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第三部 そこは愛しきアクアリウム
職場を出た寛子は、流れるような動作でチェスターコートのポケットからスマートフォンを出した。
チャットアプリを立ち上げ、一佳に『今から帰るけん!』と、かわいいキャラクターのついたスタンプを送信する。
考えてみれば、義務教育の頃から、頑なに方言を使わず、標準語で話そうと意識してきた気がする。
なんとなく、祖父母のする話し方を若い自分たちが写すのは、「イケてない」空気があったからだと思う。
だが、東京に住み始めてしばらく経ち、ストアでこのスタンプを見た時、きゅん、と胸が疼くものがあった。
きゅん、は、仕事先で同郷の人と出会った時や、駅で出身県の観光ポスターを見た時にも発生する。
ほのかに甘い糖衣で、故郷への複雑な気持ちをくるんで呑み込んでしまった、ような。恐怖心と表裏になった、ときめき。
――やばい相手への、恋心に似てる。
封印した胸の奥が、思い出すたび、疼く。
こちらを思いやってくれなかったり、お金が出て行くばかりだったり、持ち出しが多くて返って来ないような、人生を持ち崩しかねないものを招く感情は、バグとして無視してしまうしかない。
足元不安定な時代なら、尚更、下手は打てなかった。
――遠くで思う分には、実際より良く見えるのが、また、なんともなぁ。
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