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「俺、仕事辞めるから」
「えっ、何を言っているの。辞めてどうするつもり」
「小説家になろうと思う」
「はぁ、馬鹿じゃないの。あんたが小説家になれるわけがないじゃない。しっかりしないさい」
「でもさ、やってみないとわからないだろう」
「頭を冷やしなさい。あんたには無理。それにもういい年でしょ」
片瀬恭吾は公園の東屋で母の言葉を思い出して溜め息を漏らした。
母の言葉のマシンガン攻撃に耐えられず雨が降っているのもかまわず傘もささずに飛び出し今ここに居る。びしょ濡れだ。服が体にはりついて気持ち悪い。自業自得だ。しかたがないか。それにしても雨宿りできる東屋があってよかった。しばらくここで頭を冷やそう。
『小説家』か。
やっぱり自分には無理だろうか。仕事を辞めてまですることだろうか。仕事をやりながらでも小説は書ける。いや、どうだろう。仕事をしながら小説を書くことはおそらく自分にはできない。仕事疲れできっと寝てしまう。その程度の心構えで小説家になろうなんて思っているならやらないほうがいい。
母さんの言う通りだ。頭ではわかっているつもりだ。けど書きたい。この感情がどこから湧き出てくるものなのか自分でもよくわからない。
書きたい、書きたい、書きたい。
でも……。
恭吾は再び溜め息を漏らし項垂れる。すると、足元に一匹のシマシマの猫が上目遣いでこっちをみつめていた。
「なんだ、おまえも雨宿りか」
猫は何も答えてはくれない。当たり前だ。猫は水が苦手だって聞くし、おそらく雨宿りにきたのは間違いないだろう。野良猫なのだろうか。そのわりには毛並みが綺麗だ。飼い猫なのかもしれない。散歩途中に雨に降られて雨宿りってところだろうか。それとも自分と同じで逃げ出して来たとか。
シマシマ猫が飼い主に怒られて飛んで逃げる風景が浮かんで恭吾は思わずにやけてしまった。
何を考えているのやら。妄想が過ぎる。
妄想癖のある自分はやっぱり小説家向きかもしれない。いや、そうとも言えないか。妄想好きが小説を書けるかどうかはわからない。
うぉっ。
突然、猫が膝上に飛び乗って来て仰け反ってしまった。
「驚かすなよ。シマシマさん。と言ってもわからないか」
恭吾は猫の瞳をじっとみつめてから瞬きをした。すると、シマシマ猫も瞬きをした。瞬きは猫の挨拶だとどこかで聞いた記憶があった。瞬きを返してくれたってことは本当にこれが挨拶ってことなのだろうか。そうだったら嬉しい。
恭吾は「可愛い奴だな」と呟きシマシマ猫の頭を撫でた。目を細めて気持ち良さそうにしていた。少しだけ喉も鳴らしている。
「なあ、シマシマさん。僕の話すことわかるか。話せなくても言葉はわかるんじゃないか」
思わずそんなことを口にしていた。なんとなくだがそんな気がした。
「なあ、よかったら僕の悩みを聞いてくれるかい」
シマシマ猫はまた瞬きをした。まるで『いいよ、聞いてあげる』とでも言っているみたいに。
「そうか、そうか。聞いてくれるか。あのさ……」
恭吾はシマシマ猫に仕事を辞めて小説家になろうと思っていること。それが無謀なことなのかと相談し始めた。もちろん、返答はない。
返事はなくてもよかった。誰かに聞いてほしかった。たとえそれが猫だとしてもだ。話すことで少しだけ気持ちが落ち着ける気がした。
気づくとシマシマ猫は膝の上で寝てしまっていた。
それにしても人懐っこい奴だ。悩みは解消していなけど心は癒された。
大きく深呼吸をして空を見上げた。まだ雨はやみそうにない。しばらく猫とここにいよう。気持ち良さそうに寝息をたてている猫の頭を撫でているとなぜだか自分も眠たくなってきた。ちょっとくらいならここで寝てもいいかもしれない。雨だし誰も来ないだろう。
瞼を下ろすとサーーーとの雨音のBGMが更に眠気を誘う。どこかの河原にでも遊びに来ているかのような錯覚に陥った。雨ではなく川の流れがそこにあるようだ。
そういえば子供の頃、河原でバーベキューをしたことがあった。あれはどこだったろうか。旅先だってことは憶えているがどこだったかはよく憶えていない。茨城だったろうか。栃木だったろうか。群馬だったかもしれない。ダム建設反対なんて看板がふと脳裏に蘇る。もしかしたらあの場所はもうダムの底になってしまっているのかもしれない。
自然がたくさんある素敵な場所だった。懐かしくもあるが寂しい気分にもさせる思い出だ。
そうそう、泊まった宿にはハーフの女の子がいたっけ。
山奥の小さな旅館に青い目をした色白の可愛らしい女の子をみつけてちょっと不釣合いのように感じたのを思い出す。あのとき一目惚れしてしまった記憶もある。勇気が持てずに声をかけられなかったけど。旅館の子だったのか親戚の子だったのかはっきり憶えていないが旅館の関係者なのは確かだ。
恭吾はいったい何を思い出しているのだろうとフッと微笑んだ。あの頃に戻りたい。もう一度人生をやり直したい。そんな思いに囚われた。決してハーフの女の子に会いたいわけじゃない。今の自分ではない別の人生を一からやり直したいだけだ。
もちろん、人生のやり直しができるわけがないとわかっている。わかっているけど、もしも戻れたのならもっといい人生になったのではないかと思ってしまう。
小説家になりたいと思ったのもそこに要因があるのかもしれない。
小説家となれば小説の中だけでも理想の人生像を描いて満足できるのではないだろうか。
いや、違う。
今の現状から逃げ出したいだけだ。逃げることができれば小説家でなくてもいい。そうに違いない。会社勤めが嫌なのかもしれない。嫌な上司と仕事がしたくないだけかもしれない。それとも、ずっと家でのんびりしたいだけなのか。家で仕事ができたら楽だと思っているのかもしれない。それで小説家なのか。そうだとしたら馬鹿だ。
小説家が楽な仕事のはずがない。無から物語を創り出し読者を喜ばせる作品に仕上げるのは至難の業だ。人を感動させたり怖がらせたり腹を立てさせたりほっこりさせたり自分にできるのか。ちょっと妄想をして楽しむのとはわけが違う。
恭吾は胸の奥に澱が溜まっていくのを感じた。
眠かったはずなのに結局眠れずにいる。いろいろと考えたあげく自分のダメさ加減を再認識させられた。それでも膝上の猫のぬくもりにホッとさせられて自然と笑みが漏れる。
恭吾は瞼を上げて膝上の猫を見遣る。シマシマ猫は起きる気配がない。猫はよく寝ると聞くが本当だ。
「おや、お客さん。お目覚めになりましたか」
えっ、誰。
顔を上げて恭吾は口をポカンとあけてしまった。
ここはどこだ。確か自分は公園の東屋で雨宿りをしていたはず。あたりを見回して首をかしげた。
「夢でも見ましたか。ここは傘猫堂ですよ。雨宿りしたいからって声をかけてきたじゃないですか。お忘れですか」
そうだったろうか。
あれ、この人。色白で青い目をした女性が目の前に。ショートカットで綺麗なブロンドの髪が良く似合っている。旅先で出会った旅館のハーフの子によく似ている。あの子が大人になったらこんな感じかもしれない。まさかとは思うが。
いや待てよ。あのときのハーフの女の子の顔って本当にこんな感じだったろうか。はっきり思い出せないじゃないか。似ていると思い込んでいるだけだ。そうだったらいいと淡い期待を抱いているだけだ。本当に自分は馬鹿だ。
「どうかしましたか」
「あっ、いえ」
「まだ雨はやみそうにないですからね。ゆっくりしていってくださいね」
女性はそう話すと緑茶と草餅を出してくれた。
いったいここは何の店なのだろう。確か『傘猫堂』と口にした。名前からしたら傘専門店なのかもしれないが、店内には傘は見当たらない。緑茶と草餅を見遣り和菓子屋かとも思ったがそうでもなさそうだ。もちろん、お茶屋でもない。はっきり言って商品らしきものはどこにも見当たらない。
「あの、ここは何屋さんなんですか」
「ここですか。ここは心の雨露をしのぐ心の傘屋ですよ。あっ、申し遅れました。私は店主の心寧といいます」
心寧と名乗った女性はニコリとして横に腰かけた。
あっ、良い香りがする。その瞬間鼓動が速まった。惚れてしまいそうだ。待て、待て。落ち着け。今確か、変なことを話しただろう。
『心の雨露をしのぐ心の傘屋』だなんて。いったい何を言っている。おかしいだろう。どこか頭のネジが一本緩んでいるのではないか。チラッと隣の心寧に目を向けてすぐに膝上の猫に目を移す。面と向かってそんな失礼なことは言えない。この店を出たほうがいいだろうかと思ったが外は雨脚が強まっている。傘を借りればいいかと言おうとした瞬間、心寧が再び口を開く。
「どうやらあなたは悩みがあるようですね。今のままではあなたは前に進めませんよ。どんな選択肢を選んだとしてもうまくいきません。心の雨はやみません」
えっ、何。やっぱり変だ。
もしかして、これは夢なのか。それなら自分が悩んでいることを知っていてもおかしくはない。変なことを話しても頷ける。
「それなら僕はどうしたらいいと思いますか」
恭吾は話に乗ってみることにした。
「もっと深く自分と対話すべきですね」
「自分と対話ですか」
そう訊き返したとき心寧の瞳が一瞬光って見えた。そんなことってあるだろうか。やっぱりこれは夢だ。そうとしか考えられない。きっと自分は公園の東屋で居眠りしているのだろう。
「私には見えます。あなたが本気で小説家になりたいと思っていないことが。会社も辞めたくないんでしょう」
「えっ」
心寧が距離をつめてそう告げたとき、陽だまりの中にいるような優しい香りがふわりと鼻先を通り過ぎた。心寧の吐息もぬくもりも感じる。夢なのか、本当に。ならなんだ。現実だとでも言うのか。こういうリアルな夢もあるはずだ。そうだ、そうじゃないと説明がつかない。
「なるほど。そうね、あのクズ上司の下で働くのは嫌気がさしますね」
そこまでわかるのか。いやいや、夢だからわかって当然だ。
心寧は話を続ける。
「私だったら言っちゃいますね。『仕事は部下に任せっきりで手柄だけ持っていくクズ上司』ってね」
優しそうな顔でとんでもないこと口にする人だ。個人的には嫌いじゃない。
「言えませんか」
言えるものなら言ってやりたい。そんなこと口にしようものなら解雇されてしまう。
「あら、会社を辞めたかったんじゃないんですか」
「えっ、まあ。そうですけど」
どうやら心の声も心寧には伝わってしまうようだ。
「なら、いいじゃないですか。きっとスッキリするはずですよ。それに……あなた自身、それで変われるかもしれないですから。同時にあなたを取り巻く環境も変わるはずです。うまくいくはずです。あなたはずいぶん頑張ってきたようですし」
確かに頑張ってきたけど、本当にうまくいくだろうか。
「人生、そんなにうまくいかないと思うけど」
「ふふふ、まあ、それで何も変わらないとしたらそんなダメな会社さっさと辞めてしまいなさい。そこはあなたの居場所じゃなかったってことです。そのときはあなたが進むべき場所がみつかるはずです。私が保証しましょう」
保証って言われても。
「もしかして信じていませんか」
「はい」
「そうですか。残念ですね。けど、ここは信じてくださいと言うしかないです。クズ上司にバシッと言ってやってください。それで辞めることになったとしたら小説を書いてみてもいいですよ。ここで私と会った不思議な話でも書いてみてはいかがでしょうか」
「ここでのことをですか」
心寧は頷き「意外と高評価されると思いますよ。そうね、傘の売っていない傘屋の美人店主が悩みを解決なんてコンセプトがいいかもしれませんね」と微笑んだ。
恭吾は苦笑いを浮かべた。
自分で美人店主だなんて。けど、嫌味に聞こえない。
「面白いかも」
「ですよね。まずは上司にバシッとですよ」
心寧が突然手を握ってみつめてきた。その迫力に負けて「はい」と返事をしてしまった。
「ふふふ、『信じる者は救われる』ですからね。あっ、でもバシッと言わなくても辞表を出すだけでも大丈夫かもしれませんね。また会えて嬉しかったです。頑張ってくださいね」
えっ、またって。
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