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松山商店のばあちゃん 本編
わたしの家の近くには、古い駄菓子屋さんがある。名前は松山商店だ。
大学生になった今でも、ときどき店主のおばあちゃんを見かける。彼女はいつも変わらず、ニコニコしながら店の前を通る子供たちを見送り、お気に入りの丸い椅子に座っていた。
この町の子供たちはみんな、彼女のことを "松山のばあちゃん" と呼んでいた。
松山のばあちゃんは、昔からずっと "ばあちゃん" だった。最近じゃ、だいぶ小さくなって、もっと髪が白くなった。おばあちゃん度が増したとでもいうか。
進学のために街へ出たわたしは、もうずいぶんと長いこと、駄菓子を買っていなかった。大人に近づいた今、自分にそういうものが必要だとは思えなかったからだ。
そんな日々が続いていた、とある連休の日曜日のことだ。わたしは通り過ぎようとした松山商店の前で、なんとなく足が止まった。
ザルに入れられたお菓子たちが、綺麗に並べられていて、昔となにひとつ変わっていない。
私にも、好きなお菓子は山ほどあった。
ばあちゃんはいつだって、笑顔で「どれにする?」と優しく聞いてくれた。「おまけだよ」と小声で言って、わたしの好物のビーフジャーキーをこっそり袋に入れてくれたこともあった。
そんなことを思い出しながら、わたしは、店先の椅子にちょこんと座っているばあちゃんに声をかけてみる。
「ばあちゃん、久しぶり。元気? 分かるかな? わたし、紀子だよ、そこの、佐田の長女」
「……はぁ、どちらさんだったかねぇ?」
「忘れちゃったかあ」
近くで見たばあちゃんは、思ったよりずっと、しわくちゃだった。
「……小さい頃にね、ばあちゃんのところでいっぱいお菓子を買ったんだよ! これ! これが好きで。ばあちゃん、よくおまけしてくれたよね!」
「そうかねぇ」
ばあちゃんの声は懐かしい。
いつだって、このお店は開いていて、嫌なことがあった日も、ばあちゃんの顔を見ることが出来た。
いつの世も、子供たちのお小遣いには限りがあるものだ。みんな、いつでもお菓子が買えるわけではなかった。
でも、買えるものがなくても、彼女の笑顔に差はなかった。ばあちゃんは本当にわたしたち子供を好きでいてくれている。そう思えた。
「……あぁ! 佐田さんとこの紀子ちゃんかね?」
唐突に、ばあちゃんがそう言った。
「わ、思い出した? 久しぶりにこっちに帰ってきたんだ! せっかくだから、なにか買おうかな」
「そうかね、そうかね。ずいぶんと大きくなったねぇ」
そう言うと、ばあちゃんは立ち上がり、せんべいとジャーキーをひとつずつ掴むと、買うとき専用のかごに入れて渡してくれる。
「あげるよ。好きだったろう?」
「え! いいよ! もう買えるからね! バイトだってしてるんだよ」
「そうかね、立派になったねぇ」
ばあちゃんは、いつものようにニコニコと笑っていたが、不意に、なにかを思い出したように、ゆっくりゆっくり店の奥に入っていく。
わたしは特に気にも留めず、お菓子たちを物色していた。
「あのねぇ、もしよかったらねぇ、これ」
そう言って彼女が笑顔で差し出してきたのは、とても古そうな本だ。
「え……。これ、なあに?」
「好きだと思うんだよねぇ。あたしゃ、もう使わないからね。持っていっておくれよ」
「えーっと……」
松山のばあちゃんは、認知症が出始めている、と母が言っていたことをわたしは思い出す。
そういったもののせいで、ばあちゃんはわたしのことを、誰かと勘違いしてるんじゃないか? と考える。
「わかった、貰っておくね! ありがとう。あのね、このかごのやつ、くださいな」
「はいはい」
そう言うと、ばあちゃんはふわりと笑ってそろばんを取り出す。彼女愛用の古ぼけた代物だ。
「十円ひとつ――五十円がふたっつ――」
そう呟きながら、勘定をするばあちゃんの声を聞いていたら、子供の頃に戻ったような気分になった。
「ありがとうねぇ」
「うん! また来るね、ばあちゃん」
「はいはい、いつでも待ってるよ」
ばあちゃんはそう言って、手を振りながら笑う。わたしはなにも考えずに、ばあちゃんとさよならをした。
でも、それがばあちゃんと話をした最後になった。
そのすぐあとに、ばあちゃんは死んだ。
九十八歳だった。大往生だと、近所の誰もが言うほど、穏やかな死に顔だったらしい。
あの日――久しぶりに駄菓子を買った日、わたしは、ばあちゃんから貰った本を、家に帰ってすぐに見た。
けれど、中にはなにかの型紙の作り方や、洋服の縫い方が書いてあるだけで、わたしが使えそうなものには思えなくて、それを仕舞い込んでしまった。
あとから、ばあちゃんが亡くなったと、母から聞いたわたしは、すぐに松山商店に向かった。
店のシャッターは閉まっている。とても静かだ。
玄関の方に回ると、息子さんらしき人が顔を出す。
彼が店に出ているところは見たことがなかった。つまり、初めて見る顔だ。
「こんばんは。同じ町内の佐田の長女です。……あの、これをお返ししたくて。ばあちゃんから貰ったんです。亡くなる前に」
わたしは彼にそう告げると、ばあちゃんから貰った本を差し出す。
すると、息子さんは驚いたようにわたしを見た。
「……母があなたに、これを?」
「はい……。『好きだと思う』って言われたんだけど、わたしには全然、分からなくって。だから、お返した方がいいかなって思ったんです」
「……少し、上がっていかれませんか?」
息子さんの提案に、わたしは戸惑いながらも頷いた。
◇
ばあちゃんの遺影に手を合わせてから振り返ると、息子さんの奥さんがお茶とお菓子を用意してくれている。
「あっ! 大丈夫です、そんな。お茶なんて……」
「いいんですよ、大したものじゃありませんから。お口に合うといいけれど」
そんなをやりとりをしていたら、息子さんが木の箱を持って部屋に入ってきた。
「すみません、お待たせして。……これは、母が生前大切にしていたもので……。なんでも若い頃に買ったものらしいです」
中に入っていたお人形を、彼が取り出した瞬間、私は以前、ばあちゃんと話したときのことを思い出した。それはとても鮮やかに蘇る。
あれは、ずっとずっと昔のことだった。まだ、わたしが小学生だった頃だと思う。
松山商店のショーウィンドウの高いところに、いつも可愛らしいお人形が飾ってあった。
わたしはその人形が大好きだった。特に、レース付いた靴下がお気に入りで、ばあちゃんに『いつか、大きくなったら、このお人形さんを売ってほしい!』と頼んだことがあったのだ。
『そうだねぇ……紀子ちゃんが大きくなってもまだ欲しかったら……。あげようかねぇ』
ばあちゃんは困った顔で、でも少し嬉しそうにそう言っていた。
それが今、わたしの手の中にある。
「母は、その人形の洋服や帽子など、手作りしていました。その型紙や縫い方がそこに書いてあります。母自身、書き足したりもしていました。そんな後ろ姿を見て育ったんですよ、僕は」
息子さんの話を聞きながら、部屋の隅に置いてあるミシンの前で、書き物をしているばあちゃんが振り返って笑うのが、スッとイメージ出来た。
なぜかはわからない。ばあちゃんの家にいて、ばあちゃんが使っていたものに囲まれているせいかもしれない。
「佐田さん。これをあなたに渡したということは、母はこの人形も一緒に渡したかったのではないかと……」
「あの……。確かにわたしは……そのお人形さんが大好きでした。欲しいと言ったこともありました。だけど……なんで、わたしに?」
「母は……その本を誰にも見せようとしませんでした。息子の私にも分からない場所にしまってありましたから。だから……なにか意味があるのかなと思ったんですよ。あ……小さなものではありませんから、邪魔になるかもしれませんね。もしも迷惑でなかったら、という話です」
そう言って、ばあちゃんに似た顔の息子さんは笑った。
結局、わたしはお人形を貰ってきた。
人形の本名は、なんとかドールというらしい。息子さんが説明してくれたけれど、わたしはすぐに忘れてしまった。
本当の名前は知らなくても、お人形はとてもかわいい。
部屋に飾って、ばあちゃんの本を見ながら頑張ってお裁縫もしている。
これは、ばあちゃんからのプレゼントなのだろうか。
わたしが欲しいと言ったことを、覚えていてくれたのだろうか。
ふと、
──縫い物くらいはねぇ、出来た方がいいよ、紀子ちゃん。ねぇ──
という、松山のばあちゃんの声が聞こえた気がした。
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