいに、私のお手伝いして貰う代わりそこへ住まはったらよろし』と言うとおくれやして、その上に師匠が懇意にしとおいやす、お花屋さんで働かせていただくことにまでなりました。ほんま姉さんのおかげどすわ。あんなええ姉さんと懇ろにならはって、柴田はんは果報者どすなぁ」
頭痛がしてきた。
そして五右衛門は居住まいを正して「とにかくこれだけお世話になった人からの頼み事は断れまへんわな。ワテは決心しましたで。柴田はん、あんさんも腹くくりなはれ!」と言い両手で俺の肩をぐっと掴んで真剣な眼差しで睨みつける。首を縦に振らない限り離さないとでも言いそうだ。浅井さんが五右衛門を連れ出していたのは五右衛門に職と住まいを世話してやるためだったのか。その代りに盗みを手伝えと。
「あんさんいつまでも、しっかり者の嫁はんの尻に敷かれた頼んない婿はんみたいなんでよろしおすのんか?これは姉さんに頼まれたから言うてんのと違いまっせ!ワテと一緒に男になんなはれ!」
五右衛門はすっかり浅井さんに丸め込まれてしまっている。ここで俺が断っても浅井さんは俺にやらせようとしたことを自分でやるだけだろう。
「わかったよ、やろう。あんたが山科に行く前に浅井さんの家に行こう」
日が落ちかけた頃に俺達は二人で北白川の浅井さんの家を訪ねた。浅井さんは小ぢんまりとした一軒家に一人住まいだ。俺からの連絡を受けて浅井さんは、すき焼きを用意して待っていた。純米大吟醸も用意してあったが五右衛門はビールを所望した。あまり酔いが回らないうちにと浅井さんは計画を話し始めた。
「まずは柴田君にサンプルをすり替えてもらう」
浅井さんは、ハマイサゴと書かれたラベルが貼られてある、種籾が入った保存容器とブラックライトを俺に手渡した。
「私がラボの外から柴田君に電話をかけるから、あなたは適当な言い訳を作ってラボを抜け出しなさい。そして倉庫に寄ってサンプルをすり替えるの。それを私の家の宅配ボックスに入れて、そのまま自分の部屋に帰りなさい」
適当な言い訳……。俺の親でも入院させるつもりだ。
「教授が資料を持って家に帰るのを見届けたら私は車で五右衛門さんを迎えに行くわ。柴田君はカーナビのデータを書き換えるくらいできるわよね?」
一端の犯罪者じゃないか。俺をアリバイの証人にするつもりだ。盗みが終わったら俺の部屋に来て、俺の部屋に泊まっていた事にするつもりだ。そして浅井さんは何度か訪れた際の記憶で木下邸の見取り図を書いて、それを指さしながら役に立ちそうな情報を五右衛門に教えた後に、その見取り図と、浅井さんが隠し撮りした、木下教授がいつも資料を入れて持ち歩いているカバンの写真を五右衛門に手渡した。
「決行は明後日の月曜日よ。今日は前祝いで飲み明かしましょう。そして明日は決行に備えてゆっくり休んでね」
俺と浅井さんは純米大吟醸をちびちびとやりながら、すき焼きをつつき、五右衛門はビールをがぶ飲みしながら美味い美味いと遠慮なしに肉ばかり食べていた。そしてその時に五右衛門は、自分が京言葉を覚えようとした切っ掛けは、You Tubeで何かを見たからではなく、映画「舞妓Haaan!!!」をDVDで見て京言葉を気に入ったからだと話した。俺に気付かれないよう密かに京言葉を練習して、今日の佳き日にお披露目したということだ。五右衛門にそんなものを見せたのが誰なのかは言うまでもない。
夜も更けた頃、浅井さんは酔いつぶれてしまった五右衛門に毛布を掛けてやり、俺の袖を引っ張って奥に連れて行こうとする。
「ちょと……。五右衛門が起きたらどうするんですか」
「大丈夫よ、寝た振りができないほど無粋な男じゃないわ、この人は」
そして普段はアップにまとめてある長い髪を下ろして、半ば強引に俺をベッドに連れ込んだ。茶々の寝所に忍び入り処女を奪ったというとんでもない男が寝息を立てる部屋の隣で、酒が入ってるせいかいつもより激しく乱れる浅井さんの声が五右衛門を起こしはしないかと冷や冷やしながら俺は彼女を抱いた。
昼近くになって俺と浅井さんが揃って五右衛門が寝ていた部屋に入ると、五右衛門は毛布をきちんと畳んで正座して俺のスマホをいじっていた。
「おい!なんで暗証番号知ってるんだ!」
「浅井姉さんの誕生日ですやろ?そんなわかりやすい番号はあきまへんで。心配せんでもプライバシーに関わるようなもんは見てしまへん。暇つぶしに、ようつべ見てただけですさかい」
「そういう問題じゃない!大体なんで浅井さんの誕生日を知ってるんだ」
俺はスマホを取り上げて五右衛門を睨みつけたが、俺と浅井さんが一緒に部屋に入ってきたことには一言も触れずに帰り支度を始めた。確かに無粋な男ではないようだ。浅井さんはご近所に挨拶するときに持って行きなさいと、老舗和菓子屋の菓子折を一抱え五右衛門に持たせて見送った。俺は浅井さんのために紅茶を淹れ、部屋に帰って少し寝ると言って浅井さんの家を出た。
決行の前夜、俺は一夜漬けでカーナビのデータ改ざん方法を覚え、少し仮眠を取ろうとしたが結局一睡もできなかった。しかしラボに出ると妙に落ち着いてしまって、打ち合わせ通り浅井さんからの電話を受けると、俺は母を階段から落として脚の骨を折らせるという親不孝を働いてラボを出た。
サンプル保管倉庫に誰も居ないのを確認してから中に入り、いくつかあるハマイサゴのサンプルのラベルを、浅井さんに持たされたブラックライトで順番に照らして目当てのものを探していると、ブラックライトマーカーでI Love Youと書かれたものを見つけた。当然、浅井さんが書いたものだ。まったく何を考えているのか、よくわからない人だ。
俺はそれを持ち出し、言われた通りに浅井さんの家の宅配ボックスに入れて自分の部屋に戻り横になると、徹夜した疲れと、緊張から開放された安堵感からかウトウトしてしまったが、冷静になって考えると、もしもバレたら除籍どころでは済まないかも知れないことをやってしまったことに今さら気づき全身に冷や汗をかいた。浅井さんから電話があったら今度ばかりは一言言ってやろう、いや一言じゃ済まない、などと考えるうちに眠ってしまった。
午後八時を回った頃に浅井さんから電話があった。
「ご苦労さま。意外と落ち着いてたわね。これから五右衛門さんの家に行って夜半まで待機するわ。それから彼を教授の家の近くまで送って、私はそこで待機して、侵入のタイミングは彼に任せる事にする。資料を手に入れたら五右衛門さんを家に送ってからそっちに行くね。起きて待ってなくていいから先に寝てなさい」
「起きて待ってますよ。気をつけてくださいね」
「心配してくれてありがとう。ごめんなさい……。じゃあ切るね」
一言言ってやろうとは思いながらも、俺は浅井さんが来るかも知れないから、五右衛門が置いていった食材で適当に何か作ろうかと何も食べずに待っていたのだが、そういうことならラーメンでも食うかと外に出ることにした。ここ一乗寺は有名なラーメン屋が多く、わざわざ遠方から食べに来る客も多いのだが、近所に長く住んでると有り難みもなくなって滅多に行こうとも思わない。だが、ここしばらくは部屋に戻っても五右衛門が何か作って待っていたため外で食べることもなかったので久しぶりに食べたくなった。お気に入りの店は、その日によって変わる。待たずに入れる店が、その日のお気に入りの店だ。
午前二時を過ぎた頃、浅井さんから俺のLINEに、親指を上に立てた拳のスタンプと、盗み出した資料の封筒を持った五右衛門と一緒に写った自撮り写真が送られてきた。それからずっと待っていたが結局浅井さんは朝まで俺の部屋に来なかった。
一寝入りしてからラボに出ると、浅井さんはまだ姿を見せてなかった。教授がラボに来るなり「浅井君はどうした」と俺に聞いてきた。この時俺はようやく気がついた。ハマイサゴの資料が盗まれたなら、犯人はその存在を知ってる浅井さんしかあり得ないじゃないか。俺は大馬鹿者だ。アリバイ工作なんか何の意味もない。浅井さんが俺にアリバイ工作を示唆したのは自分が姿を消すつもりなのを俺に気取られないようにするためだったのか。俺はラボを出て浅井さんに連絡を取ることを試みたが、予想通りあらゆる連絡手段が使えなかった。淡い期待を持って、そのまま大学を抜け出し浅井さんの家に行ってみたが、やはりもぬけの殻だった。俺が意気消沈してラボに戻ると、教授は半ば放心状態で只々ラボのメンバーの顔を、ひとりひとり確認するように見ていた。何度見ても浅井さんは居ないとわかっているのに俺が声をかけるまでそれをやめなかった。
浅井さんが出奔してしまったので俺は教授から直々に修論の指導を受けることになった。その間、俺も教授も浅井さんの名前を一度も口に出さなかった。修論が書き上がり、それを読み終えた教授が「なかなかいい出来やな。大学に残る気はないか」と言ってくれたが「私に浅井さんの代わりはできませんよ」という言葉を飲み込んで「義兄を説得していただけるのなら」と答えたら教授は笑って俺を送り出してくれた。
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