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カツカツというヒールが地面と奏でる心地よい音がピタリと止まり、後ろから声をかけた俺と向き合うように女性は振り向いた。
おそらく隣の部署で働いてる女性ではないかと思う。何度か同じフロアで見かけた気もするが、コミュ障というか、人と関わりたくない俺はあまり人の顔を見ないので、確かな事は分からない。
傘と俺を交互に見て、女性は深々と頭を下げながら謝辞を述べた。
「すみません。傷がついてましたが、誰かが自分の傘に傷をつけたんだろうな、くらいにしか思わず、間違えて持ってきてしまいました」
普段あまり人と関わらない俺は、こういう時どうしていいか分からずテンパってしまう。自分でも分かっているが、こればかりはどうしようもない。
「あ、いやいや!勘違いなら仕方ないから!気にしないで!誰でもするから!勘違い!」
テンパりすぎて倒置法を使ってしまったが、女性は顔を上げてくれたので、当初の目的?は達成した。
こんなに疲れるなら傘の一本や二本、盗られても良かったんじゃないかとすら思ってしまう。
いや、今日を逃したら三本目。仏の顔も三度までって言うけど、俺は仏よりも心が広いようだ。
三本目でもいいかと思えてきてしまった。
いや、この場合は心が広いというより、小心者でビビりなことなかれ主義故なので、仏様と比べるのはおこがましい。
「すみませんでした、どうぞ」
女性は俺のほうに傘を差し出してきた。「あ、ありがとう」と別に言わなくてもいいお礼を言って傘を受け取った時、気付かなくていい事に気付いてしまった。
この女性は自分の傘と間違えて俺の傘を持っていった。そして傘立てには俺の傘と似たような傘はもうなかった。ということは、女性の傘はまた別の誰かが勘違いしてかは知らないが持っていってしまったという事だ。
ここで俺が傘を受け取って帰ったら、この女性は濡れながら帰るしかなくなってしまう。
それこそ気まずい。何とかこの傘を使って帰ってもうしかないが…。
「あ、いや、やっぱりこの傘俺のじゃなかったから、持ってっていいよ」
「…え?どういう事ですか?」
不思議そうな顔をする女性。緊張しすぎて何を言ってるのか自分でも分からなくなっているんだ。どういう事かなんて聞かないでくれ。
「だから、よく見たら俺の傘じゃなかったから、その傘は持ってっちゃってよ」
「意味がよく分かりません。こんな大きな傷間違えようがないですし、確信がないのに人が持ってる傘を自分の傘だって声をかけるタイプでもないですよね?それに、もし傘を間違えていたとして、持っていっていい、なんて言う権利ないですし」
「あ…え…えっと…」
「なんでこんな事を…あ、そうか。私の事を気遣って、自分の傘なのに私に譲ってくださろうとしたんですね」
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